5月14日(火)、晴。
快晴の朝です。
以前、情報としてお知らせしていた、水無瀬神宮での「水無瀬駒見学会」。
実施日(この秋)や、参加費用(おそらく数千円)は未定ながら、このブログでの参加希望者は6人あって、そのことは事務局に伝えております。
一方、詳細は6月に決まるということですが、遠方からの希望者も多く、ついでに高槻市の新将棋会館の見学を希望する人も多いはずなので新将棋会館オープン後に設定してほしいと、伝えております。
本件、状況は以上ですが、今しばらくお待ちください。
追記。
今日も仕事場ではいつものように、考え事をしながら盛り上げ仕事をしていたのですが、考えていたのは「水無瀬駒見学会」で、お渡ししようと思っている小生作の根付駒のことでした。
せっかく、水無瀬神宮でお渡しするのですから、出来るだけ良いものでありたいと、思いついたのは「八十二才の水無瀬駒」をモデルにした「玉将」の駒のことでした。
文字は勿論、駒の形なども「八十二才の水無瀬駒」を倣って作ろう、そう思いました。
そういえば、以前、水無瀬駒に倣った形と大きさ駒木地があったはず。と言うことで盛り上げ仕事を中断。探したところ、ありました、ありました。ヨシ、これで作ろうと、駒形になった木地を25個ばかり確保することにしました。
その根付駒ですが、喜んでもらえるのかどうか。
でも、出来上がるのが楽しみ。午後からは、工程を進めてみようと思います。
今はどうなんでしょうか?
余り変わっていないのでは?
2階に将棋教室が作られたりしましたが、それまでは、単に棋士たちの対局場所にのみ使われていたので、私のような部外者は立ち寄るところではなかったように思います。
福島の将棋会館では、将棋博物館が併設されて、学芸員も採用されて博物館としての体裁が整いました。
当時の館長は大山名人、副館長は木村義徳八段で、歴史的な将棋の道具を集めての「将棋展」も開催されました。
その時、どうしてなのかよく覚えていませんが、私にも声がかかり、「展」には協力することが出来ました。
それから20年ほどが経過して、米長名人の時、博物館が取りつぶされてしまいました。
何でも「経費が掛かる」との理由でしたが、そんなに経費が掛かるものでもなく、そのような意見を述べましたが、その頃のプロ棋士は「将棋の文化はさておき、将棋さえ指してメシが食っていければよい」との考えが強く支配していたように思います。
今度の高槻の将棋会館は、どうなんでしょうか?
「会館」と言うより、路地の奥に立っている2階建ての木造の普通の家。
私は、無くなる少し前に、南口先生に連れられて、一度、行ったことがあります。
確か、北村七段が管理番をされていました。
狭い階段は、ギシギシと音を立てて、失礼ながら「下もた家」というようなところでした。
それを知っているのは、80歳以上の方でしょうね。
新関西将棋会館は、今秋落成とのことです。何故、高槻に移転するのか知っておこうと思います。今のうちに、福島にある現会館も見ておきたいです。博物館展示もありました。故村山聖の通った食堂も行ってみたいです。さらに、阪南北畠時代を知る方は、高齢でしょう。学生個人戦予選を通過して北畠で対局するのが憧れでした。