創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

新・創価学会を斬る-12

2018-11-26 09:25:22 | Weblog

 <藤原弘達の“創価学会を斬る”シリーズ・3/7>
新・創価学会を斬る 藤原弘達 昭和47(1972)/6 日新報道
       ----------(以下、本文)----------59
第二章 犯罪事件--その性格と特徴
 犯罪を起こすのは何も創価学会員だけではない。むしろ学会員による犯罪は、日本中の犯罪全体からみたら微々たるものかもしれない。しかし、学会の会員数からみればその犯罪率はかなり高い。といって、私はたんに数だけを問題にしているのでもない。なによりも私が怒りをおぼえるのは創価学会が宗教団体であるといっていながら、家庭破壊、詐欺、殺人などの犯罪を起こすような人々を結果として救いあげてはいないという事実である。それどころかむしろ逆に結果としてはそういう人々を製造しているということもできるのである。そして、そういう人々がでたとき、学会がどんなにこれをカムフラージュし学会との無関係を装うとも、それはまさに否定できない事実なのである。さらにまた「数多い学会員の中にはそういうひとが若干いるかもしれない…」云々という逃げ口上を吐けば吐くはど、学会自体の非宗教性、インチキ性というものを暴露するだけなのである。
 では、実際にどんな犯罪が学会員によっておこされているか、ここで整理しておこう。

 殺人
① 学会員の三角関係--痴情のはて
 昭和四十七年三月二十四日夜半、埼玉県鳩ケ谷市で学会員同士の殺人事件が発生した。この事件の詳報については、「創価学会革新同盟」の関東代表である梅沢十四夫さんのレボートをみてみょう。
 「私の住んでいる家から百メートルほど先で起きた郵便局員殺人事件を新聞は連日大見出しで事の成行を報じた。地元の学会関係者にはすでに被害者吉原とくさん(26)が熱心な創価学会員であることがわかっていたが、大ていの新聞は何故か、連日『某宗教団体』で終始押し通したのである。
 地元の鳩ケ谷市はもちろん、隣の川口市の学会員の不安と動揺は大きく、学会本部でもその善後策に一両日テンテコ舞いであったと聞いた。女子部長の娘を持つある父親は、夜は学会活動をさせたくないと私に語ったほどである。
 吉原さんは三月二十四日午前一時半ごろ、うめきと悲鳴を交錯させながら、隣に住む志村憲人さんの表戸を叩いた。志村さんが表に出てみると、彼女は全身血たるまになって倒れていた。志村さんは直ちに『一一〇番』と『一一九番』へ通報したが、救急車が到着する前に彼女の息は絶えた。
 彼女の傷は見るも無惨なものだった。顔、右耳後部、背中、右腹部の四か所が、刃渡り一五七センチくらいの鋭利な刃物で刺されており、なかでも右耳後部の傷は、内頸静脈にまで達する致命傷であった。
 黄色のセーターに紫色のスカートという普段着の彼女は、別段、乱暴された形跡はなかった。また室内も荒された形跡はない。電気ゴタツのスィツチは入れたままになっており犯人とはコタツをはさんで話し合っていたと推定されたほどで室内は正常な状態にあった。
 彼女は小学校から中学校を通して、成績は上の部であったが、家が貧しいため高校に進学できず、中学卒業後、すぐに川口の町工場へ女工として働きに出た。学会では少年部の副部長で、『聖教新聞』のプロック配付責任者でもあった。また家庭事情も複雑で、戸籍上「異母兄」になっている兄がいた。この兄も含め、五人家族が六畳一間のアバラ家で生活していた。そして三年前、彼女はこの「異母兄」との結婚を父親から勧められ、それが嫌で家を出て、一人で下宿生活を始めたのであった。
 こういう過去のためか、ひどく人嫌いであり、年頃の娘らしくなく、服装も地味暗い感じの女性だった。学会に入信したのは親にも内緒で五年前ぐらいであった。将来の問題については、言うことがかなりまちまちであった。いずれも学会員にもらしていたことなのだが、ある人には『結婚の相手は絶対に学会員』と言っていたかと思うと、別の人には『相手はやはりサラリーマンでなくちゃ』とも言っていた。また『私はSさんが好き』と言っていたかと思うと、また別の人には『私のほんとに好きなのはFさんだけど片思いなんだ』と言っていた。だから搜査員も、彼女はかなり浮気っぼい性格だと判定していたふしもかなりあった。
 犯行から約一時間半後の午前三時頃、中華料理店に勤め、住み込みであるS・O (27)を参考人として本部に呼んだ。彼も学会員で同じブロックに属し、一年ほど前から、特に彼女と親しい間柄にあったことがわかったからである。また犯行直後の午前二頃、彼が外出先から帰ってくるのを見たという目擎者もでた。
 しかし、彼は取調べに対して、頑強に犯行を否定した。が、次のような耳寄りな証言をした。
 同じ中華料理店に勤め、同じ学会員である小林サキ子(43)と五年ぐらい前から肉体交渉があり、この小林が彼と吉原さんとが親しくなるのを快く思っていなかったというのである。
 現場検証から出た女物のサンダルの足跡が小林のものと一致した。さらにこのサンダルには吉原さんと同型の血痕もついている。直ちに捜査本部は小林を呼び出した。しかし小林は笑いをまじえながら犯行を否認した。
 だが確信をもった溲査本部が四月二日、あらためて追及すると、大声で泣きながら、『彼を吉原にとられたくなかった』と犯行を自供したのである。
 小林はすでに嫁いだ二人の娘と、二十歳になる男子を持つ母親だった。この三角関係は鳩ケ谷ではすでに項点に達しており、いつか何かが起こることを周囲の学会員は皆知っていたが、それに対して何んの手だてもせず、ただ『熱心な信者ではない』という理由をつけて見守っていただけなのであった。
 御本尊様も御題目も、恋に盲目になり、殺人まで犯す歯止めにはならなかったことだけは事実である。
 小林サキ子は新潟県岩船郡朝日村の出身、昭和二十二年十七歳で同じ村の農家に嫁ぎ、翌年長女を出産した。そして三人目の子どもが生まれてまもない頃、夫は出稼ぎ先で脳出血のため死亡した。そこで小林は三人の子供を抱えて上京、工事現場の飯場や、スーパー、飲食店などを転々とした後、四十二年の七月から鳩ケ谷に住みつくようになった。創価学会へ入信したのもこの頃で、小林は今回の犯行について『やっとつかんだ自分の幸せを離したくなかった』と言っている。
 小林のアパートと、Sが住み込んでいた中華料理店の部屋とは四メートルぐらいしか離れておらず、窓越しに彼の動静がわかるので、彼が部屋にいないと、吉原さんのところに行ったに違いないと邪推し、すぐに吉原さんの下宿へ飛んで行った。
 Sは、小林に誘われたのがそもそもの始まりであるが、いったん関係ができると、小林は絶えず『もしあんたが若い女を好きになってあたしを捨てたら、あたしはその女を不幸にしてやる、殺してやる』と脅していた。
 事件が起こる前は、小休のシットが異常なほどに激しくなっており、仕事が終わると、小林はSにつきまとつて、常に口論が絶えなかったという。

 事件当夜、吉原さんは学会の会合が終ってから、ある幹部の家に立ち寄り、一度、下宿に戻ってから二人の女性会員と銭湯に出かけた。この間、Sは何回もムダ足を運んだ。午後十一時になってようやく吉原さんと会い、午前一時まで話をし、キスをして別れた。小林は、Sが部屋を出て行った直後から後をつけ、ここまでの一部始終を見張っていた。兇行はこの三十分後に起こった。
 吉原さんの両親は言う。『この辺の田舍町では、男と女が夜中に歩き回っていたら世間からいろいろ言われるが、これが学会活動だと大っぴらにできる。皆、これを利用してたんだ。』

 この事件後、学会は例によって例の如く、同じ鳩ヶ谷市の他ブ口ックの会合でも「吉原は曼荼羅を焼き、御題目も熱心ではなく、名ばかりの学会員だった」とデマ放送を開始している。
 さらにこの事件の翌々日、公明党を離脱させられていた市川和夫鳩ケ谷市議が復党を許されたのである。彼は四十六年九月、市議会の教育文教委員長であり、市の教育を指導する立場にありながら、運転免許証をボールペンで改ざんしたのが発党、刑事事件となり、党を離脱させられていたのである。
 地元の人ならば誰でも、吉原さんは純粋で熱心な信者であったことを知っている。それだけにこの市議と吉原さんに対する態度が現在の学会の指導性をよくあらわしているものとして多くの批判をよんでいる。」

 ところでこのSの入信勳機が実に傑作としかいいようがない。
 「小林と関係し始めた当時から、ぼくはあの人に脅迫されてきました。いつの間にか周囲に噂もたつし、ぽくはとても悩んだんです。そこである人に誘われて、学会に入ったんです。救いを求める気持でした。」
 それなら入信と同時に、キッパリ手を切るなり、何かやれそうなものだと考えざるをえないのだが、入信後も彼は小林との関係をズルズルつづけたばかりか、食事や洗濯の世話までしてもらっていたとある。
 こういう人間関係のルーズさや一種の打算による“助け合い”がかなりの学会員の入信の動機にあるといえるかもしれない。

 創価学会は、広宣流布のため、大聖人様の御使いとして活動するものには、御本尊様の加護がある、絶対に不幸にならないと指導する。「いかなるところにあそびたはむるとも遊行しておそれなきこと獅子王のごとくなるべし」という大聖人の御書の文句まで引用する。
 いまや巨大なるマンモス教団にのし上がつたけれども、そのような学会教学のこじつけロジックは現在もそのまま生きているはずである。
 たしかにこの殺人事件を含め、数多くの学会員の関係した刑事事件は発生の状況も多種多様で同一には論じられないが、現象的には、それぞれ異なるとはいえ、学会お得意の仏法上の論理からみれば根っ子で連なるものが伏在しているといえなくもないのだ。
 すなわち、「腹、悪しき者を天は守らせ給わず」、「...但し御信心によるべし...」 等々の文証にしても、信心至上主義が行動の合法性のワクをいとも力ンタンにつき破る可能性を含んでいることも否定できないと、このレボートは解説している。
 ----------(次回に、つづく)---------65-

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