創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

続・創価学会を斬る-40

2018-11-02 10:00:53 | Weblog

 <藤原弘達の“創価学会を斬る”シリーズ・2/7>
続・創価学会を斬る  藤原 弘達  昭和46(1971)/12  日新報道

    ------(P.194)---(以下、本文)-------
学会内階扱昇進につながる選挙活動-①
 信者達は○A、A、B、C、というように信心の程度を知る寒暖計みたいな階級に分類される。
 ○Aは信心の三大項目である勤行、会合、登山(大石寺参り)をおこなうもの、学会のなかの選抜チームのようなもので、公明党には文句なしに投票する信者。
 Aは、三大項目のうち一つか二つを実践しており、公明党支持も文句なしとはいかないクラスのもの。
 Bは、三大項目の実践が殆どないもの。王仏冥合の実践者が公明党であるという理解もできないクラス。
 Cは、本尊などひきだしにしまって忘れており、学会を殆ど無視しているクラス。
 その他脱会者や行方不明者が多数あり、B、Cとあわせて組織のうえの悩みのタネになっている。
 運挙戦になると、CをB、 BをA、Aを○Aにあげるための信心指導をば幹部が連日のように会合、家庭訪問の個人指導の形で展開する。クラスをあげれば、それだけ「王仏冥合」を実現したことにつらなり、同時に公明党がそれだけ増大するシカケになっている。仏の遺命を実践する公明党に投票すれば、「顔ってかなわざるなし」の御言葉通りの功徳が必ずあると説かれる。
 反面、公明党に投票しない信者は仏の教えにさからったことになるから、当然のこととして個人罰をうける。公明党の候補者が落選した
地区の信者は、総罰があたる。それも具体的事例を引いて説明されると、大ていの人間はおそれをなして、不本意ながらも投票するかということになる。そのうえ、信者たちの親類や知人等にも投票依頼のための後援会づくりを割り当てる。功徳をもらえると本当に信じこんだ少数者は夢中になって駆け廻る。
    ------(P195)---
 公明党結成時よりの得票率参議院議員全国区党派別数・党派別地方議員数
   -------(省略)-------
 はては道ゆく人々にかたっぱしから夢遊病者か狂人のように恥も外聞も忘れて呼びかけるよう、さかんに強化しておどらせる。事実、選挙も中盤戦ともなると、幹部はわざわざこの戦いに勝ち拔くためには「全員が気違いになろう」と指示して追い込む。そのため本当に投票を終えると発狂した信者もでているし、責任を果たせないことを苦にして自殺するケースもでているのだ。

 とにかく政教混淆というか、政教一体の選挙運動が展開されていたわけである。それも気違いじみたものになる心理的背景は、この組織の体質そのものに根ざすものであること、しごく明々白々としている。もし創価学会のこの狂熱的なエネルギーを組織として動員できなかったとしたら、おそらく公明党からは一人も当選者が出なかったであろう。それでいて、池田会長は白々しく学会員の政党支持の自由を謳つているのだから破廉恥としかいいようがない。
 ともあれ狂人や自殺者まででる選挙運動を展開してきたことはまぎれもない事実なのである。
 そこまで狂信に追込める“手品”のタネはまことにチヤチなものである。大石寺にある楠に彫刻されに「板曼陀羅」なるものが「本尊」とされていること周知のとおりである。要するに「南無妙法蓮華経」と板の上に書いてあり、その下に日蓮の花押があるだけのもの。これが日蓮のホンモノかどうかも疑問だし、まことそれ自体はたわいのないものなのだ。これを「幸福製造機」などと称して、ウンとおがめば幸福がくるし、おろそかにすれば罰があたると説くだけのもの。基本的には完全な迷信なのだが、これを強引な折伏行でまかり通し、選挙に結びつけたところに最大の特色があったということである。つまり選挙結果が幸福の実証とされたわけである。

 こうしたやり方のさらにヒナ型になっているのは戦前に二代目会長の戸田城聖がさんざん試みた「保全経済会」式システムの金融業だったとみてよい。月五分という高利につられて、なけなしの金を差出し、まんまといっばいくわされたかっての小学校の先生たちの被害届の手紙も、ずいぶんと私のところへきている。池田大作は若いときからカバンもちをしながら、この手口を学んでいたこというまでもない。 戸田の“偉大なぺテン師性”はそのやり方を折伏によって「本尊」御利益に直結させ、さらには戦後日本における最高の権カシムボルである「選挙結果」によって裏付けようとした点にある。こうしておけば、もはや高利を払いもどす必要はないし、選挙結果として得られた社会権力によって逆におどしつけておけばそれですむからである。まことよく考えたものだ。無知で欲張りな人間ほどこういう暗示や働きかけに弱い。そして入信させればしめたもので、徹底的に考えるヒマを与えないように狂信的実践へとかりたててゆくということ、戦後は選挙戦もほとんど毎年のようにあるから、これもまことに営業上も好都合だったわけである。
 学会員の説明するところではそういう“手品”を正当づけるものとして、さかんに「曰蓮の御書」が引合いに出され、例えば「願兼於業」とかいう難解な文句などがよく使われるわけである。その意味は「苦悩の民衆を救うため、仏の慈悲によって自らの使命をうけ願って、その苦悩をわが身におび、わざわざ狂人や病気、貧乏の姿でこの世に生まれ、その逆境を学会の信心によって克服し、功徳を得た姿を他宗に示し、正法の偉大さを教化するために、人間はこの世に生まれてきたのだ」ということらしい。

 それにしても、バラバラ事件の犯人斎藤某とか、吉展ちゃん事件の小原保どか、秋田県の保険殺人事件など、世間の耳目を集めた事件の兇悪犯罪者に学会員が少なくないということになると、とんだ功徳の姿といわなくてはなるまい。こういう事件が明るみにでて、広く世間に知られないためにも、言論妨害にまで発展するマスコミ対策が組織的に行なわれるようになったこと、いうまでもないところである。ともかく学会員によるこの種の犯罪事件の発生はいちばん困るのである。それでは仏の使命をおびてこの世に生まれてきたとされる学会員の「顔兼於業」と、いったいどういうぐあいに結びつくのかもさっぱりわからなくなってくるからである。

 池田会長が「学会員の例外的な犯罪の問題点にまで発展したのはちよっと行過ぎだ」というように説明しても、幹部が「これだけ多くなると、バカもキチガイもでてきますよ、それでも他宗にくらべると少ないはずだ」などととぼけても、まじめな会員ほど疑問に思うし、「願兼於業」を反古にしているとしかうつらないのも当然なことである。
 ある学会員はこういってきている。
 「……王仏冥合のためと称して党員でもない未成年の女の子をかりたてたり、共産党のビラやカンバンなどを夜中にひっぱずさせたり、そして警察に捕まったときは、幹部は、とくに議員は、自分の名前を出せば大丈夫というように教えたりで、およそ金のかからない違反行為ならなんでもやらせるのです。
 この非常識きわまる手口が発展すれば、法を無視しても平気な気持に通じるのではないでしょうか。兇悪犯罪がでるのも、こういうやり方からは当り前のように思え、自分で自分がおそろしくなってきました。珍しい信心もあるものだと思うようになりました。」

 非常識なこととして批判を受けると、「“三障四魔”の妨害を受けた」などといってごまかせるけれども、これだけ「幸福の現証」とされた選挙結果が思ったようにならないと、さんざんエネルギーをふりしぼっただけに学会員はガックリとくる。その点、京都府知事選の結果、四十四年十二月の総選挙の結果、四十六年六月の参院選の結果は、まさに会員をしてガックリさせたものがあるといえよう。総選挙では、あれだけ悲願としていた最低五十一がとれず四十七にとどまり、参院選では全員当選とはいうものの議席は減り、得票数も得票率もガックリ滅ったのである。
 日蓮さんの教えを正しく実践していなかったから、その罰で足を引っ張られたのだ、現在のやり方がインチキであるという「現証」だというように心理逆転しても止むをえないことにもなる。--「人間の生命や性質を変える人間革命とかが、思い通りにできるのだったら、衆院選の人為的な五十一議席など簡単な筈ですが、それが駄目になったということは宇宙や生命などももちろん変えることができないインチキな宗教であることを立証したことになります。学会では“現証”こそ何にもまさるものだとしているのですから、自ら願ってかなわないことをしたわけです。」(学会員の手紙から引用)
  -----(200P)----つづく--

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