秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

都飯店・四川ラーメン

2013年04月24日 07時32分43秒 | グルメなのか?

 相方が4日ぶりに出張から帰ってまいりました。その間、血も凍る
思いをしたワタクシ・・・・。

21日は相方の誕生日。ここ数年は相方が出張中が多いんですけど、
それでもオメデトメールは欠かしたことはなかったんです。

が・・・・。なんてこった。気がついたときにはすでに遅し。一夜にして
総白髪になってしまった・・・・。(これはウソですけど)

ま、内輪の話は追い置いておきましょ。出張に出かけるまえにPCを
いじりながら相方がのたまうには「なぁ、八幡に行く用事ってないん?」

いや、あえてといえばないようなあるような・・。(どっちやねん!)

彼女のアンテナになにやら引っ掛かったモノがあったようなので、それ
では帰京したら出かけてみよう、と話はまとまっておりました。

で、昼食をドコでとるか、それぞれリサーチしていたら二人の意見が偶然
一致したのがこの「都飯店」でした。

 

京都を出発したのが13時過ぎ、店に到着したのが14時くらいでしたか。
それでも店の駐車スペースの空きは一台分しかありませんでした。

(別の場所にもガレージはありましたが) さすが地元での人気店です。
昼時だと席にスムーズには座れないのでしょうね。

         

私はチャーハン&四川ラーメンセットを注文。これで600円は安いぞ。
 

相方の四川ラーメン・唐揚げ・ライスのセットは700円。

唐揚げは「からじろう」ではなくて普通タイプです。でもボリュームは充分。

 

他のお客さんが注文しているのを観察していると四川&チャーハンセット
が一番多いようでした。

四川だけど、とびきり辛いことはないから、子供さんや女性でも大丈夫です。
私はテーブルにあった唐辛子とニンニクをたっぷり投入しましたけどね。

食べ終わって店を出た二人の感想。

「近所でなくてよかった・・・」 そう、この値段で手軽にいける場所にあったら
通いつめてしまいますョ。なんせ二人は極細麺大好きなんですから。

て、ことは「通風大魔王」が・・・・オソロシや。

  
こんなのもありました。でも二人ともつけ麺は食べないし。

 


油小路の決闘。

2013年04月23日 09時59分45秒 | 京都非観光迷所案内

 「燃えよ剣」。この小説を読んだは20代前半でした。あの頃は「坂の
上の雲」に始まり司馬遼太郎先生の小説にどっぷり浸かっていました。

しかし思い返せば「燃えよ剣」との出会いはもっと以前でTVドラマ
だったんですけどね。それはまぁ置いといて・・・・。

司馬先生以外にも他の作家さんの新撰組関係の小説はぎょうさん
読んだつもりやけど、伊藤甲子太郎を主題にした小説を読んだ記憶
はありません。登場はするけど主役ではない。

活躍した時期があまりに短くて資料も少ないのかも知れませんが、
主役をはるには、いささかカゲが薄いのかも知れませんね。

 

とはいえ、生き残った弟子たちは明治政府においては、そこそこの
要職についていますから、非凡の人ではなかったはずです。

その甲子太郎さんが、新撰組と袂を分かち非業の死を遂げたのが
この寺の門前だったそうです。

  

 北辰一刀流の使い手でもあり、学識も高い自信家の先生をコロッと騙し
て闇討ちしたのは、新撰組の真骨頂発揮ですが、その後も凄まじい。

その遺骸を油小路に打ち捨てて、引き取りにこようとした御陵衛士の
残党を討ち取ろうと図ったんですからね。

          

この遺体回収に向かった7名のうち、死亡者は3名。司馬先生の解釈
では剣のたつ者ほどわが身を死地に追いやったと書かれています。

しかし40名もの新撰組が取り囲み、7名のうち僅か3名しか討ち取れな
かったというのは、ドナイなもんですやろ。

ちょっと前まで同じ釜の飯を食った人間だし、ムゲに惨殺するには忍び
ない、なんて心理が働いたのかも?

新撰組立ち上げ当初なら許されなかった行為でけどね。なんてコトを
想像してしまうお人好しです。そんな甘い考えでは生き残りは難しいぞ。

 わかっちゃいるんです・・・・・・・・。


菅原院天満宮。

2013年04月22日 09時46分30秒 | 京都非観光迷所案内

 天神社は日本三大天満宮(北野・大宰府・大生郷)を筆頭に※一万社以上
あるそうです。 (なんだかオオザッパな数え方にも思えるけど)

「大生郷ってドコやねん?それやったら天満の天神さんはどないしてくれるねん、
アチアチのたこ焼き口につっこんだろかワレ!」なんて大阪の人、おこらんで下
さい、私が言ったんじゃないし。

京都を徘徊中、私もソチコチで天神さんと遭遇して、そのつど気ままに投稿して
いますけど、この菅原院天満宮は通過するだけでした。
 

なんせ烏丸通りを挟んだ京都御苑の西ですから、おいそれと車を停めて散策、
という訳にはいきません。でも先日は自転車でしたからね。

そうです、薬祖神祠の次におじゃましたのが、この社です。道真公誕生の地は
他にもあったけど、ま、いいかワタクシの生活には関係ないし・・・。

  

由緒由縁、地図はいつものようにアンダーラインをクリックしてください。

じゃ、なんのために紹介しているんだ?と聞かれても困るけど・・・。

この「見返り道真公」、なんかエエなぁ。「よっ、みっちゃん今日も一杯いく?」
なんて肩をたたいて言いたくなりますナ。

やはり天神さんといえば「へたり牛」。アタシャ、「へたれ牛」。やかましわい!
 

なぜかこの日、一人旅の男性が多かったなぁ。受験生には見えんし。もしか
したら「見返り道真公」のポスターに引き寄せられたんだろうか?

ここから烏丸通りを少し北上すると「護王神社」があるのです。自転車でこの
近辺を徘徊するチャンスはめったにないから散策したかったんですけどね。

今度の仕事で、恩師に相談を受けてもらう約束があって、この日はタイムアップ。

護王神社は昔、知り合いが神主を勤めていたから、一度は訪ねてみようと思って
いたけど、やはり駐車場探すのが面倒で先送りなっていました。

また、これはいつか、ってコトで。またいい加減な約束してからに・・・・。

※明治39年(1906)の調査によると天神社(天満宮)は10442社といわれ、
道真公を祭る神社は11089社あったそうです。

 

 

 

 


薬祖神祠。

2013年04月21日 08時04分58秒 | 京都非観光迷所案内

 この祠も存在は知っていたけど、探し訪ねるまでもナカロ、と保留にしていました。
保留にしていたワケは別にコレといってないんですけどね。

まぁ、あの近辺に用事ができたときにでも、寄らしてもらいまっさ、って感じでした。
(別に寄ってもらわんでもエエわいな、と薬祖神様も思ってはったかも知れんけど)

先日烏丸通りを北上して白川方面に出かける用事があったので、ちょっと寄り道
させてもらいました。

大巳貴命(おおなむちのみこと)、大国主命、小彦名命、→日本。 神農→中国
ヒポクラテス→ギリシャ。このバラバラのピースを一まとめて祀ってあるのが、
ここ「薬祖神祠」です。

  

バラバラといっても、一応、医学繋がりはあるから、「無茶しよんな~」、ということ
はありません。けど、「大丈夫でっか、皆さん喧嘩せんと仲よーしたはりまっか?」
と余計な心配をしてしまうのはワタクシだけでありましょうか?

この二条通は1600年ころから薬屋の町として栄え、問屋仲間が集まって講を
くんで、この祠を祀ったそうです。(今の場所に移られたのは1906年)

1880年ころに 「そやな、近頃西洋の薬品もようけ輸入されてきたことやし、
ひとつ、西洋の神さんもお祀りしよなないか?したら誰がよろしおすやろ」

「そら、西洋の神さんゆうたら、キリストはんやろ。そやけど、大国はんの隣に
磔の十字架はどないなもんやろな」

「あほ言いな、なんぼ奇跡で病人を治さはった言うても、そらアカンわ。そや
○×堂のご隠居はんに聞いてみまひょ」
  

てな会話はなかったと思いますけど、西洋医学の父といわれたヒポさんも
合祀されるようになったみたいです。

11月の薬神祭には多くの出店が出て、大変賑わったそうですが、今は昔日の
思い出となったようです。これはどこの町でも見られる現象ですけどねぇ。

神農さんも「ワシを大事に祀ってくれるテキヤの衆が見れんよーになって寂しい
こっちゃの」、と呟いておられるかも知れません。

  

この祠をもう少し西へ行くと2012.5/27日にご紹介した三井越後屋京本店跡
があります。なんでそのときに一緒に探索しておかなかったって?

だから、言ってるでしょ、迷所案内はほとんど行き当たりばったりだって・・・・。

烏丸通りを東に渡ると漢方薬局の「わやくや 千坂」 北大路魯山人が少年時代
3年間丁稚奉公をしていたのも千坂ですが、当時、この場所で営業していたか
どうかは、分かりません。



この無責任さも迷所案内。(地図もかってに他人のブログにリンクしてるし・・)

 


長野日帰り。

2013年04月20日 10時38分48秒 | 旅ゆけば

 昨日の朝5:30分過ぎに京都を出発、伊那(長野県)に到着したのが8時
ころだったかな。それから打ち合わせを済ませて昼前に伊那から佐久へ。

長いわ、長野県・・。2時間も車で走ったら、京都なら大阪通り越して兵庫県
まで行ってしまいまっせ、ホンマ。

伊那市でからはA社のN社長も同行、N君(同じ名字でややこしい)と三人で
の道行きとなりました。

このN社長は以前(2012.9/29)に紹介した、蕎麦大好き人間です。N君も
私も舌は肥えてはいないけど、麺喰い人です。(貧舌は私だけか・・)

高速を降りて峠道を走りつつ、6ヶの目玉が捜し求める蕎麦屋の看板。

蕎麦喰いが今回の目的ではないので、何の情報も得ずに車を走らせて
いますから、とにかく最初に目にとまった店にしようと暗黙の了解。

一応、「うどん・蕎麦」の看板はパスして、一軒目に出会ったこのお店。

なんとなく「地元の人に愛されてます感」があっていいんじゃないっすか?

車もほぼ満車みたいだし。 しかし、いくらラインが引いてないからって、
もうちっとちゃんと駐車できんもんかえ?ま、おおらかでいいけどね。
 
店を外見から吟味しているN・Nコンビ。↑

メニューを見ていた社長がまず気がつきました。温かい蕎麦はだし汁が切れたら終了
となります。ムム、限定商売か、やりますナ。

  

そしてN君は営業時間を指さす。ほほぅ、一日たった4時間とは、ちょっと期待
してもいいかも知れない・・・・。
  

で、三人が選んだのは「ミニ掻き揚げ丼とざる蕎麦」 温かい汁蕎麦はドコいってん。
だって、お勧めって書いてあったんだモ~ン。(オヤジのブリッコは気持ち悪いワ)

しかし、いつも思うんですけど、長野県の蕎麦専門店って、他県に比べて割高
な気がするんですけど、私だけだろうか、そんなこと感じているのは。
  

このセットは1000円。まぁ価格的には私にとってギリギリの範疇内ですか。
京都なら昼食セットはもう少しリーズナブルな店を選ぶところですけど。

で、蕎麦です。味に関してはいつものように批評は差し控えさせてもらいます。
ただ、切り方が・・。細いのやら太いのやらが混じってます、つまりバラバラ。

当然、太さが違うと茹で上がったら、シコシコの部分やらモチットした箇所が
あって混然としてしまいます。も一つ言えば水切りが不十分で、盆が水浸し・・・。

残念様でした。あ、でも掻き揚げ丼は美味しゅうございました。カリっと揚がって
タレは若干甘めでしたが、掻き揚げとの相性はグッドでした。

店を出て車に乗り込んだワタクシ、「いっそ掻き揚げ丼の店で看板だせば
いいと思う・・・」と呟いてしまった。

ま、他府県に出かけるとそんなコトもあるから面白いんですけどね。

 
そしてお仕事。なんだか分かり難いと思いますケド、これはブルーベリー畑です。
収穫は夏だから、今はこんな状態です。

仕事の内容は今はまだ話せませんけど(聞いても面白くないと思うし)、今回
は依頼を受けての視察程度です。いつになったか儲かるねん・・・。

帰り道は社長が気を使ってくださり、別ルートで伊那を目指しました。

八ヶ岳公園で休憩。さ、寒い!ニュースでこの日は寒の戻りで非常に寒く
なるって言ってたけど、ここは標高1300メートル以上でございます、ご想像ください。
 

伊那で社長とお別れして帰途、飯田の「南信州うまいもの直販店」で買い物。
と言っても相方はこの日からまた出張。だから私の買い物はほとんどナシ。

相方が同行していたら、また「破産する~!」と叫びつつ買い物しているんだろナ。

 
私の買い物はコレだけ。「のびる」の葉は食べたことあるけど、根っこは初めてです。

味噌に付けて生で食す、とあったので、ついでに若とうがらし味噌(300円)を購入。

(のびる=辛い)×(若とうがらし=辛い)でカラさの二乗。すなわち焼酎ススム君。

この日は朝から晩まで車に乗っていた気がするけど、とにかく21時に無事帰宅。

一人でドアを開けて、一人で灯りつけて、一人で焼酎のんで終了!



 


 

 

 

 


ちょっと気になるCM(ホンマ、ちょっとだけです)

2013年04月18日 07時34分25秒 | おもろい関西人。

 少し前から流れている日本酒のCMでずっと気になっているのがあります。

女優のFさんが京都をイメージさす割烹の女将役で出演されています。
神戸出身ということで、関西弁にも(京言葉というべきか)違和感はありません。

小奇麗なカウンターでFさんがお客と会話している(一人ですが、会話して
いる、と仮定)シーンがあります。

客がバブルのころの自慢をしたのでしょうね、彼女は小首を可愛くかしげて
「ほんで?」と一言。

この「ほんで?」、はいろいろな意味でとらえることができますが、この
シチュエーションの場合はビミョウなんですな。

作り手の意向としては、いつまでもバブル時代の自慢をする客に対して
京女(をにおわす)がヤンワリと皮肉を込めて切り返す・・・・。

きっと製作者の周りにはこんなオヤジが大勢いるんだろうな、と想像にカタクナイ。

で、「ほんで」ですが。よく会話で使用されるのが、話の接ぎ穂的用法。子供がよく、
「ほんでナ、ほんでナ」とやたら「ほんで」を連発します。興奮すると顕著になる傾向アリ。

では「ほんで?」の場合。これは話の続きを促す、という意味もありますが、ほとんどが
「それがどうしたん?」(言下にアナタとのお話はもうエエし、という拒絶の意味)とか、

「ほんで、それがどないしたんじゃ!グタグタぬかすな!カタつけたろかい!」などと
宣戦布告の逆ギレセリフに使用される場合もあります。

CMの使用用途は2番目ですよね。しかしここで考えていただきたい。あのCMは
日本酒を皆で楽しくいただきましょう、ってコンセプトで製作されているはず。

祗園はもちろん、あのような店で、女将が口にするセリフとは思えません。
(しかも上から目線で。しかしコレは彼女には責任はまったくありませんけどね。)

とまあ、こないだからちょっと気にかかっていたもんで、またツマラン話をしちまった。

なんせ、京都で生まれて、京都に長年生息してきたとはいえ、しょせん「お土居」
の外が生活範囲、祗園にもほとんど縁のないオヤジのいうことですから、お聞き
のがしください・・。

 「ほんで、お前さんはどないすんねん?」と自問する4月18日の朝であります。

 

 


薄味・濃い味。

2013年04月17日 14時20分35秒 | グルメなのか?

 すこし前までは減塩対策として薄味がもてはやされていました。しかし
最近では薄味志向は少し影が薄くなって(シャレちゃいます)きたようです。

先日TVを見ていたら、レトルト食品などは、一口目でガツンとインパクトを
与えるために、かなり濃い目に味付けしているそうです。

だからヨットで何日も航海している人は、最初の一日、二日はその類の食物
を口にしたときは美味いと感じるけど、それ以降は水の量を倍近くして薄め
ないと食べられなくなるとか。

そういえば、このごろのラーメンブームでも、かなりコッテリ系が人気を博して
いるようですね。つけ麺など、最たるものですわナ。

昔の肉体労働者ならともかく、現代人が、そんな濃い味の食品ばかり食べ
ていて良いのか?と。フト思う今日この頃です。

濃い味食品を提供する→糖尿病などの成人病が蔓延→病院が儲かる
→病院費の負担が恐いので生命保険に加入する。

食品メーカーから保険業界までの「風が吹けば桶やが儲かる」方式の陰謀が
うず巻いていたりして・・・。

不慣れなグルメレポーターがよく口にする 「ゼンゼン臭みがないですね~」

食物にもそれを提供した相手に対しても、失礼なやっちゃ、ジビエ料理と
違うデ、と一人突っこんでしまう私です。

猪や熊の獣臭さを消すために、味を濃くするのは分かりますが、今の野菜
なんかほとんど土の香りなんてしませんやね。

「風ふけば」計画の他に考えられるとしたら、いったい食品に含まれるナニを
隠匿しようとしているのか?保存料?農薬?オソロシや・・・・。

なんてコトを考えつつ、インスタント焼きそばを食っているワタクシです・・・。

 

 


安楽寿院

2013年04月16日 08時30分01秒 | 京都非観光迷所案内

 京都市内や北部に比べると、南西部には観光スポットと呼べる場所
はさほどありません。(だから迷所案内人が徘徊したりするんですけど)

しかし鳥羽離宮が当時のままは無理としても、その片鱗だけでも残されて
いたら、今の観光事情も多少は変わっていたかも知れません。

城南宮が残されているではないか?との指摘もあろうかと思いますが、
かつてあった鳥羽離宮のスケールから思えば片鱗の一部くらいでしょうか。

 

離宮、といえば思い浮かぶのが「修学院離宮」、「桂離宮」、「八瀬離宮」。
あ、最後の八瀬は関係ないですョ。

修学院も桂も予約は必要ですが、今でも観光スポットとして知られています。

しかし、「鳥羽離宮なんて知らんワ」、って京都人も約半数いるのが事実です。
(いや、事実ではない。その程度じゃないか、と推測しただけです。)

院政 政治に手をやいた武家社会がテッテー的にその存在を消滅さすために
鳥羽離宮の痕跡を残さなかったのではないか?とさえ思えるほどです。

 そんなことはないとは思いますけどね。地形や地理的な問題や、太閤堤、小椋池
の干拓も関係しているのかも知れません。

 ここでやっと日曜日の話に戻るワケです。年いくと話が回りくどくていかんワ・・・・。

今回の鳥羽探訪の目的は大きく二つあるって言いましたね。あ、言ってないか。
(こんなツマランことばかり書いてるから先に進まないんだし)

一つは「草津湊」、そしてもう一つが「安楽寿院」 い~名前です。安楽死を願う人
たちが、ひきもきらず参拝にやって来ます。(ハイ、今日のダボラはこれで終了)

 

正確にいえば、興味を惹かれたのは藤原時代に彫られたという石仏三尊です。

そのうちの一体は国立博物館で保管されていますが、あとの二体はこの寺の
境内に残されています。なんと保管されているのは小屋の中。

 

同じ時代に生まれた地蔵尊なのに、かたや国立物館、もう一方は酷立小屋。

残された二体は剥落もみられ、確かに保存状態は良くないけど、「お地蔵さんの
格差社会や~!」とワタクシ、つぶやいてしまった・・・。

 

 

しかし、人々を救うためにこの世につかわされたお地蔵様ですから、

「人の目ぇに触れん博物館より、わしゃここで衆民を見守っとるほうがエエわいナ」
と仰っているかも知れませんね。

鳥羽離宮の本殿の御堂が安楽寿院だったそうですが、この寺とは位置が違って
いたであろうといわれています。

この時点で時計を見れば12:10分。大急ぎで近所の「北向不動院」へ向かいます。
別にパスしても良かったけど、次にこの辺りに来ることはまず無いと思いますからね。

 

           

     

ここで鳥羽探索はタイムアウト。一路我が家に向かってペダルをこいで
13:20分に到着。着替えをしたり資料を確認した後、レトルトカレーを
鍋に入れてご飯を電子レンジへ。

13:40分、さぁ大急ぎで食うぞ!と思ったとたんN君からTEL。

「今、近所のコンビニに到着しました」って・・・・・。

この片手に持ったレトルトカレーの袋、どうしてくれよう。ま、いいかまだ
封も開けてなかったし。昼食抜いたところで死なんわナ。

で、彼の車に乗り込んで出かけた先は・・・。なんと城南宮を下がった店で
ありました。(もう一人が名神高速を利用して帰京していたもんで)

確か昨日、「鳥羽近辺に出かけることは、まずないでしょう」なんて投稿して
たはずなんですけど・・・。ま、こんなこともありますワナ。

 

 


鳥羽の作り道・草津湊

2013年04月15日 09時13分48秒 | 京都非観光迷所案内

 前から気になってはいるのに、今だ未踏の迷所が何箇所かあります。

たまたまその近所に用事があって時間的にも余裕があるときに、「覗き見的散策」
のパターンが多いのがこの迷所案内です。(もしくは行き当たりばったり)

しかし、「草津湊」のある鳥羽近辺を訪ねる用事なんて、この先あるとも思え
ません、多分。

そこで昨日は日曜日、天気も上々、自転車で「目的地指標型散策」に出発!

部屋を出たのが10時半過ぎ。この日は14時に仕事の打ち合わせがあった
ので、それまでに帰宅しなくてはなりません。車なら余裕なんですが、やはり
「鳥羽の作り道」を探索するには自転車です。(徒歩はちょっとキビシイ・・・・)

スタートは以前(そうとう前です)紹介した「ずっこけスポット・羅生門跡」
そこからずずいと、旧千本通りを南下いたします。

これまた以前紹介した上鳥羽「浄禅寺」を越えて、まずは第一目的地の「塔
の森」へ到着。ここで気がついたんですけどね・・・。今回は「指標型散策」

つまり参考文献をもとに行動しています。(「京の古道を歩く」 増田潔 著)
出かけるときにザックに入れたはずなんだけど、ミョーに背中が軽い・・。

忘れとりますがな、ザックの中はスッカラカーン。ま、いいか、大まかな地図
は頭に入っているし。(の、ハズ)

相方が同行していなくて良かった、またバカにされるトコでした・・。

記憶によれば、「賽の河原」はこの辺りだったぞ。(後で確認したら合って
いました。ん~、まだシラフの状態なら頭脳は大丈夫。)

  
  西高瀬川

京都で「賽の河原」と呼ばれた場所はもう一箇所ありました。そうずっと前に
紹介した西院の「高山寺」。ってダレも覚えてないわナ。

西院は川も暗渠に隠れて、大勢の人たちが行き来する繁華街に変貌して
いますから、ちょっと「賽の河原」のイメージからはかけ離れてしまいました。

以前読んだ資料によると桂川流域では、よくドザエモンが流れ着く場所が埋葬の
地とされ、自然にそこが墓地化していった、とありました。

  
  桂川護岸。今は奇麗に整備されて「賽の河原」のイメージではなくなりました。

もしかしたら、西高瀬川と桂川が合流するこの近辺もそうだったのかも知れません。
  

 

小枝橋を渡ってちょっと寄り道。戊辰戦争の幕が切って落とされた「鳥羽伏見戦跡の碑」。NHK
の大河ドラマでも、もうすぐ登場すると思います。(今回はちゃんと観てないんですけどネ)
  

戊辰戦争より、ずっと昔もこの近辺は古戦場でした。京への要所だったのでしょう。ここ
でもう一箇所探索したかったのが「鳥羽離宮の築山遺跡」。

辺りを見回したところ、それらしい公園を発見。しかし入り口にも、築山の碑にも鳥羽
離宮を示す案内板はなし。もしかしたら違っているかも知れないけど、一応撮影。
  
 ↑これも鳥羽伏見戦の碑。ここは時間もないことだし、次の目的地へ向かいます。
           

再び川沿いの道をサイクリング。なぜこの橋は途中まで残しているんだ?


完全撤去の費用が無かった?

造り酒屋「月の桂」 延宝三(1675)年創業。そういや吉田神社の節分祭で
ここのにごり酒を買って歩き飲みしてたナ。


         

近所の「おせき餅」の店。この店舗は新しいけど、すでに十七代続いている
そうです。どんな餅か?って私に聞いても無理。甘味は私の範疇外です。↓
      

そしてようやく目的地の「草津湊」に到着。イニシエのころ、「やんごとなき人びと」が遠方へ
配流されるときに、この湊で別れを惜しんだとつたえられます。

崇徳新院、大納言成親、法然、後鳥羽上皇、エトセトラ・・。策略や政変、法難など理由は
それぞれあったのでしょう。京での栄華の頃に思いをはせ、はるか遠くの流刑地への不安
に胸打ちふるわせた「やんごとなき人びと」の思念がただよう気もする草津湊です。

こんな書き方すると、怨念がおんねん、(一箇所はツマランこと言わんと気がすまない)みたい
な土地に思われるかも知れませんが、そんなことはないですョ。

かつては京と浪速をつなぐ交通の要所として、かなり賑わいをみせた湊だったそうです。
ここに到着した「鱧」を生きたまま桶に入れて市内に向かって走りだすスタートラインがココ。

「はしり」、という言葉はここから始まったそうです。(案内板に書いてありました)で、昨今では
この地を「鱧の湊」とよぶそうです。ワタクシは聞いたことはありませんケド。

余談ですが、「鱧寿司」は西本願寺の特別料理だったそうです。寺内町の人たちに伝わり、
六条の名物となったとか。その鱧もこの湊から運ばれていったのかも知れませんね。

今回は「鳥羽の作り道」を幹に「草津湊」を目指しましたが、作り道の説明をしていませんナ。

平安京の入り口の一つであった「羅城門」から南の道をそう呼んだそうですが、造られた時代
は諸説あるようです。平安京造営の祭に造られた道、というのが一番妥当と「京の古道を歩く」
には書かれています。

草津湊からの帰り道にもう一箇所訪ねたい場所があったのですが、また次回にご紹介します。
だれも待ってなくても掲載するもんね。

 

 

 


          

 

 

 

 


御金神社(みかねじんじゃ)。

2013年04月13日 17時38分55秒 | 京都非観光迷所案内

 爺化ますます進行中のワタクシ、今朝も目覚めは5時30分。
枕元にあったTVのスイッチを入れてボンヤリ画面を見てました。

すると、緊急地震予報のテロップが・・。え、ミサイルと違うん?
まだ寝ぼけ気味の私、思わず床を押さえましたね・・・・。

床を押さえたから揺れが止まるワケでもないのに、お馬鹿です。

京都はそれほどでもなかったけど、相方は播磨方面へ出張中。メール
を送ったら、携帯の注意報で目が覚めたけど、大丈夫、とのことでした。

震源地もさほど大きな被害はなかったようで、なによりです。

今日は新企画の打ち合わせで昼イチに人と会う約束がありました。
もし、今朝の地震を上回る震度が関西を襲っていたら、仕事どころ
じゃないですよね。 

現代人の生活も薄氷の上での暮し、って感もありますナ。

かといって、厭世的になったり、悲観していてもしょうがない。

まずは食っていかねば・・・。そのために大事なモノは?そうです、
お、か、ね、です。

そこでワタクシ、打ち合わせの後、この神社めざして猛ダッシュ!

またウソついてます・・。この社、たびたびマスメディアに取り上げられ
ていますが、私はイマイチ足を運ぶ気が起こらなかったんですよね。

今日は時間的に余裕もあったし、また目的地に車を駐車するところ
も無かったもんで(有料のパーキングはあるけど)自転車で出かけました。

帰り道に営業先の視察を兼ねて徘徊中、たまたま黄金の鳥居が目に
とまったから、立ち寄ってみた、ってのが真相です。
  

由緒由縁、位置等は「御金神社」で検索していただければヨロシイかと思います。
(なんてナゲヤリな・・・・。いつものコトですけど。)
 
  

しかし、今まで足を運ぶ気になれなかった社に偶然遭遇して取り上げさせて
もらおう、という気になったのは、もしかしたら・・・・・・?