なんでもアラカルト

エッセイ・イラストを対等に扱ったまったく新規な本の出版に関連する記事(Daily)

橿原神宮参拝と畝傍山登山

2014-08-26 07:52:52 | Weblog
昨日の「なんアラ」ブログで約束した通り、本日は、8/24に橿原神宮を参拝し、畝傍山登山した時の様子を画像中心に紹介したい。

まずは、前日、同窓会が開催された橿原観光ホテル全景。

今回の宿泊旅館はバストイレが室内になく、ネット環境もない、無いなぃ尽くしで有っただけに、次回の同窓会の時には、このホテルにすると何の気兼ねもなく、宿泊できそうな気がしている。

次いで、橿原神宮最初の鳥居

特に珍しくもないと思っていたら、何やら足場が組まれていて、絵にならなかった。
若い守衛さんに聞いてみてビックリ。
100年に一度という、水洗のみの大掃除だとか・・・。
喜んでよいのか悲しむべきなのか少々戸惑った。

いよいよ、本殿が近づいてきた。

この写真の右側を拡大すると

今年が、紀元2674年であることが分かる。
実は、この時は、自分の歳と照らし合わせて、紀元2700年まで生きられるだろうかと、何となく思っていたくらいである。
このブログの最後をお楽しみに!

次は、玉砂利が綺麗に敷き詰められた中に、巨大な木が立っていて、何とその根本は、小屋を突き抜けていた。

これも、信仰の対象になっているようで、立ち行く人たちは、ほとんど拝んでいたのが印象的であった。

そして、本殿が望める位置までやってきた。

厳かな気分がそうさせたのか、通常、無信仰の私はほとんど賽銭を上げて拝むこともなかったが、今回は、奮発(?)して500円硬貨を投げ入れ、合掌したものだ。

ふと、しゃがんでみて、中央に、立っていた時は見えないものを発見した。


これは、きっと鏡であるに違いないと思い、巫女さんに聞いてみたが、詳細は分からなかった。
後ほどネットで調べることにしよう!

これからは、畝傍山登山の話。
先ほどの守衛さんにどれくらいで登れるか聞いたら、25分程度だと言うことで、革靴であったが、意欲満々であった。


でも、標高は約200mとはいえ、やぶ蚊に何度か噛まれながらの登山はちょっと無理が有った。
漸くたどり着いた頂上には、標識はなく、小さな神社跡だけが残っていた。
たまたま、居られた女性に経緯を聞いて理解できた。
この山の神社が橿原神宮を見居らしていることが問題視され、その神社は移動させられたらしい。

納得!

畝傍山頂上から眺めた綺麗な姿の耳成山は、畝傍高校在学中に何度も眺めていたが、改めて凄いと感じた。

その耳成山を左端に、香久山を右端に何とかおさめた写真をどうぞ!


下り道は、違う気分を味わおうと、登りとは異なるルート選んだ。
これが、裏目に出て、革靴にはその急坂はちょっと無理が有った。
それでも、怪我無く下りられたことに感謝!

最後に待っていたのは、戦没者慰霊の公演であった。
そこには、珍しい看板が建っていた。

良く見ると、この橿原神宮の宮司さんが建てられたものらしく、終戦までに何機も作られた、戦闘機・戦艦・魚雷などの詳細な説明が写真とともに掲載されていた。
そこに載っていた零戦説明内容を見て、アッと驚いた。
零戦のゼロは紀元2600年(西暦1940年、昭和15年)に作られたものであり、当然1、2、3と戦闘機には数字が付けられ、その前に製造されたものは、99、98、97と命名されたのである。
更にいえば、終戦(西暦1945年、昭和20年)後に相当する6、7という戦闘機も実際に考えられていたというから驚きである。

いずれにしても、今回の橿原神宮参拝と畝傍山登山から多くのことを学ばせていただいた。

今回の「なんアラ」ブログは、久しぶりに、写真13枚付のロングランとなった。
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