秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

鳥羽の作り道・草津湊

2013年04月15日 09時13分48秒 | 京都非観光迷所案内

 前から気になってはいるのに、今だ未踏の迷所が何箇所かあります。

たまたまその近所に用事があって時間的にも余裕があるときに、「覗き見的散策」
のパターンが多いのがこの迷所案内です。(もしくは行き当たりばったり)

しかし、「草津湊」のある鳥羽近辺を訪ねる用事なんて、この先あるとも思え
ません、多分。

そこで昨日は日曜日、天気も上々、自転車で「目的地指標型散策」に出発!

部屋を出たのが10時半過ぎ。この日は14時に仕事の打ち合わせがあった
ので、それまでに帰宅しなくてはなりません。車なら余裕なんですが、やはり
「鳥羽の作り道」を探索するには自転車です。(徒歩はちょっとキビシイ・・・・)

スタートは以前(そうとう前です)紹介した「ずっこけスポット・羅生門跡」
そこからずずいと、旧千本通りを南下いたします。

これまた以前紹介した上鳥羽「浄禅寺」を越えて、まずは第一目的地の「塔
の森」へ到着。ここで気がついたんですけどね・・・。今回は「指標型散策」

つまり参考文献をもとに行動しています。(「京の古道を歩く」 増田潔 著)
出かけるときにザックに入れたはずなんだけど、ミョーに背中が軽い・・。

忘れとりますがな、ザックの中はスッカラカーン。ま、いいか、大まかな地図
は頭に入っているし。(の、ハズ)

相方が同行していなくて良かった、またバカにされるトコでした・・。

記憶によれば、「賽の河原」はこの辺りだったぞ。(後で確認したら合って
いました。ん~、まだシラフの状態なら頭脳は大丈夫。)

  
  西高瀬川

京都で「賽の河原」と呼ばれた場所はもう一箇所ありました。そうずっと前に
紹介した西院の「高山寺」。ってダレも覚えてないわナ。

西院は川も暗渠に隠れて、大勢の人たちが行き来する繁華街に変貌して
いますから、ちょっと「賽の河原」のイメージからはかけ離れてしまいました。

以前読んだ資料によると桂川流域では、よくドザエモンが流れ着く場所が埋葬の
地とされ、自然にそこが墓地化していった、とありました。

  
  桂川護岸。今は奇麗に整備されて「賽の河原」のイメージではなくなりました。

もしかしたら、西高瀬川と桂川が合流するこの近辺もそうだったのかも知れません。
  

 

小枝橋を渡ってちょっと寄り道。戊辰戦争の幕が切って落とされた「鳥羽伏見戦跡の碑」。NHK
の大河ドラマでも、もうすぐ登場すると思います。(今回はちゃんと観てないんですけどネ)
  

戊辰戦争より、ずっと昔もこの近辺は古戦場でした。京への要所だったのでしょう。ここ
でもう一箇所探索したかったのが「鳥羽離宮の築山遺跡」。

辺りを見回したところ、それらしい公園を発見。しかし入り口にも、築山の碑にも鳥羽
離宮を示す案内板はなし。もしかしたら違っているかも知れないけど、一応撮影。
  
 ↑これも鳥羽伏見戦の碑。ここは時間もないことだし、次の目的地へ向かいます。
           

再び川沿いの道をサイクリング。なぜこの橋は途中まで残しているんだ?


完全撤去の費用が無かった?

造り酒屋「月の桂」 延宝三(1675)年創業。そういや吉田神社の節分祭で
ここのにごり酒を買って歩き飲みしてたナ。


         

近所の「おせき餅」の店。この店舗は新しいけど、すでに十七代続いている
そうです。どんな餅か?って私に聞いても無理。甘味は私の範疇外です。↓
      

そしてようやく目的地の「草津湊」に到着。イニシエのころ、「やんごとなき人びと」が遠方へ
配流されるときに、この湊で別れを惜しんだとつたえられます。

崇徳新院、大納言成親、法然、後鳥羽上皇、エトセトラ・・。策略や政変、法難など理由は
それぞれあったのでしょう。京での栄華の頃に思いをはせ、はるか遠くの流刑地への不安
に胸打ちふるわせた「やんごとなき人びと」の思念がただよう気もする草津湊です。

こんな書き方すると、怨念がおんねん、(一箇所はツマランこと言わんと気がすまない)みたい
な土地に思われるかも知れませんが、そんなことはないですョ。

かつては京と浪速をつなぐ交通の要所として、かなり賑わいをみせた湊だったそうです。
ここに到着した「鱧」を生きたまま桶に入れて市内に向かって走りだすスタートラインがココ。

「はしり」、という言葉はここから始まったそうです。(案内板に書いてありました)で、昨今では
この地を「鱧の湊」とよぶそうです。ワタクシは聞いたことはありませんケド。

余談ですが、「鱧寿司」は西本願寺の特別料理だったそうです。寺内町の人たちに伝わり、
六条の名物となったとか。その鱧もこの湊から運ばれていったのかも知れませんね。

今回は「鳥羽の作り道」を幹に「草津湊」を目指しましたが、作り道の説明をしていませんナ。

平安京の入り口の一つであった「羅城門」から南の道をそう呼んだそうですが、造られた時代
は諸説あるようです。平安京造営の祭に造られた道、というのが一番妥当と「京の古道を歩く」
には書かれています。

草津湊からの帰り道にもう一箇所訪ねたい場所があったのですが、また次回にご紹介します。
だれも待ってなくても掲載するもんね。

 

 

 


          

 

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿