前回の日記で・・・・
“鴻臚館跡”を 話すときに、
『飛鳥~平安時代後期まで』というふうに、筑紫館と呼ばれていた時代も含めて ものがたりを語ったほうがいいのか、
それとも、厳密に『平安時代』だけで ものがたりを語ったほうがいいのか、ということについて、
自分の中で「私は こっちだとおもう!」と 言い切ることができないでいるから・・・・。
なんて書いて、まちまなび・足踏み状態 表明しておりましたが。
決心!!つきました。
わたしは
『飛鳥~平安時代後期まで』というふうに、筑紫館と呼ばれていた時代も含めて ものがたりを語ることにしまーす
決めた理由は・・・・・・・・・
名前は違えど、あの場所にあった建物の用途は、平安時代の前の、飛鳥・奈良時代も、似てるようだから。
名前は時代と共に変わったようなんですけどね。
出産後に行った 中央市民センターでの地域史講座でいただいた資料によると
筑紫館→鴻臚館→鴻臚所→(蕃客所)→大宋国商客宿房 と呼ばれたそうで。
資料をあらためて読んでみると、
最初に
“筑紫の鴻臚館は、飛鳥時代から平安時代後半まで、わが国の古代を通じて対外交渉の窓口であり続けた唯一の施設”
という説明があって、
その先にも
“筑紫館・鴻臚館は7世紀後半から11世紀前半にかけて、その役割に応じて、外観性格を変えながら連綿と営まれた。”
と書いてあったので、
そうだなぁ~~、私は この“7世紀後半から11世紀前半にかけて”という視点、大事にしよう~♪と思ったのでした
筑紫館と呼ばれていた時代も含めないと、
遣唐使・遣新羅使のことや、その人たちが詠んだ歌のことを、
あの場所での エピソード・ものがたりとして触れることが難しいのかな??と思ったということもあるんですけどねー
ん~、やっぱり 行ってよかったなー、7月末の講演会
連休明けから、また がんばります
“鴻臚館跡”を 話すときに、
『飛鳥~平安時代後期まで』というふうに、筑紫館と呼ばれていた時代も含めて ものがたりを語ったほうがいいのか、
それとも、厳密に『平安時代』だけで ものがたりを語ったほうがいいのか、ということについて、
自分の中で「私は こっちだとおもう!」と 言い切ることができないでいるから・・・・。
なんて書いて、まちまなび・足踏み状態 表明しておりましたが。
決心!!つきました。
わたしは
『飛鳥~平安時代後期まで』というふうに、筑紫館と呼ばれていた時代も含めて ものがたりを語ることにしまーす
決めた理由は・・・・・・・・・
名前は違えど、あの場所にあった建物の用途は、平安時代の前の、飛鳥・奈良時代も、似てるようだから。
名前は時代と共に変わったようなんですけどね。
出産後に行った 中央市民センターでの地域史講座でいただいた資料によると
筑紫館→鴻臚館→鴻臚所→(蕃客所)→大宋国商客宿房 と呼ばれたそうで。
資料をあらためて読んでみると、
最初に
“筑紫の鴻臚館は、飛鳥時代から平安時代後半まで、わが国の古代を通じて対外交渉の窓口であり続けた唯一の施設”
という説明があって、
その先にも
“筑紫館・鴻臚館は7世紀後半から11世紀前半にかけて、その役割に応じて、外観性格を変えながら連綿と営まれた。”
と書いてあったので、
そうだなぁ~~、私は この“7世紀後半から11世紀前半にかけて”という視点、大事にしよう~♪と思ったのでした
筑紫館と呼ばれていた時代も含めないと、
遣唐使・遣新羅使のことや、その人たちが詠んだ歌のことを、
あの場所での エピソード・ものがたりとして触れることが難しいのかな??と思ったということもあるんですけどねー
ん~、やっぱり 行ってよかったなー、7月末の講演会
連休明けから、また がんばります