神奈川芸術劇場で7月3日まで上演中の「太平洋序曲」をお楽しみに頂いていますでしょうか?
このブログやHPが皆様のお役に立っているようでしたら、この上のない喜びです。
また、観劇するかどうか迷っている方に、少し前に書いた記事をお読み頂き、是非お出かけ頂ければと思います。ネタばれを相当していますが、少し予備知識があった方が、舞台に入りこめるという感想をあちらこちらで読みますので、拙い文章ですが、参考になさって下さい。
さて、今日は「変化し続ける舞台」ということで、00年、02年、11年の公演で大きく変わったことなどをお話ししながら、創り手のメッセージを観客がどう受け取るのか、また、社会の変化が観客にどのような影響を与えるのかを考えてみたいと思います。
よく「進化」という言葉を使います。多分「進化」は拙いことが洗練されていくという感覚で使っているのだと思います。私は、「進化」という言葉はあまり使いません。あくまで「変化」です。なぜなら、先程も触れましたが、舞台は社会の変化の鏡でもあるので、変更したことが舞台を洗練したり、多くの観客が感動するようになるとは限らないからです。
「太平洋序曲」についても同じように感じています。
本題に入ります。
私が、00年最初に観たときに、ものすごく感動したけれど、これだけは無理、と思った場面があります。それは、休憩時間に女性が集まるところでほぼ全員がブーブー言っていました。日本人女性の総意かもしれませんね。
「たまての自害」
の場面です。
上演されるたびに、まああの時代なら自害も仕方がないなぁと思える演出に変わっています。
00年の日本初演はどうだったのでしょうか。つまり、これは、原作の通りということです。
「帰り待つ鳥」で香山が出かけてしまい、悲しみの踊りを見せます。なんと、そのあとすぐに自害してしまうのです。日本人というか東洋人はすぐに自害するというイメージがアメリカ人にはあるのでしょうね。「蝶々夫人」のイメージが強いのでしょうか。「ミス・サイゴン」もそうです。
しかし今の日本女性はどうでしょう。男性よりも強く、明るく、しっかりと生きているではありませんか。そんな私たち日本人女性にこの場面は侮辱しているとしか思えません。
相当反発があったのでしょう。02年、今回とほぼ同じように、「帰り待つ鳥」では白い衣を掛けられるだけになり、自害したことがはっきりわかるのは「俳句」のあとでした。
ここから先は、私の記憶違いもあるかもしれませんが、いくつかのセリフによって、よりたまての自害が、仕方ないことだった、と受け入れられるようになったと思います。
最初は、香山と万次郎が逃げ帰った後に、ナレーターが
「交渉が失敗したことが、日本全国に伝わりました。」
というようなことを言うのですが、後半の部分は今回加えられたと思います。
なるほど、交渉が失敗すれば、香山も自害しただろうから、たまても後を追うのは当然と思えるわけです。
また、一幕のラストで、屏風の上でたまての自害のシーンが再現され、万次郎が「香山様」というと、香山が「これでいいのだ。我が国の平穏は保たれたのだ。」というセリフも、今回加えられたと思います。このセリフで、たまての死が無駄ではなかったのかもしれないと観客に思わせているようです。
確かに、「たまて」については今回が一番しっくりきます。
しかし「帰り待つ鳥」の歌詞からすると、やはり00年つまり原作がぴったりします。
「他に何が」つまり「他に選びようがない」と歌っているからです。
この歌の表現の仕方も、すぐに自害するときと、今回ではやはり変わってくると思います。
02年も変えても良かったかもしれませんが、キャストは00年と同じでしたので、「自害する」とわかって歌っていたのです。
今回の戸井さんと畠中さんの歌い方は今回の舞台に合っているかな、と思います。
が、私としては、たまての覚悟を歌いあげるので、死に向き合った時のもっと強い覚悟を表現して頂きたいなぁと思うのです。
実は、初日と他の日で変わったというのもありました。というか、ずっとこの演出だったのに、今回の初日だけ違っていのです。
それは、たまてが香山に刀を渡さなければならないのですが、それを渡せば香山が出かけてしまうので、そうはさせたくないと、たまては刀を抱きしめ後ろを向くのです。
そのたまてに対し、一回だけ違っていた時は、香山が優しくたまての肩を抱くようにして刀をもらう、でした。
それ以外は、香山はたまてを叱るように、やや乱暴に刀を奪い取る、という演技でした。
私の好みは、やはり後者ですね。
侍というものは、優しさを表現するのは苦手ですし、妻に対しても自分と同じ気持ちでいることを望んでいるはずです。
今を基準に考えると、「侍」なんて・・・でも、ここ数年「侍ブルー」だの、「侍ジャパン」だのと、やはり日本人は「侍」が大好きです。そこにあるイメージが香山にはあって欲しいのです。
たまての自害について批判的な話はまったく聞かないので、「今」の観客の感覚に合った演出になっているのだと思います。
と、書き始めたら止まらない!!!
全部の変更点を一回で書くつもりだったのに。
大きな変更点があるのは「菊の花茶」「木の上に誰か」「ボーラ・ハット」などです。
さて、次回は全部書けるでしょうか???
このブログやHPが皆様のお役に立っているようでしたら、この上のない喜びです。
また、観劇するかどうか迷っている方に、少し前に書いた記事をお読み頂き、是非お出かけ頂ければと思います。ネタばれを相当していますが、少し予備知識があった方が、舞台に入りこめるという感想をあちらこちらで読みますので、拙い文章ですが、参考になさって下さい。
さて、今日は「変化し続ける舞台」ということで、00年、02年、11年の公演で大きく変わったことなどをお話ししながら、創り手のメッセージを観客がどう受け取るのか、また、社会の変化が観客にどのような影響を与えるのかを考えてみたいと思います。
よく「進化」という言葉を使います。多分「進化」は拙いことが洗練されていくという感覚で使っているのだと思います。私は、「進化」という言葉はあまり使いません。あくまで「変化」です。なぜなら、先程も触れましたが、舞台は社会の変化の鏡でもあるので、変更したことが舞台を洗練したり、多くの観客が感動するようになるとは限らないからです。
「太平洋序曲」についても同じように感じています。
本題に入ります。
私が、00年最初に観たときに、ものすごく感動したけれど、これだけは無理、と思った場面があります。それは、休憩時間に女性が集まるところでほぼ全員がブーブー言っていました。日本人女性の総意かもしれませんね。
「たまての自害」
の場面です。
上演されるたびに、まああの時代なら自害も仕方がないなぁと思える演出に変わっています。
00年の日本初演はどうだったのでしょうか。つまり、これは、原作の通りということです。
「帰り待つ鳥」で香山が出かけてしまい、悲しみの踊りを見せます。なんと、そのあとすぐに自害してしまうのです。日本人というか東洋人はすぐに自害するというイメージがアメリカ人にはあるのでしょうね。「蝶々夫人」のイメージが強いのでしょうか。「ミス・サイゴン」もそうです。
しかし今の日本女性はどうでしょう。男性よりも強く、明るく、しっかりと生きているではありませんか。そんな私たち日本人女性にこの場面は侮辱しているとしか思えません。
相当反発があったのでしょう。02年、今回とほぼ同じように、「帰り待つ鳥」では白い衣を掛けられるだけになり、自害したことがはっきりわかるのは「俳句」のあとでした。
ここから先は、私の記憶違いもあるかもしれませんが、いくつかのセリフによって、よりたまての自害が、仕方ないことだった、と受け入れられるようになったと思います。
最初は、香山と万次郎が逃げ帰った後に、ナレーターが
「交渉が失敗したことが、日本全国に伝わりました。」
というようなことを言うのですが、後半の部分は今回加えられたと思います。
なるほど、交渉が失敗すれば、香山も自害しただろうから、たまても後を追うのは当然と思えるわけです。
また、一幕のラストで、屏風の上でたまての自害のシーンが再現され、万次郎が「香山様」というと、香山が「これでいいのだ。我が国の平穏は保たれたのだ。」というセリフも、今回加えられたと思います。このセリフで、たまての死が無駄ではなかったのかもしれないと観客に思わせているようです。
確かに、「たまて」については今回が一番しっくりきます。
しかし「帰り待つ鳥」の歌詞からすると、やはり00年つまり原作がぴったりします。
「他に何が」つまり「他に選びようがない」と歌っているからです。
この歌の表現の仕方も、すぐに自害するときと、今回ではやはり変わってくると思います。
02年も変えても良かったかもしれませんが、キャストは00年と同じでしたので、「自害する」とわかって歌っていたのです。
今回の戸井さんと畠中さんの歌い方は今回の舞台に合っているかな、と思います。
が、私としては、たまての覚悟を歌いあげるので、死に向き合った時のもっと強い覚悟を表現して頂きたいなぁと思うのです。
実は、初日と他の日で変わったというのもありました。というか、ずっとこの演出だったのに、今回の初日だけ違っていのです。
それは、たまてが香山に刀を渡さなければならないのですが、それを渡せば香山が出かけてしまうので、そうはさせたくないと、たまては刀を抱きしめ後ろを向くのです。
そのたまてに対し、一回だけ違っていた時は、香山が優しくたまての肩を抱くようにして刀をもらう、でした。
それ以外は、香山はたまてを叱るように、やや乱暴に刀を奪い取る、という演技でした。
私の好みは、やはり後者ですね。
侍というものは、優しさを表現するのは苦手ですし、妻に対しても自分と同じ気持ちでいることを望んでいるはずです。
今を基準に考えると、「侍」なんて・・・でも、ここ数年「侍ブルー」だの、「侍ジャパン」だのと、やはり日本人は「侍」が大好きです。そこにあるイメージが香山にはあって欲しいのです。
たまての自害について批判的な話はまったく聞かないので、「今」の観客の感覚に合った演出になっているのだと思います。
と、書き始めたら止まらない!!!
全部の変更点を一回で書くつもりだったのに。
大きな変更点があるのは「菊の花茶」「木の上に誰か」「ボーラ・ハット」などです。
さて、次回は全部書けるでしょうか???
私は「自害」をはっきり表現しない初演の演出が好きですが、今回の神奈川版はより万人に解りやすくなっているように思います。
確かに、神奈川版はすごくわかりやすくなっていますね。ちょっと謎めいて、いろいろ自分で考えるというのも、コアのファンには嬉しいこともありますねぇ。
その匙加減は創り手にとってはとても難しいと思います。
こちらの記事が目に留まり、コメントさせていただきます。
少々長くなりますが、お付き合い下さいませ。。。
(わたしは、「太平洋序曲」翻訳上演の初演と再演、そして今回の再々演。それから、宮本氏によるオンブロードウェイでの上演を観ております。)
わまさまは、ミュージカルナンバー「帰り待つ鳥」において、
>「他に何が」つまり「他に選びようがない」
と書かれておりますが、これは自害のことを指しておられるのでしょうか?
(他の記事で、「他に何か」との記述もありますが、ここでは「他に何が」と歌っていることを前提に話を進めさせていただきます)
でしたら、橋本氏の日本語の歌詞から判断するに、それは少し難しいのでは?と思ったのです。
ワキは。。。
「一人帰りを待つ、他に何が?」
「じっと帰りを待つ、他に何が?」
と、一連の歌詞を、続けて歌い上げています。
これは文脈上、待つこと以外何も出来ない、「他に選びようがない」、為すすべの無い、たまての無力さを歌い上げているナンバーに、わたしには聞こえるのですが、いかがでしょうか?
また、宮本氏は、たまてが自害をするタイミングを、原作の、ナンバー終了直後の位置から、一回目の交渉が失敗に終わり、その報を受けてから、というように変更しています。
これらを併せて考えてみるに、宮本氏の翻訳上演における「帰り待つ鳥」のわたしなりの定義は、、、
『たまての無力さを嘆く傍観者の歌にのせた、着替えの時間を稼ぐためのBGM』といった感じでしょうか。
というのは、、、
①歌のタイトルは、原作の"There is no other way"が、「帰り待つ鳥」と、宮本氏らによって創作されています。
鳥=たまて、と過程すれば、この歌のタイトルは「帰り待つ たまて」となるのではないでしょうか?
②ナンバーに入る直前の台詞に、「交渉に失敗した場合、覚悟はいいな」というようなことを、たまては香山に言われます。
ですから、そもそも歌に入る前の段階で、既にたまては、香山が交渉に失敗した場合、自害をする覚悟は出来ていると考えられます。(あるいは、香山に言われずとも、武士の妻ならば、当然のこととして)
③従って、自害するかしないかは、ひとえに香山の交渉の結果如何にかかっているわけで、たまてには、その裁量権はまったくなく、まさに彼女は、為すすべの無い、飼い殺し状態の鳥になるわけです。
以上のようなことから、作品の中で、あえて「帰り待つ鳥」の意義を見いだそうとすると、前述のように、
『たまての無力さを嘆く傍観者の歌にのせた、着替えのためのBGM』
となるわけです。
そこで、わまさまの、おっしゃっているであろう、
>「他に何が」つまり「他に選びようがない」
の部分ですが、自害より他に選びようがない、といった、たまての覚悟の歌とは、この日本語の歌詞からは、わたしには受け取れず、ミュージカルナンバーとしては、残念なことに、まったく魅力の無い、生着替えを延々と見せつけられる、退屈なものとなってしまいました。
無力な、たまて。
香山の力になれず、交渉失敗の報を受け、しかも、ある意味それは誤報で、彼女は自害する必要が無いにもかかわらず死んでしまう。
これを悲劇ととらえ、素直に涙するか、それとも単なる無駄死にととらえ、嘲笑するか。。。
でも、これでは困るのです。
それは、宮本氏の作り上げたものと、原作とは違うからです。
わたしの考えでは、たまては、香山のことを必死に想い、今の自分に何が出来るかを考え、それを実行に移す、とても優しく、そして強い女性です。
一部歌詞を抜粋すると。。。
I will prepare for your returning.
(is there no other way?)
I shall expect you then at evening.
(is there no other way?)
そして
(There must be other ways...)
更に、
I will have supper waiting.
(There is no other way.)
I shall expect you then at evening.
(There is no other way.)
(There is no other way.)
と、変化していきます。
この歌詞は、注釈によれば、通常の部分が、たまての台詞。
括弧付きの部分が、たまてが心の中で思っていること、だそうです。
(ここから先は、わたしの個人的な考えです。断定的表現ですが、作者に確認をとったわけでは無いことをご了承の上、お読み下さい)
では、原作のたまてと、翻訳上演のたまてのどこが違うのかと言うと。。。
たまてが自害する理由と、そのタイミングです。
原作のタイミングは、先述のとおり、ナンバーの直後。
そしてその理由は。。。
香山の後顧の憂いを絶つため、です。
たまては、当たり障りのない言葉を香山にかける一方、自分に待つこと以外に何か出来ないか、必死に考えます。
何か必ず出来ることがあるはずだと。
そして、ついに歌の終盤でこれしかないという、その結論が見つかります。
There is no other way.
大事なお勤めに、命がけでのぞもうとする香山。
彼が振り返ることなく、お勤めに専念出来るよう(せめて彼だけは生き残れるよう)、たまては自らその命を絶ちます。
後顧の憂いを絶つ。
これが、たまての自害する理由で、そしてそれは香山を見送った直後でなければなりません。
決して、交渉が失敗したという噂話を受けての、後追い自殺などではないのです。
わまさまも含めて、世の日本女性のひんしゅくを買ってしまった、たまての自害。
わたしも初めて観たとき(オリジナルブロードウェイキャストの映像)、たまての自害については、その意味がよくわかりませんでした。
そこで、原作を読み自分なりの解釈をし、今ではストンと腑に落ちます。
繰り返しますが、後追い自殺にもならない、後追い自殺。
無駄死になどでは決してない、香山に生きていてもらいたい一心から、彼女は命を絶つのです。
もう二度と会うことはないと分かっていながら、
I shall expect you then at evening.
と、嘘をついてしまう。
本来このナンバーは、とても、切なく、悲しい歌。
一曲の中で、とても重大な判断がなされる、大変ドラマチックなナンバーなのです。
以上、とりとめもなく、書き散らかしてしまい、結論らしい結論がでたのかもよく分かりませんが、翻訳上演のたまてと、原作のたまてとは、違うということを、ただただ知っていただきたい、それだけの思いです。
長文、失礼いたしました。。。
私もついつい熱く語りすぎることがあり、ファンの皆様に不快な思いや、誤解を与えてしまったかもしれません。申し訳ありません。
何度もこの作品をご覧になっていらしゃルのですよね。また、いろいろ教えて下さい。
よろしくお願い致します。