『庭訓往来』(ていきんおうらい)は南北朝後期から室町初期にかけて成立した書で、一年十二カ月の往復書簡の形式をとり、一般常識や教訓を学ぶ初等教育の教本として流布した。薮医者ならぬ「藪薬師」の単語が登場するのは、疾病の治療や養生法を語る十一月の往信である。
本書は「中層程度の武家の子弟が、寺院にのぼって児(ちご)時代をおくるおりに、あるいは家庭で教育を受けるさいに、手習う手本としてふさわしいように作られたもの」(「庭訓往来」, p323)として成立し、各月の主題は彼等の階層の生活全般に及んでいる。十一月の書状には漢方医学に関する語彙が多数包摂され、時代の中層武家の初学者に課せられた教養、学識の習得範囲は宏大であった。やがて『庭訓往来』は、「近世から明治の初年にかけては、そのいきおいを倍増させて、武士と庶民といった身分差にかかわりなく、また都市と農山漁村といった地域差もこえつつ、全国にあまねく浸透していった」(「庭訓往来」, p354)という封建的な枠組を越えた普及を示し、本邦の教育文化成立に多大な貢献を果たしている。
このたびも薮薬師の末裔として心に期する所があり、「皆以てもって禁忌の事」のくだりの拙訳を末尾に掲げた。過ぎたるは猶及ばざるが如し、そして中央ではなく中庸が理想であり、あるべきは過不足なく均衡がとれて調和した状態である。人が陥りやすい偏った生活習慣は時世が移り変わろうとも不変である。くれぐれも御留意の程を。
「此間持病再発、又心気、腹病、虚労等更発、旁(かたがた)以て療治灸治の為に、医骨の仁を相尋ね候と雖も、藪薬師等は、間(まゝ)見へ来り候歟(か)、和気、丹波の典薬、曾(かつて)以て逢ひ難く候、施薬院の寮に然る可き仁有らば、挙達せらる可き也、針治、湯治、術治、養生の達者、殊に大切の事に候也、此辺に候輩(ともがら)は、脚気、中風、上気、頭風、荒痢、赤痢、内痔、内癄(せう)、腫物、癰疔、瘧病、咳病、疾歯(むしくひば)、瞙(まけ)等は形の如く見知り候、癲狂、癩病、傷風、傷寒、虚労等は才覚なく候、同じくは擣簁(たうし)合薬瀉薬補薬等本方に任せて、名医の加減を以て、一剤を合せ服せんと欲す、此条尤も本望也、禁好物の注文、合食禁の日記、薬殿の壁書に任せて、写し給ふ可し候、万端筆を馳難き歟、併ら面拝を期す、恐々謹言
十一月十二日 秦の某
謹上 主計頭殿」
(十一月十二日状 往信│「庭訓往来 句双紙」, p96-99)
「玉章を披(ひらひ)て、厳旨を窺ひ、御用望既に分明也、仰の如く、当道の名医は、奔走有る可き也、権(かり)に侍医の道、一流の書籍を読み明め、療養共に、名誉の達者、抜群の仁に候、但し渡唐の船久しく中絶に依て、薬種高直(かうぢき)に候の間、大薬秘薬は、斟酌の事候、和薬を用ゐられば、参す可き候、五木八草の湯治、風呂、温泉等は、指せる費(ついえ)無し、凡そ房内の過度、濁酒(ぢよくしゆ)の酩酊、睡眠(すいめん)の昏沈、形儀(ぎやうぎ)の散動、食物の飽満、所作の辛労、恋慕の労苦、長途の窮屈、旅所の疲労、閑居の朦気、愁歎の労傷、闕乏(けつぼく)の失食(しちじき)、深更の夜食、五更の空腹、塩増(えんそ)の飲水(おんずい)、浅味の熱湯、寒気の薄衣(はくえ)、炎天の重服、皆以てもって禁忌の事に候也、御意を得て、養生せらる可き也、恐々謹言
十一月日 磯部の某」
(十一月日状 返信│「庭訓往来 句双紙」, p99-101)
雲雨の夢に惑溺する、濁酒(濃厚な味の酒)を痛飲、睡眠時間が長すぎる、身の立ち居振る舞いを乱雑にする、牛飲馬食、平素の所作にも格好をつける、寝ても覚めても面影が離れぬ恋患い、長い道中や旅先での疲労の蓄積、出不精の引きこもり、物事の度が過ぎた取り越し苦労、不摂生な生活を経て食欲減退、深夜の夜食や会食、五更(戌夜、3:00~5:00am)に至るまで空腹で過ごす、塩噌(塩と味噌)の塩水を多飲、熱湯を多飲、寒冷の時節に薄着、はたまた炎暑の時期に厚着する。以上の禁忌事項は何卒御心にお留め置きいただき、くれぐれも御養生下さいます様、謹んで御健勝をお祈り奉ります。
参考資料:
山田俊雄, 入矢義高, 早苗憲生:日本古典文学大系「庭訓往来 句双紙」, 岩波書店, 1996
石川松太郎校注:東洋文庫「庭訓往来」, 平凡社, 1973