
雨の成田空港。
里帰りからトルコ生活へのリハビリに努めているうちに早くも12月も半ば、日本はクリスマスやお正月、トルコはクルバンバイラム(犠牲祭)と新年で何かと浮き足立っていますね。
日本を発つ日、涙雨だったのか成田は雨が降っていました。飛行機はがらがらで窓際の2席を占領した喜びに水をさすように、機長から「電気系統故障の為離陸が15分ほど遅れます」との放送。機長だってトルコ人、そのトルコ人の言うこと、15分で直るはずがなく、ほぼ1時間後の離陸となりました。その間、スチュワデス達はもちろんうんざりとした顔をもろに見せ、客席の間を回りながら「offf、offf(オフ、オフ=うんざりした時にトルコ人が発する)」とつぶやいていました。ただでさえ飛行機の中では眠れず私にとって拷問の様な時間が更に1時間伸びました。映画も面白くないのに3本ともしっかりと観てしまい、嫌いだった「Mr.ビーン」を見て爆笑している自分に驚きました。

久しぶりに青空が見えた一日、朝から近所のお散歩へ。お気に入りの公園からの眺め。
21時過ぎにイスタンブル上空で着陸態勢に入ってからは住宅街の上を低空で飛ぶのですが、密集した高層アパートの窓々に灯る明かりが懐かしく「ああ、トルコへ帰ってきた」と実感。イスタンブル空港で荷物をピックアップし到着ゲートから出たことのある方はきっと記憶があると思うのですが、到着ゲートの外で食いつくような顔で待っているむさいトルコ親父達の顔、顔、顔、顔、顔、顔…。またまた「ああ、トルコだ…」。でもやっぱりひと目でわかるものですね、我が夫の心配そうな顔が見えました。2ヶ月の間に膨張した私にひきかえ随分やせて目がぎょろぎょろしていました。

公園から家へ戻る途中の景色。ここだけはどんなに暑い日でも風が気持ちがいい私のオアシス。
2ヶ月ぶりの対面なのにクールな夫、公衆の面前で恥ずかしかったのだそうです。この日は朝8時にイズミルの家をアンネ(義母)と一緒に車で出発し、イスタンブル在住の義弟の家へアンネを下ろして空港へ。10時間ほどの長時間運転の挙句に飛行機は1時間遅延。その上すぐにまた車でイスタンブルを後にし、イズミルへ帰る前に寄ろうと話していたDUZCE(デュズジェ)へとひた走ったのです。でも実は方向音痴の我が夫、DUZCEへの道は予想以上に遠かった。その様子は次回…。
リハビリをかねてトゥルシュ(漬物)を漬けました。



☆現在のイズミル☆


10月1日に1年半ぶりで里帰りをします。航空券はとっくに手にしているのですが電子チケットってなんだか実感がわかないもんですね。ただの紙っきれ…。ラマザンに入ってから毎週末は日本へ持って帰るお土産などを買いに出かけているのですが、水も飲めない日中、まだまだ暑いイズミルの人ごみをうろうろして夫と二人でへろへろになっています。
日本へ行ったらまずはこれとこれ!


旬だから4年ぶりに!大根おろしも。

胃袋2個持って帰りたいくらいです。


プラス+トンカツの写真も入れようかと思いましたが、「食べてもいいけどやっぱり食べたら悲しい」と言う夫が見るといけないので…。
でもトンカツね。
季節は秋、職場から毎年昼休みに駆けつけていたここへも行きたいし!

久しぶりに本を心行くまで買い込みたい!

秋の夜長、都会でコンサートや映画も楽しみたい!


写真を色々なところから拝借しながらだんだん気分が高揚してきました。
今回は夫を置いて一人での里帰りです。結婚してから離れて暮らすのは初めてのこと。トルコでは単独行動なんて日中の買い物くらいしかしていなかったので久しぶりに一人で飛行機に乗ることすら緊張してしまいそうです。ラマザン中に一人残していくのはちょっと気の毒なのですが、「両親のためにも行かなくちゃ」と言ってくれているのでありがたく行ってきます!

日本からも更新するつもりでおりますが、カルチャーショック状態が癒えるまで皆様のブログ巡回(?)も滞るかもしれません。でも忘れないでくださいね~♪
イズミル-イスタンブル-成田の往復航空券…これだけです。



☆現在のイズミル☆

YouTubeでご覧ください。これがラマザン太鼓!朝3時半頃ドカドカ聞こえてきます。
今年もラマザン(断食月)が始まりました。ラマザンと言えばラマザンピデとともに忘れてはならないものに「RAMAZAN DAVULCUSU(ラマザンダヴルジュス=ラマザン太鼓屋さん)」の存在があります。サフルと言って朝日の出前迄に(現在イズミルでは5時半頃)最後の食事を取るのですが、もちろん準備をする為に1時間くらい早く起きなければなりません。その為にちゃんと起こしに来てくれる人、それが「RAMAZAN DAVULCUSU」です。地区ごとに担当者がおり、真っ暗な夜道を太鼓を叩きながら練り歩きます。この人選は毎年市で行われているようです。ラマザンの中盤と終盤にはイフタル(日の入り後に取る断食明けの食事)の時間に自分の担当地区の家々を回ってご祝儀をもらいに来るので、市ではいんちき太鼓屋が出ないようにちゃんと顔写真つきの名札をつけさせているようです。
この「RAMAZAN DAVULCUSU」は遥かオスマン帝国時代から続くそうで、各家に目覚まし時計などなかった頃には欠かせないものでしたが、最近は目覚まし時計のないうちなどないし、断食自体をしない人が増えてきたこと、断食をしてもサフルの時間に起きずに寝る前に食べてしまう人もいること、太鼓の音を騒音だと思う人がいることなど、時代が変わるにつれ場所によっては「RAMAZAN DAVULCUSU」を廃止する自治体もあるようです。
今年の我が地区の太鼓屋さんはとってもノリがいい太鼓を叩いてくれます。3時半頃からたっぷり30分は名演奏を聞かせてくれます。でも遅く寝て寝つきが悪かった時など眠りかけたと思ったら太鼓の音で目が覚めて結局サフルまで…ということも。
それでもやっぱり私は、同じラマザンを共有していることを感じさせてくれる「RAMAZAN DAVULCUSU」はいつまでも続いてほしいなあと思います。

今晩のイフタルのソフラ(食卓)
今日はお友達夫婦がイフタルの食事に来てくれました。食事をすませてからイズミル湾を望む「インジルアルトゥ」と言うところまで海岸沿いをドライブしチャイを飲んでお開き。翌日仕事があるとなかなか夜更かしはできませんが週末の土曜日、気の合う友達と楽しいおしゃべりをしながら頂くイフタルの食事とチャイバフチェ(チャイガーデン)の煌々と光る灯の下で飲むチャイは今年のラマザンの良き思い出となりました。

いつもとっても仲が良くて見ているだけでこちらまで幸せになるご夫婦です。
イフタルの食事で最初に口にするHURMA(フルマ=ディーツ=ナツメヤシの実)



☆現在のイズミル☆


アナアンネ(夫の母方の祖母)が100歳で天寿を全うしてから早くも2週間が過ぎました。
9月になっても暑さは一向に衰えず、連日40度近い暑さの中天然ガスの工事がますますピッチを上げている為、暑さと騒音と土埃でもうなんだか夏ばてと言うよりも気が変になりそうになっている毎日です。そんなわけでブログの更新も滞りがちです。(言い訳…。)

海に並行して走る道路はブルドーザーで、それに直角に走る道は海に向かう坂道の為、車が使えないので手作業でコンクリートを砕いています。当初は9時に始まっていた作業が最近は8時半、今日など8時15分には始まってしまい、とてもトルコとは思えないのですが、ここ2週間は日曜日も返上で夕方も日が暮れる時間までお昼休み以外はずーっと機械の音が途切れません。

こんな状態でも車を完全には通行禁止にしないので、まさにarapsaci(トルコ語で
混乱状態のことをアラプサチ=アラブ人の髪の毛と言います)状態です。
うちはアパートの5階にあるのでまだましなのですが、1階や半地下にある家は土埃がたんすの引き出しの中まで入り込み、大げさではなくスコップでかき出せるほどの土がすぐにたまってしまうのだそうです。人生でこんなに掃除をしたことはないと言うくらい毎日拭き掃除をしているのにそれでも翌日には家具の上にも指で文字が書けるほど埃が積もります。いつかTVで見た西部劇の殺伐とした砂埃舞う光景そのもののイズミルです。
たまにあちこちで水道管や電気のケーブルを切断したりと、大騒ぎの天然ガス工事ですが、作業をしている方たちはこの暑さの中本当にご苦労様だと思います。
昨日の日曜日も朝寝坊をしたいところでしたが、工事の音で寝ていられるわけもなく早々に脱出。アナアンネのお墓参りに行って来ました。お墓までの道のりはずっと海岸沿いを走るので景色はいいし風は気持ちがよく、久しぶりに騒音を忘れて清々しい空気を胸いっぱい吸うことができました。

トルコでは土葬なのですぐに埋葬。
特に希望をしなければ無料で市の墓地に埋葬されます。墓石などはあとで用意していくようです。
アンネ(義母)とテイゼ(夫の叔母)は先週も2回行っており、そのたびにアナアンネのお墓に水がかけてあり心当たりがまったくないので誰がかけてくれたんだろうとずっと不思議がっていました。昨日その謎が解けました。墓地の敷地に隣接する土地の持ち主のおじさんが、昨日たまたま畑に水をやりに来ていて話しかけてくれたのですが、お姉さんを最近亡くされ、アナアンネのお墓の隣に埋葬されたのだそうです。アナアンネの周りはそのおじさんのご家族がたくさん眠っており、毎日のようにお参りにいらしており、その時にアナアンネのお墓にも水をかけてくださっていたとのこと。おじさんも「お姉さんのお墓の隣には女の人が来るといいねと家族で話していたんですよ」と喜んでおられました。アナアンネは病気になってから男の人がそばに寄るのを徹底的に嫌がり、お医者さんにもさわらせなかった程。孫たちでも調子がよくて本人だとわかっている時は大丈夫なのですが、わかっていないと殴り、蹴り「あっち行けー!kara kopek!(黒犬)」などとそれは激しく罵倒したものでした。だからお墓のお隣さんも女性でほっとしていることでしょう。

周囲のお墓に水をかけていた夫とビルテン。
アナアンネが亡くなった瞬間から、お葬式が終わるまで近所の友達の家に預けられてしまったビルテンはアナアンネ(ビルテンにとっては曾祖母)のお墓へも初めて行きました。自分でドライフラワーの花びらで一輪のバラの花を作り静かに何も言わずお墓においていました。コーランを詠むアンネ(ビルテンにとっては祖母)の横に座って何を思っていたのでしょう。


夫もアナアンネの周りのお墓すべてに水をかけたり、訪れる人もなく印が消えそうになっているお墓に石を立てたりしていました。故人を慕い敬う気持ちは宗教や国が違っても同じなんだなあと思いました。
いつでもどこでもポーカーフェイスのエリフ。



☆現在のイズミル☆


8月17日に夫のアナアンネ(母方の祖母)が亡くなりました。ずっと98歳だと言われていたので100歳まで生きるといいなあと思っていたのですが、死亡届を出すのに役所の古い戸籍台帳のようなものをひっくり返したらなんと1907年生まれの100歳だったということがわかるというオチつきの最期でした。1907年といえばトルコ共和国が成立する前のオスマン帝国時代。暦もイスラム暦を使っており、西暦に直した時に数え間違えたのでしょうか。


私がトルコへ来た頃はもうアルツハイマーでほとんど寝たきりの状態だった為、会話をすることもあまりできなかったアナアンネ。でも調子がいい時はベッドに座ってとりとめのないことを話してくれることもありました。「子供なんか作らないでどんどん旅をしろ」とか、「私は食べるものも食べずに着るものも着ないで子供たちを育てたのに今は誰も来やしない」「娘は上で寝てばっかりいる、私からだと言って殴ってやってくれ」というのも得意のフレーズでした。若い頃から塩や油、美容には人一倍気をつける人だったそうで最期まで肌はしみひとつなく真っ白でつるっつる、ほっぺもりんごのように赤くていつもいい匂いのしたアナアンネでした。心臓と肝臓がとても丈夫だったおかげで何回も医者にもうだめだと言われながらも持ちこたえてくれました。



2006年7月、お茶目なポーズで皆を笑わせてくれました。
自分の娘にさえ「あんたは誰だ?娘はいつ来るんだ?」と言うほどだったのに最後までトイレだけは教えてアンネたちの手作り簡易トイレに座って用を足し、おしめのお世話になったのは最後の数週間だけでした。

2006年11月、アンネー、いつ帰ってくるの?早く帰ってきて、と必死の訴え。
最期まで二人で面倒を見たアンネとテイゼ(アンネの妹)、永遠の命があるわけはないとわかっていても何も食べられなくて眠り続けている状態でもずっと生きていてほしかった気持ちは痛いほどわかります。二人の嘆きようを慰める言葉に困りました。イスラム教を信じる人は死後どうなるのか、変なことを言って余計悲しませたらと思うと何も言うことができませんでした。

2006年10月手を振ってポーズをとってくれました。
亡くなった翌日、アンカラとイスタンブルに住む夫の弟二人の到着を待って埋葬することにしたので当日は遺体安置所へ送りました。埋葬はアナアンネが好きだったイズミルから30キロほどのウルラの墓地へ。最後の礼拝もウルラのジャーミー(モスク)で行われました。お昼の礼拝の後に葬儀の礼拝が行われるのでそれまでジャーミーの入り口にアナアンネの棺おけが安置されました。礼拝に来る人たちがそれぞれアナアンネの棺おけにお祈りをし、遺族に対してお悔やみの言葉をかけてくれます。お昼の礼拝の後、ジャーミーから出てきた人たちが全員今度はアナアンネの棺おけに向かって礼拝をしてくれました。家族だけではなくたくさんの見知らぬ人達がアナアンネを見送ってくれ、イスラム教と言う信仰でひとつになるということにとても感動しました。

2006年4月、写真を写そうとしたら顔を隠した。
墓地へ行くと既にアナアンネの場所が決まっており穴が掘られていました。親族、友人の男性たちがアナアンネの遺体を埋葬し土をかけました。盛り土をした前後に甕を埋めて水をいれ、墓堀人の方がゼラニウムの花をどこかから摘んできてアナアンネの眠っている土の上に植えてくれました。

ゼラニウムが植えられたアナアンネのお墓。
お葬式後1週間の間毎日夜20時半から知り合いにコーランを詠みにきてもらいました。近所の親しい人も一緒に集まってくれます。食事も1週間の間毎日誰かが届けてくれました。二人とも一緒に倒れてしまうんじゃないかと心配していたアンネとテイゼもそんな周りの人に助けられて笑顔でアナアンネのことを話せるようになってきました。本当の寂しさはこれから自分たちだけになった時に突然襲ってくるのかもしれません。

最期の頃、ある時アナアンネはアンネに向かって「アンネー、アンネー、(アンネのことを自分の母親だと思っていました)私はいつ死ぬんだろう、もう私にはわからない、あなたが知っているんだったら教えておくれ」と言ったそうです。
ANAANNE NUR ICINDE YATSIN...
調子がいい時はこうやって「悩み」を打ち明けていました(?)。



☆現在のイズミル☆


またまた大胆な文字入れのバースデーケーキ。
少し前のことになりますが7月28日は夫の誕生日でした。仕事へ出かける前のトルコ時間の7時に日本の両親がおめでとうの電話をかけてくれることになっていました。もちろん夫には内緒。朝食の食卓へさりげなく電話を持ってきて準備OKです。ちょうど7時にかけられるように時計をセットしていたと言う母からジャスト7時に電話が鳴りました。不審そうに電話をとる夫、母はあらかじめ教えてあった「DOGUM GUNUN KUTLU OLSUN」を言ったらしく夫はこれまたたどたどしい日本語で「ワカッタヨ」と言った途端に見る見る涙があふれてしまい、受話器を私に押し付けるとその後は号泣でした。

翌日食事に出かけたお魚レストラン。暑い一日でしたがテラスで気持ちがよかった。
朝一番ではるか日本から誕生日を祝福してもらい上機嫌で出かけた夫でしたが帰ってきた時は「トルコからは誰も電話をくれない」としょんぼり。毎年義妹は必ず覚えていてくれるのにどうしたのでしょう。夕飯を食べる時も誰かが電話かメッセージをくれるかもしれないと食卓に携帯電話を置いていましたが鳴らずじまい。イスタンブルの三男のところへ行っていたアンネ(母親)からもかかってこないのでだんだん暗~くなってきました。友達からはたくさんのメッセージをもらってご機嫌なのですがやっぱり親兄弟が忘れているのは心外だったらしく、「誰も覚えていなかったらもう一生誰の誕生日も祝わない!」と言い出しました。私にも「誰にも言うな」と厳命。でもこのまま忘れられたら結構執念深い夫のこと、本当に一生誰の誕生日も忘れるでしょう。隠れて義妹に「私から聞いたって絶対言わないで」とメッセージを送りました。するとやっぱり本当に忘れていたらしくすぐに電話がかかってきました。義妹が思い出せばあとは、瞬時に回る連絡網、アンネからテイゼ(叔母さん)から弟から次々にお祝い電話がかかり一気にニコニコ顔が戻りました。単純?


大きなお盆にメゼ(前菜)をのせて見せてくれるので好きなものを選びます。


夫はサーモン、私は舌平目のグリルを選びました。
翌日はお祝いの食事に近所のお魚レストランへ出かけました。魚レストランは「時価」のメニューがあったりして入るのが怖いのですが、ここは明朗会計、しかもギャルソンのおじさんがトルコ人とは思えないほどてきぱきしており、何かお客さんが言うと「かしこまりました!」「申し訳ございません」「すぐにお持ちします」とトルコの接客では聞いたこともないような応対をしていてびっくりしてしまいました。
私たちの隣には孫とババアンネ(父方のおばあちゃん)の二人連れが座ったのですが、孫はまだ20代と思しき男性、これがおばあちゃんをそれはそれは優しくいたわっているのです。「ババアンネ、何食べる?」「メゼも頼む?」「好きなもの選んでいいよ」「ほら、これはイカだよ」などなど静かなババアンネに始終話しかけていて隣にいるわたしたちまでほのぼのと暖かい気持ちになりました。
一年に一度の誕生日、今年も幸せな一日が過ごせてよかった。来年の誕生日も健康で迎えられますように。
お魚料理にはルッコラのサラダ。



☆現在のイズミル☆


小さめに大公開?!
この日曜日は、よく笑い、よくしゃべり、しかも日本語を久しぶりに話すことができた一日でした。夏休み中の「トルコ~スパイシーライフ♪日々の思うこと」のyokocan21さんが、お住まいのディヤルバクルからご主人のご実家のあるイズミルを訪問中の一日を我が家訪問に割いて下さったのです。ブログやメールを通じて夫がトルコ人でトルコ在住のジャポンゲリン(日本人嫁)仲間としてお付き合いをさせていただいていましたが、実際にお目にかかるのは初めて。ご主人も来て下さるということなので少し緊張しながら当日を迎えました。

豆ラー、yokocan21さんに敬意を表してyokocanさんレシピによるメルジメッキキョフテスィ、
シガラボレイ、ポテトケーキ、変わりおにぎりなどを作りました。
でもそんな緊張はもちろん全くの杞憂、ブログやメールの文章でなんとなく人となりがわかるものですが、yokocan21さんもやっぱり私の目に狂いはなく(?)穏やかで優しいとても素敵な方でした(yokocan21さん、猫かぶってた?)。
同じくイズミルに住むジャポンゲリンとして仲良くしていただいている「ともこさん」一家にも来ていただいて我が家がいつになくにぎわいました。お昼過ぎにいらっしゃったのでチャイを頂きながらのおしゃべりタイム。その後もキッチンでサロンで廊下で、夫たちを放ったらかしにして楽しい時間を過ごすことができました。

ともこさんの2人のお嬢さんM子ちゃんとE子ちゃん。マシャラ~。
トルコ人と一緒にキッチンに立つことは、私は色々一人で勝手に気を使って疲れるので苦手なのですが、日本人同士だとたとえ初対面でも気楽に阿吽の呼吸で過ごすことができるので、とても楽しみにしていました。今回もおしゃべりの種は尽きずあっという間にお別れの時間でした。
皆さんが帰られて一人寂しく後片付けをしながら「あ~本当に楽しかったなあ」としみじみとしてしまいました。今もまだ余韻に浸っています・・・。
yokocan21さん、ともこさん、どうもありがとう!また遊びに来てくださいね。
ついにうちの前の通りも天然ガスの工事が始まってしまいました。すごい騒音と埃。



☆現在のイズミル☆


クリックするとHurriyet新聞の選挙結果ページへ。
この驚異的な投票率は、もちろん7月29日に予定されている日本の参院選の投票率ではありません。日本よりも一足早く7月22日にトルコで行われた総選挙の投票結果です。
トルコは夏休み真っ最中の為、休暇を過ごす人が多いこの時期の選挙に低投票率が懸念されましたが、数日前から居住地で投票をする為にトルコ中が選挙大移動となりました。日本は数年前から在外選挙が実施され私も最後に居住していた場所での投票権がありますが(日本の該当選管へ郵送もしくは在トルコ大使館・領事館での在外投票)、トルコではまだ在外選挙が制度化されていない為、ヨーロッパ各国に住むトルコ人は、都合さえつけば投票する為に帰国したいと熱く語っている人が多くいました。私が住むアパートの前の通りも両端に投票場所となっている学校がある為か、朝早くから投票終了時刻まで車と人の大渋滞でトルコ人の選挙に対する熱心さが伺えました。


よく見えませんが夫が投票したチャムラルアルトゥ高校、1004番投票箱。
トルコでも日本の選挙当日と同様夕方からTV各局では選挙開票速報一色で、驚く間に開票結果が明らかになっていきました。

atv局の速報画面。
結果は予想されていた通りエルドアン首相率いる現与党AKP(公正発展党)が得票率46.54%議席数341と圧倒的な勝利、現最大野党のCHP(共和人民党)得票率20.79%議席数112、そして私が密かに議席を増やすと予告していた(夫にだけね、支持しているわけではありませんよ)MHP(民族主義者行動党)が得票率14.25%議席数70と大躍進、無所属得票率5.19%議席数27と言う結果に終わりました。トルコの国会は1院制で定員550、比例代表制ですが、トルコ全土での得票率が10%に満たない政党は議席を得ることができない為このような議席配分となったのです。

私も夫にくっついて投票所へ行きました。日本では投票葉書が事前に送られてきましたが、トルコは住民登録をしてある居住地のMUHTAR(ムフタル=地区長)へ投票場所等が記載された紙をもらいに行きます。

名前や身分証明番号のような個人情報と投票場所・投票箱番号などの書かれた紙。
投票場所は近所の学校だったのですが教室一つに投票箱が一つ、自分の投票箱番号が書いてある教室でT.C. KIMLIK NO(身分証明番号)と名簿を照会して投票用紙と封筒が渡されます。投票ボックスの中にはスタンプとスタンプ台がありそれを使って自分が投票したい政党名(県の候補者名連記)の下の丸の中にスタンプを押して封筒に入れた上で投票箱へ投函します。投票した印に左手の人差し指に青インクを塗られ、最後に投票名簿に署名をして終了です。

投票用紙。左側に政党名とイズミル県の各候補者名が、右側には無所属の候補者名が記載されています。
ある政党は、支持者に読み書きを知らない人が多いと言うことからこの投票用紙のサイズに合わせ、自政党の上にちょうど結び目が来る様に細工をした紐や自政党の丸の上にちょうど丸が来るようにくりぬいた紙を配布したそうです。苦労の甲斐がなかったようですが・・・。

選挙当日に買物に行ったマーケットの酒売り場にある「6時から24時までの間は酒類販売ができません」の表示。
そして面白いのは選挙当日にさまざまな禁止事項が定められていたのです。投票当日はアルコール飲料を販売すること提供すること飲むことが禁止、全ての娯楽施設は7月22日は休業とすること、食事とともに娯楽を提供する場所は食事のみとすること、警察・治安関係者以外は武器を携帯しないこと、投票当日18時まではラジオと全ての報道機関は選挙とその結果に関するニュース、予想、コメントをしないこと、 18時から21時の間はラジオだけが高等選挙委員会による選挙とその関連ニュースを放送することができる、そして21時以降は全ての報道機関の放送が自由になる、などです。でも恒例のようですが21時までのテレビでの放送禁止はいつも21時を待たずに解禁されこの日も18時50分には開票速報が放送され始めました。


余談ですが国民のほとんどがイスラム教徒であるトルコでこの酒類コーナーの充実ぶり!
さて大統領選出に向けて確固とした足場を固めたかのように見えるAKP、トルコの有権者の84.41%が選んだこの国会議員たちにトルコの明るい未来を期待することができるのでしょうか。
※文中の投票率、得票率、獲得議席数などはHurriyet新聞http://www.hurriyet.com.tr/の
「選挙結果」を参考にしました。
「高等選挙委員会」による最終発表ではありません。
「投票済み」のインクを塗られた人差し指!



☆現在のイズミル☆


トルコの1940年代を代表する作家の一人「Sait Faik Abasiyanik(1906-1954) サイト・ファイク」の「SEMAVER(セマヴェル=サモワール)」と言う小説に、やっとのことで仕事先を見つけた若い息子を毎朝起こそうとする母親がくすぐったりベッドの上でふざけあって若い女のような嬌声をあげるという一節があります。昔トルコ語のクラスで読んだのですが、息子と母親のそのような親密さ、しかも働いているいい年の(!)息子ですよ、にうへ~っと思った記憶があります。トルコ人のアンネ大好きは有名(?)ですし、うちのアンネの息子溺愛もそりゃあ相当なものです。イスタンブルにいる息子とメッセンジャーで話しながらパソコンの画面に思わずキスするアンネですから。それでもやっぱりこのサイト・ファイクの小説の描写はいくらなんでもなあと言う印象を持ち続けていました。

どうでしょう・・・。
この小説を読んで早くもウン年、ついにこの小説を地でいく、いやそれ以上の親子を目撃しました。それは夫のKUZEN(従姉妹)チーデムさんとその息子でした。
いつもメッセージをくれたり話を聞くことはありましたが会ったことはなかったアンネの姪っ子チーデムさんが夏休み中の息子と一緒にイズミルへ遊びに来たのです。二度の週末しか会う機会が持てなかったにもかかわらず、その親子の密着ぶりにはさすがのサイト・ファイクもびっくりではなかろうかと、目のやり場に困ると言うか「ひぃ~っ」と叫びだしたくなるというか・・・。
しかも彼女は「孟母三遷」の故事を実践中。息子が高校へ入ると同時に高校の近くに家を借りたのです。大学へ入ったら、そして教員志望の息子の赴任先はもちろん、兵役に行くときも絶対ついて行くと鼻を膨らませて語っていました。

こんな気持ちのいい公園でマンガルをしました。

夜になるとマンガルをしに来る人で駐車場も混雑。
一緒にマンガル(バーベキュー)をしに行った時に、飲物が足りなくなったので夫がチーデムさんの息子に「ちょっとそこまで行って買ってきて」と言っても「だめだめ!迷子になるから」、デパートに行って息子がトイレへ行けば迷子にならないように入り口で出てくるのを待ちます。アンネが一度一緒に買物へ行った時も(しかも歩いて行けるすぐ近く)、うちで待ちながらすぐに心配になってアンネのケータイに「息子迷子になっていない?」コール、アンネがふざけて「それがはぐれちゃって今探しているのよ」と言おうものなら心臓麻痺を起こしそうに慌て出しすぐにも駆け出しそうになったそうです。

昨日の夜バスで帰って行ったチーデム親子。
兵役を終えるまで一緒についていくとして「結婚したらどうするの?」と聞くとその時は嫁に「私がここまで育ててきた、これからはあなたに預けます」と言って託すのだそうです。お嫁さん大変そうだなあと、今から同情しきりの私達でした。


うちの近所にあるバス会社の事務所まで見送りに行きました。ここからバスターミナルまでのサービスバスがあります。
父親の弟の結婚式でビルテン。



☆現在のイズミル☆
