由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

近代という隘路 その2(大震災にひきつけて考えました)

2011年03月20日 | 近現代史
 このブログではもともと身辺雑記は書かないつもりだったし、今度の大震災で、私個人が被害を受けたわけでもないので、記録に値するような事柄もない。実際、勤務先や家の片づけが未だに終わらない、とか、ガソリンが手に入りづらい、などということをこまごま書いたのでは、それ自体宮城や福島の被災者の方々を馬鹿にしているように見えかねない。
 といって、観測史上最大という今回の地震とは全く関係なく、かつての戦争についての愚考を披歴するのも、不謹慎とまでは思わないが、なんだか場違いな感じがしていた。「紅旗征戎(こうきせいじゅう)吾が事に非ず」などとすましていられるほど偉いわけではないし。それが私の勝手な思い込みではないとしたら、公開日誌でもあるブログというものの性格がしからしめるところなのだろう。
 とはいえ、あれから一週間以上たった。TVの軽佻浮薄番組・CMが復活しつつある。春の甲子園大会も開催されるようだ。で、別になんの関係もないのだけれど、あくまで気分的には、現在進行中の問題を、自分一個の関心事に引きつけて考えたことを公開してもいいように思えてきた。これを読んでくださっている人に、多少の参考を供することを期待しつつ。

 今現在、被災地の人々を含めた日本中の、第一の関心事は原子力発電所の問題であろう。
 人類は、自然の中の力(エネルギー)を制御し、役立てることで文明を築いてきた。古来からの火、即ち燃焼の力と、比較的近年の、電流の力がその代表である。力は、使い方によって、ものを作ることも、壊すこともできる。人間の制御を完全に離れた力は、どの人間の役にも立たない、純粋な破壊をもたらす。
 物質を根本的なところで壊して得た原子力は、たぶん宇宙の根源的な力の一つなのであろう。それはまず、戦争時の、強大な破壊力として登場した。現在は制御することによって、電力を作るのにも使われているわけだ。千年に一度の災害が、その制御システムに損傷を与えた。放っておけば、たいていの人間が想像したことさえない、大災厄が新たに始りそうなのだ。遠く離れた場所にいても、放射性物質なるものが、風に乗って災いを運んでくるのだそうだ。
 ただし、用心しよう。放射線に関しては、誰でも普段から浴びているものではあっても、数値的なことなど素人にはまるでなじみのない世界なので、「数字のマジック」が飛び交いやすい。マイクロシーベルトがどういうものか、一般人には具体的に知る由もない。ただ、福島で通常の五百倍超、東京でも十倍、などと聞くと不安になるし、ただしそれは胃のX線検診で受ける放射線量の30分の1以下で、健康に影響が出るレベルではない、と聞くと、少し安心する。そんなものだ。
 たぶん、どちらかというと、後者のほうが正しいのであろう。ホウレン草やら水に少し放射性物質が付着しているらしいというニュースも流れたが、それも時が流れれば忘れる類のものであろうと思う。もちろん、そのほうがいい。
 およそ浅薄な考えだな、という人もいるだろう。原子力とは、お前などがぼんやり想像しているのより、ずっと恐ろしいものなのだ、と。そうかも知れないが、徒に不安を煽るぐらいだったら、惰眠を貪るほうがまだましだろう。

 そんなことより、根本的に、原子力発電事業そのものがどうなんだ? のポイントで今後論議が活発になるに違いない。東京電力は、安全性を強調してきたのに、危険であることは誰の目にもはっきりしてしまった。それでも、この事業を続けるのか、やめるのか。やめる、とした場合には、その代わりに火力発電所を増設するのか、それとも、我々が、今ほど電力を使わないで済むようなライフスタイルに転換するのか。利害得失から、日本人の意識まで勘定に入れて、最善の方向を定める、と言えば、言葉の上では異論の出ようもないが、具体的にはどうやってやるのか?
 国民主権なのだから、最終的に決めるべきなのは「国民」だということになるのだろう。それはもちろん、イコール私やあなたではない。日本国籍がある個々人の「総意」である。そんなことは全く自明であるようだけれど、その総意はどのような形で汲み取られ、調整されて、例えば、原発なら原発の存廃を決めるのだろうか。
 答えは、議会制民主主義によって、ですね。すると、現在の議員の皆さんは、私たちの意思をまちがいなく、「国民の総意」にまでまとめていくのにふさわしい人物たちなのであろうか。皆が、そう信じているだろうか?
 というようなことを考えていくと、「国民主権」というのは非常に難しいものであることがわかる。一方、国の力は、ふだん意識するしないにかかわらず、確実に、ある。早い話が、原発を作って運営できるのは、国だけであろう。他の集団や個人には、だいたい、それほどの金が集められるわけはないし。
 つまり、我々の中の「何が」原発をもたらしたのか、よくわからない。原発反対派は国の内外に根強く存在するし、大多数は、こうなる前は、特に賛成でも反対でもなく、無関心なのである。それでも原発はできた。できたものは、我々の生活を支える一方、いざとなれば一瞬にして破壊する力を現に持つ。
 冒頭に掲げた藤原定家の日記(「明月記」)中の言葉は、彼が名門貴族の家の子で、平氏追討という平安時代末期の政治的な大事件には関心を持つのが当然だったからこそ、敢て言われたものである。近代だと、日清戦争があったことをしまいまで知らなかった学者がいるという話(誰のことでしたっけ? どなたか、御教示ください)があるが、大東亜戦争となると、日本の負けを信じなかったというブラジルへの移民、通称「勝ち組」を含めて、あったこと自体を知らなかった国民はまず考えられない(今の日本の若者の中にはいるようだが)。
 国家が発展するにつれて、それだけやることも大きくなり、巻き込む人の数も増え、巻き込んで犠牲を要求する度合いも高まる、ということである。個人が国家に対してどれほど関心を持とうが持つまいが、この事実は変わらない。今シリーズは、このことを中心に考察を進める予定であった。

 が、いきがかり上、いきなり現在の話になってしまった。気ままに書いている文章なのだから、そのへんは気にせずにやる。
 前回のシリーズ「正しい道はあるのか」で問題にしたような、「物語(の供給源)としての国家」は、現在ではどうなっているのか。昔とはずいぶん変質したのだろうか。そうも見える。大国同士の戦争の可能性が低くなり、それにつれて、一般国民が「国への忠誠心」を具体的に要求される場面は減る。そのためかどうか、兵役の志願者数の減少は、日本にだけ見られる現象ではない。アメリカでも、特にエリート層・富裕層では、兵役は避けられるようになっていることは、サンデルの本にも書いてある(『これからの「正義」の話をしよう』P.110)。徴兵制のある韓国では、不正な徴兵逃れを請け負う者たちが、一個の産業を形成している、と言われている。
 それでも、現代でも、この日本にも、兵士は、自衛隊員以外にも、いる。殉職なされた警察官や消防隊員の方々は、英霊と呼ばれてもいいだろう。そして今日も、チェルノブイリ級の惨劇(1986年)を避けるために、東京電力の職員・警察官・消防隊員・自衛隊員などが必死の活動を続けている。菅首相が東電へ行って、ハッパをかけたのがどれくらい利いたのかは知らないが、日本という国家への帰属意識がなければ、そんなことはできないに違いない。
 各国大使館が、日本滞在中の同国人に、福島第一原発付近からの避難勧告を出していること、勧告されたほうは、福島付近どころか、日本そのものから逃げ出すこともあるのは周知だし、その一環として、日本の航空会社で、外国人パイロットが帰国したきり戻らないので、一部欠航を余儀なくされているケースも報道された。こうした外国人たちが、日本人より臆病なわけでも、原発の危険性について知悉しているわけでもないだろう。この国のために、ほんの少しの危険でも冒す義理を感じていないだけの話なのだろう。
 今、日本人の全員がそんなふうになったら、それこそ壊滅的なことになるのはわかりきっている。つまり、「国への忠誠心」は、なくなっては困るのだし、幸いにしてなくなってはいないのである。将来はどうなるか、とても興味があるが、とりあえず、現に、国・国民を守るために最前線で戦っている人々には、国は応分の待遇と栄誉を与えねばならぬと思う。それは今日、どんなものになるのだろうか?
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