不意に何か言う船頭の声が聞こえて顔を上げると、行く手にも雪が見えるだけであった。舟は巧みに操られ、暗い水面を滑り続ける。行き暮れておぼつかない前途を見る気がしたが、彼女も道を決めたからには止まるわけにはゆかない。自分には墨と筆があればいい、見かけの幸福が何になる、と気色ばんだ。ひとりが何だろう。憂鬱な日には憂鬱を描き、心の弾む日には弾むように描く。そして残りの一生を墨とともに生きてゆくだけであった。
(乙川優三郎著:「冬の標(しるべ)」, p333, 中央公論新社, 2002)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/0a/591d38c491858d265808547e1fe9a467.jpg)
(乙川優三郎著:「冬の標(しるべ)」, p333, 中央公論新社, 2002)
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