福岡市を知る&学ぶ&楽しむ!子連れおでかけと地域史を学び続ける日々

大好きなまち~福岡市~での育児やおでかけと、福岡市の地域史を知り次の世代に伝えたいと学び続ける日々を綴ります。

わたしは 「飛鳥~平安時代後期まで」で ものがたりを 語ろう

2013年09月22日 16時55分51秒 | 鴻臚館跡・福岡城址・舞鶴公園(歴史)
前回の日記で・・・・


“鴻臚館跡”を 話すときに、
『飛鳥~平安時代後期まで』というふうに、筑紫館と呼ばれていた時代も含めて ものがたりを語ったほうがいいのか、
それとも、厳密に『平安時代』だけで ものがたりを語ったほうがいいのか、ということについて、
自分の中で「私は こっちだとおもう!」と 言い切ることができないでいるから・・・・



なんて書いて、まちまなび・足踏み状態 表明しておりましたが。


決心!!つきました。


わたしは

『飛鳥~平安時代後期まで』というふうに、筑紫館と呼ばれていた時代も含めて ものがたりを語ることにしまーす



決めた理由は・・・・・・・・・

名前は違えど、あの場所にあった建物の用途は、平安時代の前の、飛鳥・奈良時代も、似てるようだから。

名前は時代と共に変わったようなんですけどね。

出産後に行った 中央市民センターでの地域史講座でいただいた資料によると
筑紫館→鴻臚館→鴻臚所→(蕃客所)→大宋国商客宿房 と呼ばれたそうで。

資料をあらためて読んでみると、
最初に
“筑紫の鴻臚館は、飛鳥時代から平安時代後半まで、わが国の古代を通じて対外交渉の窓口であり続けた唯一の施設”
という説明があって、
その先にも
“筑紫館・鴻臚館は7世紀後半から11世紀前半にかけて、その役割に応じて、外観性格を変えながら連綿と営まれた。”
と書いてあったので、
そうだなぁ~~、私は この“7世紀後半から11世紀前半にかけて”という視点、大事にしよう~♪と思ったのでした

筑紫館と呼ばれていた時代も含めないと、
遣唐使・遣新羅使のことや、その人たちが詠んだ歌のことを、
あの場所での エピソード・ものがたりとして触れることが難しいのかな??と思ったということもあるんですけどねー


ん~、やっぱり 行ってよかったなー、7月末の講演会


連休明けから、また がんばります