朝礼の話題

見たり読んだりして、感じたことを朝礼で話しています。この頃は仕事の話は少なくなりました。

徐福は、日本人の起源か?

2008-10-06 11:49:04 | 趣味
徐福長寿館に行きました。2008/10/06
 佐賀で、空白の時間が出来ました。
金立サービスエリアでは、人間専用の出入り口があって、高速道路外の徐福公園に出られます。そこに立ち寄りました。
 意外に立派な公園で、いいですよ。
ゆったりした歴史に触れてストレス解消にお勧めです。
しかし、時間に追われるドライバーには無理ですね?

徐福さんを知っていますか?
徐福は秦の始皇帝に、申し出ました。
「はるか東の海に、蓬莱という神山があって仙人が住んでいる。そこへ不老不死の神薬を求めに行きたい」
始皇帝は童男童女3000人と様々な分野の技術者の集団・五穀の種子を徐福に託しました。徐福は大船団を組織し旅立ちました。そして「平原広沢」を得て王となり、二度と秦には戻らなかったそうです。
これは、「史記」秦始皇帝本紀に書かれていることです

「弥生の侵略者徐福」という記事がグーグルにありました。面白い考えをする人がいるものです。彼の説によるとこうです。
「秦の始皇帝の政治に不満を抱いていた徐福は、最初から不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなく、東方の島への脱出を考えていたのではないか?」
「徐福らの大船団での旅たちは一種の植民活動ではなかったか?」
「不老不死の薬を得る為に子供を連れて行く必要性はない。まして、五穀の種や工人が必要なのか?」
「元寇の時も元軍は日本に住むつもりで、穀物の種や農機具を携えていた」
「後漢書・東夷列伝には、『自分達は古の逃亡者の子孫で、秦の労役を逃れて韓の国に来た』の記述もある」
「徐福も秦の圧政を嫌って、蛮人の住む島へ植民し、新たな国を建国しようとしたのであろう。王国を建設するのに必要な人材と技術を集め、始皇帝を偽って秦から脱出したのである。中国には、徐福=神武天皇とする説もある」
「植民される側の列島の蛮人すなわち原住の縄文人サイドから表現すれば、まさに武装難民による侵略以外の何者でもない」

徐福集団が日本に到達したと仮定すれば、稲作文化、金属器文化、戦争文化の急激な波及など、縄文から弥生への激変が無理なく説明出来るのも確かである」

古代の日本の歴史は卑弥呼から始まることが多く、卑弥呼のDNAが、現代日本人につながっている雰囲気を持ちます。中山大臣は、日本は単一民族と言って、大臣を馘首になりました。
縄文人は、アイヌ・沖縄人。弥生人は徐福以降の渡来人、私たち現在の日本人は弥生人の末裔と定義付けたほうが、分かりやすい気がします。

スペイン語圏では、原住民とスペイン人の混血が進み、スペインの血が多いほど社会的地位が高いようです。
弥生時代の日本でも、渡来人の血が濃いほど社会的地位が高かったのでしょう。天皇家は長州のほっそりした顔の人が多いと云われますが、渡来人の血が濃かったと思われます。

ミトコンドリアのDNAは、女性からのみ受け継がれ、地域内では変化が少なく、この突然変異を辿っていくと、人類がアフリカ原産地からどんな経路を辿って来たかわかるそうです。
最新研究では、南アフリカ大陸内では、95%が同一のミトコンドリアDNAを持っているそうです。
男性の染色体Xは、父親から男子に伝えられるDNAがあるそうです。
南アメリカ大陸の21世紀現在の男子X染色体の南米古来のものは、7%しかいないそうです。93%の男子は、ヨーロッパ人・アフリカ黒人由来のものだそうです。すなわちインカ人の女性の93%は移民の男性の子供を宿したのです。(NHKサイエンスゼロでの講義にありました)
日本の男性のX染色体DNAを調べるとどんな比率なのか見たいですね。

縄文時代の日本は全体が屋久島の原生林のような状態であったでしょう.。
倒木が折り重なり、人が入れる環境ではなかったと想像されます。
そんな時代に、海岸の平地に小さな集団で孤立して生きていた邪馬台国などの集落は、大きく成長することもなく何千年もそこにあったでしょう。

屋久島の原生林のような環境を開拓し、吉野ヶ里の環濠集落を作るエネルギーは、縄文集落に有っただろうか?
吉野ヶ里の如き開発は、力ある集団でないと出来ないと感じます。
3000人の新技術のグループがあってこそ出来たものと思われます。
日本人の祖先として、徐福を研究する必要があると思いませんか?


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