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そのままVon

おもに31文字の語呂合わせ日記

万葉集#16.3814-16.3815

2013年04月12日 |  / 万葉集

4/12

「真珠シラタマは緒絶ヲダエしにきと聞きしゆゑにその緒また貫ヌき吾アが玉にせむ(壮士ヲトコが娘子の父母に贈れる歌一首 #16.3814)」
「娘さん離婚されたと聞いたからわたしの妻にしたいのですが()」
「真珠の緒絶はまこと然れどもその緒また貫き人持ち去いにけり(答ふる歌一首 #16.3815)」
「わが娘離婚はしたが再婚をすでにいたして家にはおらぬ()」

「折角も玉の緒貫かんといいくるに歌で反せるすでに嫁せりと(右伝云けらく、時ムカシ娘子有り。夫の君に棄てらえて他氏ヒトノイエに改め適ユきき。時に壮士有りて、改め適くを知らずて、此の歌を贈遣オクりて、女ヲミナの父母オヤに請誂コひき。ここに父母の意オモひけらく、壮士委曲ツバラなる旨サマを聞シらじとおもひて乃ち彼の歌に報送コタへがてり、改め適きし縁ヨシを顕はせりきといへり。)」
「()」


棚の中の短歌と俳句

2013年04月12日 | 字余り

4/12

短歌と俳句について書く。最近本屋に行くと棚が2:1の割合で俳句のほうが多い。棚に収まっている本もなんかバラエティに富んでおり、楽しそうだ。援軍である川柳もそれ自体で短歌を圧倒するくらいの勢いである。短歌の応援たるべき狂歌などはほとんど見当たらない。
わたしも右か左かというときに十七文字が短すぎること、季語の制約があることなどがひっかかり、三十一文字を選択した。どっちが優れているというような論議は不毛であるが、どちらも世界に類を見ない文学形式である。どちらも老若男女を問わずかなりの俳人、歌人がいる。考えようによっては隣に住んでいるごく普通のおばちゃんも継続的に句や歌を詠んでいたなら文学者なのである。世界中を探してもこんなに文学者を擁する国は他にないだろう。
しかしこと日本の中では短歌危うし、という状況であり、本屋の俳句の棚の明るさが羨ましいのである。短歌の棚を明るい印象を与えるような棚にする方法はないか、ちょっと考えてみる。
まず短歌には前身の和歌の膨大な蓄積がある、昔の人は決して俳句を詠まなかった、百人一首のようなカルタの娯楽もある、狂歌のなかには世相をうまく歌ったすぐれたものがある、等と利点をあげてみる。たしかに下句の七七を構成する十四文字が何でもハショる時代感覚に合わなくなっているとか、女が強くなり重厚なことが嫌われる風潮になっているとか、とにかく軽快感を損なっているようにも見える。すべてを下句のせいにするのは下句に申し訳ないが、いまさら重厚さの復活や男性の覇権奪還を目論んでも無理である。そこで、いまある軽薄短小なものと短歌をつなぐことにより短歌の棚をあかるく活発になるように工夫することである。
むかし、夏目雅子さんが河童という号で俳句を詠んでいたことがあるが、これはAKBに短歌を詠ますとか、プロデューサーの秋元氏のような人に短歌をPRしてもらうことに通じないか。ネットを使った連歌を、それなりに名の知れた人にやらせるのはどうだろう。イラスト、写真、ビデオなどビジュアル系と絡ませるのはどうだろう。わが師(かってに思い込んでいるのだが)俵万智さんもだいぶお年を召してこられたが、あの『サラダ記念日』的なセンセーションをプロデュースできないかとか、色々と考えてみるがどうなんだろう。いま本屋大賞というのがあるが、店員が売りたいというような短歌本が出てこないとどうにもならないかとも自虐的に考えてみる。