<藤原弘達の“創価学会を斬る”シリーズ・2/7>
続・創価学会を斬る 藤原 弘達 昭和46(1971)/12 日新報道
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7 公明党のファンズム路線,を暴く
やはり政党の早期解散がいちばんよい
◆ 多党化の中の「野望の権化」公明党
私は『創価学会を斬る』の最後の部分で、創価学会・公明党の存在理由をどこに求めるかの章を設けて、創価学会・公明党が日本の政治の中で果たしている意義はどこにあり、その存在の意味がどこにあるのかをつきつめて考えねばならぬことを主張した。
公明党の改治進出の背後には、カタチだけの二大政党政治を一時迎えたかにみえながら、これが空洞化してしまい、政権担当能力のない革新政党がバラバラパラになってしまったという事実がまず指摘できょう。そうなった原因としては第一野党である社会党の低迷と発育不全があげられなければならない。
社会党は戦後の日米安保体制そのものに反対する反体制の尖兵として、内外ともに「体制」すべてを、敵、敵、敵という形でとらえ、それによつて政権を担当する可能性をもつ第一野党としての成長発展を自ら捨てたといってよい。
そういう観念的な浮き上がりが、民社党の分裂をよび、公明党進出の背景になったということでもある。
民社、公明両党の誕生は、しばしば多党化現象といわれ、政党政治の多元化、多極化という言葉でいいあらわされている。しかし、この多党化、多極化は決して西ドイツやイタリアやフランスでみられるような多党化傾向ではない。野党勢力の分裂、多党化にすぎないものである。野党が分裂し多党化することにより、それら野党は皮肉にも政治力学からして自民党の独裁体制を間接的に支える一種のバイ・プレヤー、つまり傍役的機能を逆に果たすことになった。そのかぎりでは社会、公明、民社、共産四党ともに、日本における政党政治、議会政治を機能させていないという責任を分かち合わねぱならないのだ。野党の弱さと貧困さが政党政治そのものを形骸化したといってよい。
ところが、今までの見方では、こういう多党化傾向を好ましい傾向かの如く考え、公明が伸び、民社が伸び、共産が伸びるという小党の成長の中から総体的に自民党を支える社会的基盤が崩れてゆくという判断のうえで、群小野党に対する期待感があったことは否めない。それはそれなりに意味のないことではない。しかし、実際の政治の力学は、必ずしもそうは動かないものである。 例えば一昨年の総選挙にあらわれたように、自民党が三〇〇を越えるところの圧倒的絶対多数をとるのを結局のところ助けたにすぎないということにもなった。
公明党や民社党や共産党が伸びたとはいうものの、ウラ返してみると、それは社会党の支持票を食い荒らしたにすぎないものであった。それのみならず、自民党の“保守独裁体制”が数のうえではかえって安定したというような皮肉な結果をもたらしている。こうした傾向こそ、まさに政党政治のうえでは不健全な症状である。つまり、日本の政党政治をば実質的に機能させないような方向へとおもむかしている構造的病根というようにみることができる。それを私は前著できびしく批判した。
官僚優位の政治慣行、政党政治の不毛性、こういうものを背景にしながら創価学会がでてきた意味というものも、戦前における政党政治の崩壊過程との関連で、いろいろな角度から私は分析した。
しかも学会が拾い上げたのは、共産党も救いえなかったような社会の底辺層であり、その意味においては民主主義の落穂のような人々であり、見方によれば人間的に最も疎外された人々だったのである。
そういう人々、つまり自由から逃避し、狂信的宗教に救いを求めた人々が、そのままで物理的につみ重ねられても、はたして、自由をつくり、政治を動かす正しい力をもつものかどうか、まさに大いなる問題であったといってよい。
自由から逃避した人々を御利益でつり、盲目的に信仰させ、しかもそうした人々からなる学会の“出店”である公明党に、最も根深い政治病理が宿っていると私は判断し、創価学会・公明党の癒着形態は日本の政党政治発展にとって「百害あって一利もない」ものと断じたのである。
そういう意眛において、衆議院で政党政治の一翼をになうには、公明党はあまりにも本質的欠陥をもっており、むしろ解散する方がよいと判断したワケである。宗教組織そのままで行動する政治勢力ならぱ、元の公明政治連盟にかえり、活動の場を参議浣と地方議会に限定すべきであるというようにも論じた次第なのである。
ともあれ、公明党が衆議院において、従来のようなやり方で政権獲得を前提とする政党活動を行なってゆくことは明らかに邪道である。そのことは近代国家の大原則である政教分離にも反する。学会・公明党を真向から批判したのもそういう理由によるものであった。
◆ ひさしを貸して母屋をとる他党との連立
ところで、あの『創価学会を斬る』の段階で、私がもっとも心配したことは、自民党との連立政権工作を創価学会・公明党が狙っているのではないかということであった。公明党がいかに「革新のなかの革新」といい、創価学会と分離したといっても、その背後勢力が宗教団体である以上、基本的性格からいって反共であることは否定できない。日本共産党もまたいろいろの問題をもっているかもしれないけれども、私の言論問題を通じて、創価学会・公明党に真向から対決し、まさに“サル・力二合戦”にも等しい激しい戦いを底辺において展開したのである。
そうした文脈からして公明党が革新勢力と連繋するとはいっても、共産党のみでなく社会党左派との間にもどうしても一線を画さざるをえないとみた。社会党の江田派一派、民社、公明といった形の二党一派の構成が、彼等の基本的性格からいえば革新の限度であり、「左寄り」のリミツトでもあるともいえよう。
では右の方に揺れたらどうなるのであろうか。前述のように、公明党は、私が、あの『創価学会を斬る』を書いた時点では、むしろ自民党との連立政権をねらっていたように思われた。自民党はその保守独裁体制が揺らいだ設階では、公明党と民社党を両翼に抱えながら、その絶対多数体制を維持してゆこうとするだろう。民社党はともかくとして、公明党のような狂信的宗教組織をその大衆組織に抱えこんだとき、実際は個人後援会の連合体にすぎず、議員クラブにひとしい、ルーズなことだけがトリエのような自民党のダラシナイ「政権担当株式会社」は、公明党の批判拒否的大衆組織に下からあおられ、好むと好まざるとを問わず次第にフアッショ化してゆく危険性をもつであろう。その危険性を私は大いに論じ、自民党と公明党が連繋したとき、日本の保守独裁体制は明らかにファシズムへのワン・ステップを踏むときである、というような見通しを述べたものである。
その当時は、公明党はその本質からいって社会党と連立政権を組むとか、民社党と直接的に組むとか、ないしは野党の連立政権に入ることはないであろう、という見通しと前提に立っていたわけである。
しかし、“斬る”以後の政治状勢をみた場合に、まことにシオラシク公明党は私の批判にまさに対応し、創価学会と一応形のうえの政教分離を行なうと同時に自民党との癒着関係をできるだけはずしてゆく、という方向をとっていったのだ。そして転じて民社党との連繋をまず行ない、次に社会党右派、つまり江田派に手をのばし、そうした二党一派の野合的結合の中に公明党を発展的に解消させることを通じて、その実質的な組織を温存させてゆこうという戦略、戦術をとるようになった。
『創価学会を斬る』を書いた時点では、民社、公明両党の間には、その政策からいっても、イデオロギーからいっても、一体化する可能性はなかった。だがもし、公明党が解散して、政策や綱領において矛盾のない政党を合同の条件として選ぶとすれば、やはりそれは民社党であるとも述べた。ところが、こうした私の表現は実に微妙に政局に影響を及ぼしたようだ。どうも今から考えるとそうとしか思えない。公明党側からではなく、民社党の方から困りきっていた当時の公明党に手が差しのべられて、一応は自民党と切れて、孤立無援のカタチになった公明党をだきこむ工作が行なわれた。これがまさに西村構想であり、さらにそのなかに社会党右派をだきこんでゆこうという発想であった。
そもそも公明党は、民社党と競合して民社党を抜き、社会党と競合して社会党を抜き、元来の“七年計画”によれば、十年か十何年か先には野党第一党になるというのが基本の構想であった。だが、どうもそういう構想は捨てられ、野党の連合、ないしは新党結成の構想のなかに発展的解消の方向を求めていった、とみてもよいように思われる。だが、私が本を出す前に公明党が社会、民社と組めたかというと、まずは全く組めなかったとみてよい。というのは、当時公明党はあたるべからざる勢いにあり、そのようなことは全く問題にもしていなかつたからだ。むしろ社会党や民社党との異質性や対決点というものを鮮明にすることによって、独特の政治カラーを民衆に印象づけ、自民党との連立により、一日も早く権力体制の一環につらなろうという方向を選ぼうとしていたといえるだろう。池田創価学会会長が政界に出てくるときは、公明党と自民党との連立政権ができたときだという見方を私はとっていたわけである。だが、あの本を出すことによってそういう可能性というものが一歩後退したことだけは間違いない。
しかし、実際は、公明党という組織を外見上は創価学会と分離しながら、なおかつ外から学会が公明党を操り、“革新中の革新たれ”とハツパをかけながら、革新勢力の中におけるキャスティングボートを公明党ににぎらせることによって、政治全体への影響力を間接的に学会組織票を通じてキープしてゆくという高度の知能犯的戦略をひねくりだしたとみなければならない。
そういう点では、私の提言は一見受入れられているようであって、なおかつその方向のなかには大きなスリカエと危険性が内包されているといわねばならない。その意味では、「公明党に解散するという考え方がある」ということを池田大作会長がもらしていたと、五島昇東急社長は述べていたけれども、それ自体も一種の戦術的後退、『三国志』的ジェスチヤーだったのかもしれない。ともかくウソが多いのだ。
-----(240P)----つづく--