秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

天神川と旧天神川

2008年11月26日 16時46分51秒 | 京都非観光迷所案内
ずっと以前に紙屋川が途中で天神川と名を変えるって話をしましたね。

誰も聞いてねぇってか。

マァいいや。ちょっと復習。

紙屋川の云われはこの川で禁裏御用の紙を漉いたんですね。

紙屋院では宿紙(すくし)といわれる反古などをほぐして漉く紙を生産していたようです。
亡くなった人の恋文などを漉き返したものに写経して冥福を祈ったとか。

メールでやり取りしてちゃ、こりゃ無理だわ。

紙屋川は太子道辺りから天神川と名を変えるのですが、子どもの頃不思議に思ってたのが近所の天神川。

近所と言っても西大路通りを渡ると学区も違った別世界。(低学年にとってはね)

その西大路をもう少し行くと天神川。(と、信じてた)

当時は分校と呼んでた小学校の近くにはまだ少し芹田が残ってました。

異国へ出かけるような緊張感があったけど、芹田に生息する蛙やザリガニの魅力には勝てず、よく越境?したもんです。

で、高学年になってくると、遊び場のテリトリーも当然広がってきます。

その天神川を更に西へ行くと私たちには大河(何せ天神川くらいしか知らなかったし)と思える桂川が新たな遊び場となりました。
(本当は上級生が溺死して以来桂川行きは禁止されてたけど、ルールは破ってこそオモロイって当時は考えてましたから)

ところが、その桂川の少し手前に、薄汚れた川がもう一本ありました。

河川の名前は天神川。
二本の川は合流すること無く平行に流れているのにナゼ?

別に天神川が二本流れていた所で小学校生活に支障をきたす訳でも無いから、イ~んですけど。

ただ、心のどこかに小さな刺みたいに引っかかってはいました。

それが最近やっと解明。東の天神川は旧天神川で、昭和35年前後に生活排水用に整備されたそうです。

だからどうよ?って言われても困るけど。