創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

続・創価学会を斬る-48

2018-11-10 07:19:33 | Weblog

 <藤原弘達の“創価学会を斬る”シリーズ・2/7>
続・創価学会を斬る  藤原 弘達  昭和46(1971)/12  日新報道

    ------(P.240)---(以下、本文)-------
“社会ファシズム”にもつながる御都合主義
 しかし、考えてみると、池田大作会長ほど私の本をていねいに読み、その批判にまともに答え、なおかつ、政治的針路の方向まで全面的に一応受容したものはないといってよい。しかもそうでありながら、なおかつ、本質的には違った方向を歩んでいるのだ。
 こういうオカシナ人間、なんだか「透明人間」のように、何でもマネたり、吸収しながら、実はなにもない存在もちょっと珍しいのではなかろうか。そこに私は非常な興味をかんずると同時に、こういうような人間に率いられている無性格、無原則、無思想の集団というものが、間接的にキャスティングボートをもっておって、はたして、日本の政党政治は大丈夫だろうかという大きな危惧の念を改めてもたざるをえないのである。

 京都経済同友会が、京都産業大学社会意識研究室に委託した調査(四十四年四月施行)によると、京都市民に「嫌いな政党」をたずねたところ次のような回答が示されたということである。
一位 公明党(二七・二%)。二位 共産党(二三・七%)。三位 自民党(一二・九%)。四位 民社党(七・ニ%)。 五位 社会党(七・一%)。
 これは京都市民を対象としたものだが、ともかく公明党がいちばん嫌われているのである。
 では何故、公明党が嫌われるかというと、まずそのファナティックなところが嫌われており、議会制民主主義への基本的な姿勢が欠けている点が嫌われているのである。つまり議会制民主主義の常識を無視した行動様式を背景にしながら、票取り組織を持ち過ぎているということであり、ボート・ゲッティング・グループというか、投票獲得集団としての特異性が問題とされているのである。しかるに、そうした嫌われている政党の票でも、野党はみんなそれが欲しい、ときには自民党もほしがっているのである。そうした助平根性で学会・公明党を軽蔑しながらも利用しょうとしているわけで、いずれの政党も口と腹とは常に違うのだ。
 ところが、逆に創価学会・公明党は、他の政党のそういうズルイ打算をよみとりながら、これを操ってゆこうとしているわけで、ここに奇妙で危険な利用関係ができつつあるとみなければならない。
 そこで、現在の時点、とくに四十六年七月十六日のニクソン訪中声明から、ドル・ショック、中華人民共和国の国連加盟という一連の新事態の状勢認識のうえに立って、佐藤内閣のみならず自民党の政権担当能力が大きく揺らごうとしているとき、いったいどのような政界再編成の方向が望ましいものであるかについて、それなりの問題点を提起し、そのなかにおける公明党の役割は何かということをもう一度問うてみなければならない必要を感じている。

 何よりもまず中国問題との関連で、公明党の役割について考えが及ぶとき「社会ファシズム」とでもいってよいイメージがすぐに浮かんでくるのだ。日本において昭和初頭に不況がおとずれたとき、これまでの右翼や“愛国団体”のなかに、マルキストくずれとか転向派とか、そういう社会運動派の連中がゾロゾ口入り、彼等は軍部のつくった既成事実を正当化するためのイデオローグとして動員されたものだ。そういう社会ファシストやえせマルキストというような字在が、いろいろな形で日本の“革新”イデォロギーを提供し、ファシズムを下からすすめる社会運動の役割をになったことは、今や一つの歴史的事実として存在するわけである。公明党もまた過去とは違った現在の状況下で、まさに新しく生まれ変わって社会ファシズム的役割をいとなもうとしているといえるかもしれない。
 そこから直ちにファシズム政権へと変動が起こるなどという危険性はないだろうが、言論批判が起こってたった一年か二年しかたつていないのに、これだけの左転回をノウノウとすることのなかに、彼等のイデオロギーや信念、信条というものが、いかにその時その場における御都合主義であるかが物語られている。しかし、他面においてこういう公明党の動きを良いことにして、これを利用しようとする中国をふくめての内外のさまざまな政治勢力の態度にも大いなる問題があるのではないかと思わざるをえない。

◆ カメレオン・公明党の危険な役割
 自由民主党が、今後どれだけ政権を担当してゆけるかどうかは別として、少なくともこの長い保守独裁体制が、日本の改党政治を蝕む一番大きな政治害悪になっていることは否定できない事実である。これを支えた日米関係も今や一つのデッド・ロックにきた。その結果として当然日米関係が変わらなければならず、その変わってゆくテンポにつれて日中、日ソ関係も変化してゆくだろう。
 こうした外的条件の流動化が起こったのと対比して、ではどれだけ日本の政党政治が変わりうる条件があるかというと、それは非常な疑問であるといわねばならない。少なくとも政権担当能力という点においては、社会党が自力で単独政権を担当できるところの野党として成長する可能性は今のところほとんど無いに等しい。また民社との間の労働戦線の統一ということもちょっと考えられない。とすれば社会、公明、民社、いわゆる社公民三党協力の形というものが、参院選でわずか三地域においてテストされたが、そうした無原則な選挙協力という形によって、何が何でも自民党を倒し、政権担当をしようとする動きがあらわれてくる可能性がある。
 そういうような形で、自民党からの造反を呼び起こし、そうすることを通じて、例えば三木武夫というような存在を呼んできて、シャッポにしようというような発想も生まれてくる。だがそうしてできた政権形態というものは、占領下における片山・芦田内閣といった中道政権以上に、おそらくギクシャクした、きわめて奇妙なグロテスクなものになるだろう。その結果は政策の矛盾や内部不統一の矛盾をさらけだし、おそるべき内部混乱のためにメチャメチャになって、崩壊する可能性がある。そういう段階になったとき、公明党はどういう行動をとるかということになると、さっさと一番真先に「味方」を裏切り、見捨てるという可能性をはらんでいる。結局一歩そこに足を突込んだとしても、その基本的な性格からいうならば、公明党には長く社公民連繋体制をとれないような体質があるといわざるをえない。そういう意味において公明党のキャスティングボート性に何かを期待しながら政権担当を夢見るということは、あまりにも甘ッチョロイ、なまやさしい見方であるといわざるをえない。そういうような形でえられた政権の彼方には、必ずや大きな陥し穴があり、そのことからくるキャタストロフィのほうがはるかに怖いのではないかといわねばならない。

 ただ私がここで公明党に望むとすれば、既成政党がこのままでは駄目だという意味において、自らその政党を解散し、創価学会との完全絶縁を天下に宣言することを通じて、新党運動をつくってゆく一つの捨石になっていけということである。そうしたところに一つの意義が見出せるかもしれない。公明党議員は一人も当選しなくていい、自分たちが捨石になって自民党に替わって政権担当能力のあるような、そういうような“第二党”というものをつくってゆく。
 そうして従来の既成政党のワク組とは別種の新党に、それぞれの野党をして自発的に参加させるようないわば水先案内ないしは円滑剤となる。そうした役目をはたすことに、民主主義の落穂を集めてきた大衆組織として、一つの意義が見出せるかもしれない。自らの解散、つまり自らを否定することにおいて政党政治の再建をのぞむ、それが宗教政党であった過去を否定する最も好ましい形態ではないかと考える。そこにのみ、私は公明党の存在意義を認めるのである。
 つまり公明党は自らを否定し、自らを解散する過程のなかから、政権担当能力ある野党をどうつくるか、新党をどうつくるか、これが彼等に与えられた最終的課題であり、これができたとき彼等の政党としての存在はなくなり、そのとき政教分離が実現されたということを高らかに宣言しうる資格がでてくると思うのだ。

 しかし、今のような形で創価学会の信者数を利用し、その票を高く売りつけ、その中でリーダーシップを持ち、イメージ・ダウンをカバーするためには、ぺコベコ中国に行ってほとんど無条件ともいえる右往左往ぶりをみせるということのなかには、自ら政教分離によってやり直しをしようとする自己否定観念のカケラもみることはできない。私が主張しているような公明党の生きた解散の仕方、皮肉だが生きた死に方、という期待からははるかに遠いのだ。このままでいけぱ社会ファシズムの推進役となる可能性の方が大きい。今のままではデクラッセ・インテリゲンチャを集め、さらに今後日本の経済におそってくるところの不況の波のなかで、没落する中産階級の危機意識に訴えながら、やはり自らはファシズムを社会底辺から盛り上げてゆく政治的エネルギーになってゆく可能性のほうがはるかに強いといわなければならない。 その意味においては、前の段階の場合におけるファシズムの危険性以上に、私はむしろ社会構造的に分散されたファシズムのにない手として、創価学会・公明党のはたすこの奇妙な役割を注目せざるをえない。学会と公明党とは一見、別居し分離したかに見えながら、下半身は結び付いており、そうした、奇妙な形のトリック・プレーで展開されている「新生公明党」の未来には、もっと危険なものがあるといえよう。 そのことを、改めて警告しておきたいのである。
                         (文中敬称略)
  -----(246P)----つづく--

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