わまのミュージカルな毎日

主にミュージカルの観劇記を綴っています。リスクマネージャーとしての提言も少しずつ書いています。

今を見つめる手がかりに

2011年05月07日 | 雑記
「太平洋序曲」のことをいろいろ書きながら、「こんなに楽しんでいていいのだろうか?」という自問の声が聞こえます。
その一方で、是非、多くの方に「太平洋序曲」を観て頂きたいと思うのです。そして、是非、今を見つめる手がかりにして欲しいのです。

私たちは、常に歴史を刻んでいます。今刻む歴史の先に、次の歴史が刻まれます。
私たちは、刻まれた歴史を捨てることはできないのです。それが輝かしい歴史であっても、忌まわしい歴史であってもです。

(ここからは「太平洋序曲」の作品の内容を書いていますので、これから観劇なさる方はご了承の上お読み下さい。)
邦題「太平洋序曲」の原題は「Pacific Overtures」。
この作品は、アメリカ人のジョン・ワイドマン氏が脚本を書き、アメリカ人のスティーブン・ソンドハイム氏が作詞・作曲しています。アメリカ建国200周年の1976年に出来あがった作品です。ワイドマン氏は日本にとても興味があり、大学で研究対象としていたと聞いています。
お二人には、アメリカが日本にした砲艦外交への反省、それはアメリカが他国にもしたとの反省があったようです。

多くの場合アメリカは、砲艦外交の歴史を、輝かしい一面として掲げています。しかし、それはどうでしょう?
2001年9月11日。
砲艦外交を強く反省すべき出来事が起こりました。しかし、星条旗が揺れ、パール・ハーバー以来の攻撃だ、との市民の声に、なぜ、この出来事が起こったのか振り返ることはありませんでした。そして、10年の歳月が流れ、アメリカ軍によるパキスタンにおけるビンラディン氏の殺害が起こりました。
アメリカの外交は何百年と変わっていません。

とは、お話ししたものの、「太平洋序曲」の作品は、どちらかというとアメリカ人が見た、感じている、日本人の政治力や外交力をおもしろおかしく描いています。当然ですが、それはとても日本人には痛烈な批判に思えるのです。
日本は、科学技術の発達をして、世界経済を牽引するという意味では、世界の大国です。
しかし、大国とは思えない、何かちぐはぐな歯がゆさを常に感じて、私たち日本人は過ごしているのではないでしょうか?
それが何なのかを、この作品は私たちに教えてくれます。

第一幕に「将軍の寝室」という場面があります。そこで「菊の花茶」というナンバーが流れるのですが、この内容が日本の政権のありようを象徴していて、苦笑するしかないとなってしまうのです。
さて、この「菊の花茶」ですが、ペリーから1週間以内に米大統領の親書(手紙)を受け取る儀式をしないと攻撃するぞ、と脅かされ、鎖国を守るか、攻撃を防ぐかの英断を迫られる将軍とそのとりまきの数日を描く歌なのです。
英断しなければならない将軍はのんびりし、当事者意識はまるでない。そのかわりに、将軍の母は、将軍の医者と結託し、策をめぐらす。その策とは、「手紙を受け取る将軍がいなければ、ペリーも諦めて帰るだろう」と、将軍を毒殺してしまいます。(史実に基づいた流れもありますが、かなり創作されています。このことは、「太平洋序曲」が批判的にとらえられる一因でもあるのですが、私は、アメリカ人から見た日本だと思って受けて容れています。)

毒殺してしまうのは極端としても、

最高責任者が当事者意識がない、
とりまきが政治の実権を握ってしまう、
問題解決をせずに、問題の先延ばしをすることだけを考える、
最高責任者の首を据え変えれば問題が解決すると考えている、

など、昨今の政権のゴタゴタの生中継をみているような錯覚に陥るのは、私だけではないはずです。


さて、将軍がいなくなっても、ペリーの件はどうにかしなくてはなりません。
ここで優秀な下級武士(今でいえば、官僚ではなく事務方でしょうか)香川と、アメリカ帰りの万次郎は奇策を思いつきます。

浅瀬に続く海岸の砂浜に畳を敷き詰め、儀式を行い、儀式が終わったらその畳をすべて焼いてしまう。
儀式は行えるし、外国人に日本の土を踏ませないで済む。
儀式自体がなかったことにもなる。

頭がいいですね。素晴らしいです。でも、本当の問題は何も解決していないのです。
国民は何が起きているか、全く知らさせていいない。
そんなことでいいのでしょうか?


私たちは観客として、この作品を見つめる間に、いろいろなことを考えるのです。
その皮肉たっぷりの舞台は、私たちに「今」を見つめさせてくれるのです。


奇策によって隠されるたくさんの事実。
先送りしたばかりに、問題が大きくなる現象。
何も知らないばかりに、危険ととなりあわせになる。
それでも、政治は国民に知らせない、知らない方がよいとさえ考えている。

しかし、いくら隠そうと努力しても、歴史は誰かに見つめられている。
全体は見ていなくても、一部を見ている。
それは、普通に生活している人々である。

と歌うのが一幕のラストナンバー「木の上に誰か」です。
ソンドハイム氏自身が一番好きな曲と言われている「木の上に誰か」。
是非、最後の方の歌詞をじっくり聞いて下さい。
政治に直接携っていない普通の人々、そして、子どもでも大人でも、自分の今見ていることを、知っていることを大切にしなければいけないと語りかけます。
立場が違えば、見えるものも違う、と語りかけます。
ソンドハイム氏の世界観が垣間見られる一曲です。

私も、震災によって発生した、本当にいろいろなことに心痛め、政治に憤慨してます。
いろいろな立場で、いろいろな人が発言しています。

原発を止めたら、あんな不都合、こんな不都合・・・
政治的に利用しているだけ・・・

わが日本は、民主主義の社会ですから、発言は自由。そしてそれはとても大切です。
でも、いつも心に留めて頂きたいことがあるのです・・・
ライトナンバーは「Next」という力強い曲です。
わき目も振らず前進する危うさを描いています。
私は、こんナンバーを聞くと、
「50年後、100年後の人々に、恥ずかしくない歴史を刻んでいるか?」
と、口癖のように言っていた、某予備校の世界史の先生を思い出します。
今、目の前にあることだけを見ていると、選択肢を誤ると思います。
この作品を見ても「あの時、あんな選択をしなければ、今の日本は違っていたかも」と思うことがたくさん出てきます。
将来を見つめて、きちんと対応したいし、して欲しいと思います。


多くの方々に、50年後、100年後の人々に恥ずかしくない社会をつくるために「今」を見つめ直す手がかりとして、35年前に作られたこの「太平洋序曲」を是非見て頂きたいと思います。

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