秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

京都非観光案内44.恋塚定禅寺。

2008年11月30日 08時38分59秒 | 京都非観光迷所案内
国道一号線を南下して名神南まで、というのが普通のコース。ただし、この一号線
季節や時間帯によってはかなり停滞します。

そこで抜け道として利用するのが旧千本通り。途中まで南行き一方通行のため、
かなりスムーズに走れます。

その旧千本通りがくねっと曲がったところにあるのが、「恋塚定禅寺」。

号は恵光山、浄土宗禅林派の寺です。

寿永元年(1182)年文覚上人の開基ですが、この文覚上人は平安時代末期、北面
の武士でした。そのとき彼は同じ北面の武士の妻に恋してしまったんですね。

まぁ、恋焦がれるくらいなら良かったけど、この遠藤盛遠(出家前の名)は、
「よいではないか、よいではのぅ」と言ったかどうかは知らないけど、他人の
妻にかなり強引に迫ったのですな。

こまり果てた人妻は「それならわが夫を殺してくんなまし」(あ、これは廓言葉だ)
と盛遠に依頼。今夜、濡れた髪が夫の証拠。その首をどうか刎ねてくだされ。

そこで盛遠、真夜中に渡辺左衛門尉渡の屋敷に忍びこみ、枕を探ると、確かに
濡れ髪が手に触れ、やっとばかりに切りつけた!!

ところがなんと死体ななっていたのは、その妻、袈裟御前であった・・。

ああ、なんという事をしでかしたのか・・。わが身を恥じた盛遠はすぐさま出家
して、この寺の境内に首塚を建立して菩提を弔ったとか。
ところで渡辺さんはその時どうしてたんでしょね。

とにかく、わが身を身を犠牲にしてまで操(死語ですね)を守った袈裟御前の
五輪石塔が境内にあるから、恋塚定禅寺と呼ばれるようになりました。

この寺にはもう一つお宝があります。

それは小野筧が冥土から戻り、一本の木から六体の地蔵菩薩を彫ったそうですが、
その一体が地蔵堂に安置されています。

文覚上人といい、小野筧といい、かなり有名ドコロに関わりのあるお寺なのに、
なんで迷所案内に登場したか、と、いうと8月22,23日の六地蔵参り以外、
ほとんどだぁ~れも訪れる人いないんですよね。