創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

続・創価学会を斬る-41

2018-11-03 06:40:02 | Weblog

 <藤原弘達の“創価学会を斬る”シリーズ・2/7>
続・創価学会を斬る  藤原 弘達  昭和46(1971)/12  日新報道

学会内階扱昇進につながる選挙活動-②
    ------(P.200)---(以下、本文)-------
 こういう逆転心理に落ち込んだ学会員にとって五月三日の池田発言は、何とも白々しく、がまんのならないものに映ったとしても当然のことだったといわねばなるまい。「聖教新聞」などをフルに動員して、連日のように共産党に対する悪口を紙面いっぱいにのせ、信者全体を“ウラミの徒党”にしておきながら、悪口のタネがつきたとなると、「大作さんがのこのこと現われて、共産党との泥試合は一日も早くやめたい、学会は反共主義ではない」とか何とか……。私の『創価学会を斬る』に対しても、さんざん「“斬る”を斬る」などと称してワケのわからないメクラ斬りのような記事を連載しておきながら、外部に向かっては、「藤原弘達さんに会って謝りたい」などといいだす…、これではとてもついてゆけないわけだ。
 会長は大変な二重人格で、ハラの黒い大悪党に見えてきたということのようだ。むしろそう見えるのが、まともの神経というべきであろう。
 ともかく言論問題にしても、政教分離問題にしても、池田会長の論理は、一時しのぎの支維滅裂のものだったといってよいのだ。それはいかに低級で無知な信者でも、今やどうにもならなくなっているかもしれないほどのものである。池田発言の論理のままに動くとすれば、創価学会そのものが四分五裂しかねないところまできているといってよいかもしれない。
 ことに、池田会長がわざわざ、「学会員の政党支持は自由であり、干渉されない」旨のダメをおしての発言は、「日蓮の信者でないものの発言であり、“大謗法”にほかならない」ということにもなる。つまり日蓮正宗、創価学会の基本的原点の否定を意味することになるととられざるをえないこととなりそうだ。信者の狂信的エネルギーをかりたて、○A、A、B、Cのランクまでつくって、選挙運動にはさんざん利用しておきながら、やっとの思いで獲得した議席も、政党支持は自由ということにしたら、これから減少するばかりであろうことは火を見るより明らかである。これでは公明党も創価学会ももはや先が見えたと受取るものが信者のなかにでてきても少しも不思議ではないということである。
 ここまで信者大衆をバ力にし、外に向かっていうことと、内に向かっていうこととを使いわけられては、学会員のなかから日蓮の教義そのものの矛盾に突き当たる者がでてくるのも当たり前のことである。
 いろいろと“御書”のなかから引用しながら、根本的な不信や疑問をぶちまける投書もずい分ときている。「日月飲となる」とか「日輪が二つ三つ現われる」「白癩になる」「五逆罪」「出仏身血」「無限地獄」「我は日本の柱なり、眼目なり、棟領なり」「しるし親」等々、さまざまな七百年前の幼稚とも思える予言的言辞を、適当に混入しながら功徳と罰の使い分けで、二十世紀後半の大衆を操作しようとしても、どだい無理になってきているということが、そういう投書にもありありとうかがえたものだ。まさに私のいう「時代錯誤の罪」はいかんなく信者の心に「現証」されているということである。

 池田会長は政教分離について、「公明党首脳がいかなる信仰を持とうと自由である」とまで放言しているけれども、これまで学会員として公明党を支持してきたものにとっては、まさに青天の霹靂なのである。「日蓮の教えからは、そんなことはひとかけらもでてきません。それではもう日蓮の信者ではなく、池田教ということになります」という痛烈な反撃がでるのも、しごく当たり前というべきであろう。
 池田会長がどんなに切捨てようと思っても、創価学会と公明党は、まさに「一体不二」なのである。いまさらそんなことをいわれたとしても、男が女になれといわれる以上に困難、いや全く不可能なことをいっているとしか受取れないということにもなる。そう思いこんでいるから、池田発言はとうてい信じられない一時しのぎの屁理屈と映じる。こういうごまかしに国民がだまされないように、「藤原先生、どうか追及の手をゆるめないようにしてください」と、いまでは逆に学会員からハッパをかけられる始末である。

 いずれにしても「新生」創価学会を社会に印象づけるために行なわれた池田発言も、学会内部では、とかくウラ目にでているということらしい。内実はどんどん去りつつある信者を食い止めるのに躍起になっているということのようである。「自分のところには返された本尊を五体預かっている」といった手紙もずいぶんきている。全国的には折伏の功を競って、他人の名前で本尊を受けたケースも、大変な数にのぼると推定されており、まさに「幻の学会員数」を形成しているわけであろう。荒川の土手で、何体もの本尊が捨てられているのを拾ったという訴えもあった。こっそり焼き捨てたり、犬猫のように川に捨てられているケースも、ずいぶんとでていることであろう。

 池田会長は「社会に迷惑をかけたものは除名する」といっているがまさに笑止のかぎりといわなくてはなるまい。社会に迷惑をかけた張本人として会長自身が除名されるべきであり、幹部をはじめ、ほとんどすべてということになりかねない。そもそもこの宗教自体、何らかの意味で社会の常識に挑戦しているものでありそのかぎりでは社会に迷惑をかける必然性とでもいえるものを内包していたといわなければならないのだ。だから、これまでやってきた折伏とか言論妨害といったことも、日蓮正宗としてはしごく当たり前のことをやってきたまでで、それをいまさら「除名」とかなんとかいってみたところで、それこそまさにナンセンスということなのだ。「除名」されてしかるべきなのは、学会でメシを食ってきたプロ化した幹部だけであり、むしろ一般信者としては除名されることを喜ぶのではないか、という気さえしてくるということである。

 一人の学会員はこうまでいってきている。
 「折伏などは致さないことになるのだと外部の人には会長は申していますが、これは考えられないことです。
 そもそもこの宗教の信者たらんものは、日蓮が『弟子擅那、流罪、死罪、一定ならん(必ずあるという意)、少しもこれを驚くこと莫れ、少しも妻子眷族を思う莫れ、権力を恐るる莫れ、今度生死の縛を切って仏果を遂げ給え』という、おだやかではない主旨の教えを必ず実践しなくてはならないことになっているのです。
 もしこれに反するなら、もはや全くちがった宗教を作るか、他宗に転じるかするほかはないのです。
 もしこれを実行しないのなら、池田会長といえども邪教の徒といわなくてはなりますまい。少くとも会長が、日蓮正宗の人であるならば、まさに一時しのぎのウソをついているだけのことで、来るべき事態にそなえているのです。
 再び時をえて、流罪、死罪もおそれないし、妻子や一族のことも意に介しないで、あえて社会に迷惑をかけても、教えを実践することになること、まず間違いのないところであります。」

 どうも読んでいて、この学会員の方が、池田大作などという男よりは、はるかに立派に思えてきたということだ。教義に忠実であり、信仰も純粋であり、善意がほとばしっているといってよいだろう。こういう善意を踏み台にして巨大なる虚業集団をでっちあげた池田大作という“匹夫”は、日蓮のいう流罪、死罪どころか、ちょっとした世間の風当りや、言論自由の叫びにおびえきってしまい、「自殺寸前の心境になった」とまでほざいているのである。
 使命感に燃えるものには、殺されることはあっても自殺などはとうてい考えられないことでなくてはなるまい。そしてムスコから叱られたとか、デマを週刊誌に書かれて女房がかわいそうだとか、マイホーム主義のよきパパぶりさえ外に向かってPRしようとしているのだ。その品性の低劣、内面の狭小、反省力の痴呆的欠如、まさに目をおおいたいばかりというほかあるまい。しょせんは、インチキ高利貸の手代から成り上がった小人の姿、あわれなるかなといわなくてはなるまい。

  これだけ内部の学会員から、痛烈な批判が起こってきており、それも池田会長という神格化されたトツプリーダーにまで及んできているのであるから、これを受けて立つ幹部連中は、おそらく大変なことであろうと容易に想象できるというものである。今までの羊のようにおとなしかった信者のなかからいっせいに不信と不満の声が上がってきているのも、むしろ当然のことというべきである。それを「言論自由」の「現証」といわずして何ぞやという気さえしてくるというものである。
  -----(205P)----つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする