この前、蝋纈のお話をしたけど、本日は「糸目友禅」です。
友禅染めの名前の元となった「宮崎友禅斎」が考案したと言われる技法です。
友禅斎はもともと扇絵師です。天和3年の衣服制限令により、華美な着物
創りが禁じられ、それに変わるものとして友禅斎が考案した技法が「糊糸目」
を使用した「糸目友禅」、といわれてます。
その辺りの話や、加賀友禅との関連の話は置いときましょう。
おうちにある着物を良く見てください、絵柄の輪郭に細い線が入ってません?
(特に礼装用の訪問着、黒留など。小紋には使用する事はまずありません。)
これが「糸目糊」を置いた跡です。
写真の「黒留」は糊を落とした後、金加工しているので、白っぽくないけ
ど、普通は白く抜けたように見えます。
金の部分は「金屋」(とワタクシ達は呼びます。)と言われる職人の仕事で
すが「糸目糊」も専門の職人が受け持ちます。
加賀の場合、かなりの加工を一人で仕上げますが、これは今ほど「加賀友禅」
が流通していなかったため、かも知れませんな。
物の良し悪しではなく、「京の呉服屋」が江戸の販売先をガッチリ押さえて
いたんでしょう。
糸目糊は糯米粉に米糠、塩、消石灰を混ぜたものです。これに蘇芳を混ぜた
ものは「赤糸目糊」と呼ばれますが、高級品にしか使用していません。
今はほとんど「ゴム糸目糊」を使用してます。
退屈な話ですいません。もう少し長くなりそうなので、後は次回に・・・。
友禅染めの名前の元となった「宮崎友禅斎」が考案したと言われる技法です。
友禅斎はもともと扇絵師です。天和3年の衣服制限令により、華美な着物
創りが禁じられ、それに変わるものとして友禅斎が考案した技法が「糊糸目」
を使用した「糸目友禅」、といわれてます。
その辺りの話や、加賀友禅との関連の話は置いときましょう。
おうちにある着物を良く見てください、絵柄の輪郭に細い線が入ってません?
(特に礼装用の訪問着、黒留など。小紋には使用する事はまずありません。)
これが「糸目糊」を置いた跡です。
写真の「黒留」は糊を落とした後、金加工しているので、白っぽくないけ
ど、普通は白く抜けたように見えます。
金の部分は「金屋」(とワタクシ達は呼びます。)と言われる職人の仕事で
すが「糸目糊」も専門の職人が受け持ちます。
加賀の場合、かなりの加工を一人で仕上げますが、これは今ほど「加賀友禅」
が流通していなかったため、かも知れませんな。
物の良し悪しではなく、「京の呉服屋」が江戸の販売先をガッチリ押さえて
いたんでしょう。
糸目糊は糯米粉に米糠、塩、消石灰を混ぜたものです。これに蘇芳を混ぜた
ものは「赤糸目糊」と呼ばれますが、高級品にしか使用していません。
今はほとんど「ゴム糸目糊」を使用してます。
退屈な話ですいません。もう少し長くなりそうなので、後は次回に・・・。
室町時代辺りは「繍・箔」での柄だったらしいですね。
そりゃあ手もお金もかかりますよねえ
(友禅がお安いわけでもないのですが)
でも、お陰さまで素晴らしい柄の(重さほどほど)の
お着物が着られるので友禅斎さまさまですね
した、と言われています。
が、法令に触れたのは「金紗、刺繍、総鹿の子」。
絞りは範疇外のはず。
繊細な糸目友禅と比較すると、稚拙なものに見えて
淘汰されたのかも知れませんね。
一竹氏が居なければそのまま歴史に埋もれたまま
の技法だったかも。
茶屋辻染めも近年復活されたけど、流通している
様子はありません。
結局、コストや時代感によってそのまま、消えさって
しまったり、復活したりするんでしょうね。
着物検定本で、おさらいしてみたら。
やっと、分かりました!
疑問を持ってから読むと、よく頭に入りますね。
鮫小紋も、二度と忘れないと思いますし。
それにしても、検定本、私には分厚い・・・です。
本当は、伝統の中で、日々親から子へ教え継がれるものだったんでしょうけど。
両親、典型的なモダン?家庭だったので・・・
一人で外国語を習い始めたような・・・
そんな気分です。
制作にもし、興味を持たれたら、「繊維技術センター」(今出川烏丸上がる東側)でビデオを販売していたと思いますが。
(今でもどうかは分りませんが・・・。)
でも検定には余り関係ないと思いますけどね。
知らなかった事や技術を覚えるのは大変だけど、
また楽しみでもありますよね。
ワタクシの場合寄り道が多すぎるけど・・。
主婦、育児、商売と大変だと思いますが頑張って
くださいね。