福岡市を知る&学ぶ&楽しむ!子連れおでかけと地域史を学び続ける日々

大好きなまち~福岡市~での育児やおでかけと、福岡市の地域史を知り次の世代に伝えたいと学び続ける日々を綴ります。

鴻臚館跡のこと 2つの「??」を 解決しないと 先にすすめないような気がしています

2013年09月24日 19時03分00秒 | 鴻臚館跡・福岡城址・舞鶴公園(歴史)
9月の連休も終わり、さて、鴻臚館跡のまちまなびを再開せねば、と思っているのですが。

しばらく前から、気になっていることが 2つ のこったままして。
それぞれに持っている「??」を 解決しないといけないんだろうなぁと。


1つは・・・・・・・

いろいろ、冊子だったり、新聞だったりで、
まちの歴史を書いている文章の中で、鴻臚館跡のことをちょっと触れているとこを読むと
まぁ 気にしないで、そのまま さらっと まちまなび すすめていこうかなって思ったんですが
それって、説明としていいのかなぁ?説明足りてるのかなぁ??と どうしても 引っかかってしまうんです

でも、私が ちゃんと 年表なり年号なり、歴史を調べきれてないんじゃないのかなとも思っていて。

なんとかして、年号と説明の「あれ?」を解決せねば、私の 鴻臚館跡についてのまちまなびは 終わらないって思ってます。


えーっと、です、ね
参考文献、ひとつひとつ、書いておけばよかったって思うんですが・・・。

以前から作ってた 鴻臚館跡から掘ってでてきたものの表に いろいろ年号を書いたもので整理していると。

7世紀のとこ、“688年に 新羅使を筑紫館でもてなす(筑紫館の初見)” と書いていて。

次、8世紀のとこに、“779年 唐の国使が来た最後の年” と書いているんです。

なので、わたしは 外国使節の饗応を あの場所で行ったのは、7世紀から8世紀にかけて、でいいのかな?と思っていたんですよね。


だけど、鴻臚館跡のことを
“外交使節を迎えた古代の迎賓館”とだけ書いてあったりするのを読むと、
「あれれ?????????」って思っちゃうんです

“外交使節を迎えた古代の迎賓館”・・・・・・・・・だけ????

あの場所での“饗応”、“外国の商人”は どう取り扱われているの?

いやいや・・・・・
7世紀から11世紀までの 広い意味での“鴻臚館とその時代”だと、迎賓館だけがあの場所の役目だったではない・・・ですよね?!

うーん、もしかして・・・・
せまい“平安時代、後半まで”の“鴻臚館とその時代”で、
平安京のはじまり、794年以降の 
あの場所での 外国使節の饗応の事実を 探しもらしているの?!と 思って・・・・

“弘仁年間(810-824)頃に鴻臚館と中国風に改称される”とも書いているので
824年以降に、何度か なんらか 外国使節の饗応の史実があるのかもしれないなぁ・・・・・

うーん、今 手元にある参考文献、今一度 一から 読み直し?!


教科としての“日本史”は、中学3年以降、ちゃんとやってないので、
歴史の事実の気づきもれがあっても 本当に不思議じゃない・・・・・・


今一度 いちから読み直しと思うと、なんだかもう「あーあ」って 深いため息出ちゃうんですが、
でも 確認しないと 先に進まない気がするので、
なんとか 参考文献いろいろ 一から読み直してみたいと思います。


疑問 もう1つは。

何で“交易”や“古代の、海運業による国際経済(商取引)の現場としての商館”の役目が 
最近の鴻臚館の説明で触れてなかったりするんだろうなぁっていうことが
どうしても 理解できないんですよ

鴻臚館跡展示館にある、“掘って出てきたもの”って すごいものじゃないの?!って思って。
当時の交易の事実がわかるものだから、すこいんじゃないの?!って。

でも、「“迎賓館”とだけ書くと“交易”の事実って、伝わりにくい」ような気がするんですが・・・・


でも それって、私の 考え間違いなのかな?!とも思っていて。


“古代の国際経済(商取引)と日本”についての知識が ちょーっとあやふやなのがいけないのかな?!と思っていて、
このあたりのこと、再確認しなきゃいけないんだろうなと思っています。

ああ、世界史だぁ。。。。
高校3年間、頑張ったけど・・・高校時代って、何年前だっけ?!
自分の年齢を考えると ちょっとヒヤ汗出てきますが、
でも、鴻臚館で行われていた交易について、世界史分野のような視点での再確認も
なんとか がんばって やってみたいと思います。