暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

ことしもまたフランボワーズ(ラズベリー)の季節が来る

2016年06月20日 18時28分33秒 | 喰う

 

フランボワーズは毎年のように写真を載せて記している庭の果物だ。 例えば下のようにして喰う。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/59701348.html

冬に枯れた枝を根元から20cmのところまで残しておくだけで春になると蔓というか棘のついた茎がまた伸びてきて葉が茂り、そのうちあまり見栄えのいいとは言えないくすんだ緑色の丸いものができる。 そしてそれが赤くなって、、、、というプロセスなのだが今日雨が止んだ合間に見てみるとかなり赤くなっている。 けれどこれではまだフランボワーズ(ラズベリー)の風味はまだ出てこない。 青空マーケットのさくらんぼうと同じように深く暗いワインカラーほどにならなければ甘くも味もでてこなくて美味くない。 この分ではまだ4,5日かかるかと見ていたら夕食のサラダにそんなワインカラーのものが7,8粒乗せられていた。 家人があちこちの葉の裏、目立つところにあった熟れたものを摘んでいたとみえ、自分が撮ったのは次回の候補だったのだ。 

そんな風に短く切ってあったから伸びても背丈より上には行かず摘むのも簡単で、先日刈った垣根の中にとりわけ太く繁っていた、オランダ語でいう braam (ブラックベリー)と同じくヨーロッパの田舎では牧草地と道を隔てる垣根代わりに生やしているところが多く、これから沢山の実が必要以上に生り鳥が啄むままに放ってあるところも多い。 保存食のジャムにすることもあるのだが我が家では狭い庭だからこんな蔓延るものに生るままに任せておけなく株と言っても4つ5つにしてあるけれどそれでも二人住まいには十分以上だ。 これから9月まで屡々これを様々な形にして喰うことになる。

 

 ラズベリーの項;

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC

ブラックベリーの項;

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC


’16春の日本帰省旅(8)初めて御堂筋を難波から梅田まで歩いた

2016年06月19日 22時08分45秒 | 日常

 

2016年 5月 23日 (月)

大阪南部に生まれ育ち大阪市内で仕事をしたことがあるにも関わらず御堂筋を歩いたことがなかった。 けれど一時帰国して見舞った老母がデイケア・センターで1日遊んでくる日だから朝から夕方まで自由な時間があり、それなら今日は先日ジュンク堂難波店で教えてもらった梅田のジュンク堂ビルに御堂筋に沿って歩くつもりで南海難波駅から出発したのだった。 難波、道頓堀、心斎橋筋、戎橋筋などは若い時から歩いているところなので目を瞑っても大体分かるし大丸、そごうがある心斎橋あたり、アメリカ村あたりは地下鉄で行き来し見知ったところだった。 けれど大抵そういう時は点から点に移動するといった具合で周りを見ていなかったようだ。 70年代の中頃3年半ほど堺筋に近い河原町、淡路町あたりのインド人の貿易商が多い雑居ビルの輸出商社で営業業務をしている時には本町辺りを移動するには車ではなく自転車で走り回っていたこともある。 けれどそんなときにも周りをゆっくり見渡すような余裕もなく記憶も断片的なものでしかない。 たまに出かけるコンサートなどでは堂島、梅田近辺のホールや名画座映画館であってゆっくりあたりを歩くこともなかった。 それは同じように京都・奈良が日帰りで行ける距離にあっても、というかそうであるからそこで泊まったり何日か逗留するというような経験が後年までなかったことことにもつながるかも知れない。 自分の若い時の行動範囲というのは飲み食い・仕事・コンサートに映画館・本屋中心で友達と連れ立ってすごすようなことも余りなかった。 だから今回難波から梅田まで御堂筋を歩くというのはそんな昔の点の記憶を繋ぎながら5kmほどの直線を日差しの強い夏日に御堂筋の西側のビルで日陰になった舗道を北上するのに最適だった。

途中で思い立って東急ハンズに寄るのに御堂筋を渡ったらその陽射しにクラクラと来そうだった。 足早に目的のビルに入って冷房で一息つき去年買えなかったもう10年以上使っている使い捨てペンを一箱買ってまた御堂筋を横切って日陰の舗道に戻ったらそのうちビジネス街、大銀行、ブランド物のファッションビル、高級外車に金融大手のビルの連なりの中に教会の建物が見えその建物を撮るのに東側に渡って建物全体を眺めシャッターを押した。  上にカトリックの十字架、けれどメインのたてものはギリシャ神殿様式のものでセント何とか教会というような看板が見え、何とかクラブというような企業家のクラブのような雰囲気持つものなので興味に惹かれて階段を上がってドアを開けて中に入ると誰もおらず絨毯が敷かれた奥には会館か広場が窺われるようだったのだけれどそこに男がのっこりやってきて何か、と訊く。 教会のようなので中を見せてもらえればと来たのだというと、笑ってここは単なる結婚式場で協会は名前だけと言った。 祖母が生まれた田舎の生家のそばに何キロも先から見える巨大な安っぽいフランスの教会コピーがあってそれが80年代後半にモルタルで築かれた結婚式場なのだがなるほどこれも態のいい昔からここにあった建物を使ったものだったのだ。 そういえば階段の傍にピンクの大きなリボンと風船をつけた古いフォルクスワーゲン、ビートルが停められていたのがそのサインだったのだ。

暫く行くと南御堂、北御堂と続く。 浄土真宗の何とか派と何とか派の寺で自分の実家の宗派は浄土宗なのであまり縁のなかった寺なのだったけれど何故だか昔から真宗の寺は金持ちでスマートだというような印象があった。 さっきの教会に入れなかったためか高い階段を上って本堂に入れば広い堂内は輝くばかりで4,5人があちこちに散らばって坐り読経の僧の方を見ている風だった。 5分ほどそこに坐っていて外に出た。 階段を昇ってくるときと降りるときは景色が変わる。 2年ほど前に比叡山の明王堂に石段を登り護摩の行が済み出てきた時に見たのは目の前に広がる琵琶湖だったのだが今目の前に広がるのは積木を積んで壁を作ったビル街でそのコントラストに奇妙な気がした。 たしかにこんな都会にこんな寺があるのはモダンなのだ。 大きな寺が静かな山中や公園の中にあるというのはステレオタイプであり時代によってそれがいつまでも保証されるというのが幻想であるという証でもあるのだろう。 この二つの御堂がそれを示しているし、そもそもこの二つを通る筋を御堂筋と名付け人々の願いが叶ったのか商いの都市が出来上がっていた。 ほんの目の前に高速道路の下に広がる船場センタービルがあった。 ここには何度も来ている。 業者用のパスを持った母が何かあるとここで沢山の衣料を仕入れレジで精算してそのまま運送屋に翌日家まで発送させるというスタイルをまだ宅配便や宅急便がない時代から利用していて長い建物の中を母親の小僧よろしくあちこちに引きずりまわされるのにはうんざりしていた。 同じようにして自分が1980年にオランダに来るときにはヨーロッパでは衣料が買えないかのように下着、靴下等を箱に詰めて送ったものだ。 それには自分がそれまで商社で船荷を扱っており通関業務が出来たからコンテナーの空きに自分の荷物を積めてオランダに送るのに少々の嵩があっても安価にできたからでもあってだからそれから36年経ってもまだその時の下着が残っているといった次第であり、86年に当時一緒に帰省していた今の家人と一緒に披露宴を済ませるべく金髪碧眼の嫁の手を牽いてここにきてあれやこれやと買い物をしたのも業者のパスをもった母だった。 それにしてもそれ以来センタービルに来たことも見たこともなかったことに気が付いたこと、自分が働いていた雑居ビルもそこから遠くない距離だったことにも想いがいった。

ヘンリー・ムーアの「二つに分断された人体」と書かれたあまり大きくもない像があったので周りをグルグル回って眺めた。 暫く行くとまた他の像がありそれが点々と続いた。 東側にもあるのかもしれないけれどそれを見るのにわざわざカンカン照りの反対側に行くのも嫌でそのまま北上しているとキリコの見慣れたかたちがあってキリコの作だと書かれているのだがそれなら先ほどのムーアの像はプレートを見るまでムーアだと分からなかった。 ヨーロッパのあちこちで見るムーア、美術館のムーアは大きく、丸く、いかにも銅だという色をしていているのだがここのムーアは小さく、丸みもなく、その表面は真鍮にニスを塗ったような光沢だったからプレートを見て意外だった。  北新地近くまで来るまでに幾つもそんな像を観てきたのだがどれも小さかった。 大きかったのかもしれないがギャラリーの中ではなく周りのビルの谷間の空間、野外にあれば小さく見えるのは当然のことだ。 それに日本は平和なのだ。 こんな美術品を並べて置いて盗られないと安心しているのだ。 たとえ監視カメラがあったとしても盗ろうと思えばどうということはない。 荒っぽく土台を壊し海外に持ち出せばそんなことなど造作もない。 中国人がヤクザと協力すれば楽勝だし中国人だけでやってのけられるかもしれない。 ただこれらの作品がそれだけの利潤を生むかどうか確かであるのが盗る条件になるだろう。

そんなことを思いながら北新地近くにきて駅前第三ビルから第二ビルを抜けている時この辺りに45年ほど前に大学時代写真の材料、トライXの100フィートフィルムや印画紙、定着剤などを買いに来たことを思い出した。 近所にライカの店があったので眺めていると三つ揃えの背広を着た年配の店員が来て古いカメラの話をしているときに何年か前にミュンヘンにバカンスの途中2泊ほどしてそのとき自転車で市内を散策している時にライカのギャラリーがあったので入って眺めたことなどの四方山話をしてそこを出た。 ビルを出るときにバーが見えたので喉を潤すのにジンにライムを垂らしたものを飲みたいと入れば6時からでないと出せないと断られた。 難波や新世界の立ち飲み屋では朝の8時9時から飲めるのに何と言うことだ。 そのままそこを出て陸橋を渡り阪急百貨店に入り東側に抜け商店街から新御堂筋の高架に沿って目指す本屋に辿りつき書架の間、階を幾つか行ったり来たりして過ごし店員に地下鉄梅田駅にもどるのに一番近い順路を教えてもらいそれに従うと地下街に入り暫くするとそのまま見知ったところに出たのには驚いた。 地上と地下の世界がここで繋がり、分かったのだった。 今薄暗くなっているだろう梅田から難波まで、まだ陽が高いうちに歩いて来たところを地下鉄で戻った。 難波駅に来て堺駅で会う約束の6時までまだ時間があると計算しこのあたりでコーヒーを飲みたいと思ったなら来る英国屋に入ってのどが渇いていたから何年かぶりでバナナの香りが懐かしいミックスジュースを頼んだ。

堺駅で友人と居酒屋で食事をしたあと散歩がわりに歩いているときにペットショップに入りそこで見た犬猫の値段の高さに驚いた。 なるほどこんなものにそんな金を払うのなら犬猫かわいがりをし奇妙な衣装を着せる筈だと分かった。 うちの近所では血統書などなくともそれなりの格好をしている犬猫を貰ってきて育てているのだから日本での特に若い年代の犬猫にたいする「思い入れ」も分からなくはない。 愛情の見返りを含んで先行投資を誘う店、愛情が金で買えその投資額が大きいほど愛情豊かな「カワイイ」犬猫が求められる店でもあるのだ。 友人と別れまだ時間があったから岸和田駅で降りて駅前の大阪南部でただ一つのジャズ喫茶「ピットイン」でウイスキーを飲みながらLPを2,3枚聴いてからほんの数十メートル歩くとダンジリ祭りのときはテレビ中継もあり数千人、万人がひしめき合い集う場所が今は人通りもない夜の駅前で、そこで終電車まで暫くあるのを確かめて切符を買い自分の駅に戻ったのだった。 宿の風呂に入ってからクーラーをつけっぱなしにして眠った。


ヘイトフル・エイト  (2015);観た映画、 May '16

2016年06月18日 18時16分00秒 | 見る

ヘイトフル・エイト  (2015)

鬼才クエンティン・タランティーノ監督が、大雪で小さなロッジに足止めをくらったワケあり男女8人を主人公に描くバイオレンス・ミステリー西部劇。ひとつの殺人事件をきっかけに、嘘で塗り固められた登場人物たちの間に広がる疑心暗鬼の行方と思いも寄らない素性が次第に明らかとなっていくさまを、緻密な脚本と過激なバイオレンス描写で描き出していく。出演はサミュエル・L・ジャクソン、カート・ラッセル、ジェニファー・ジェイソン・リー、ウォルトン・ゴギンズ、デミアン・ビチル、ティム・ロス、マイケル・マドセン、ブルース・ダーン。

南北戦争後のワイオミング。雪の中を走る1台の駅馬車。乗っているのは賞金稼ぎのジョン・ルースと手錠をはめられた賞金首の女デイジー・ドメルグ。そこへ、馬が倒れて立ち往生していた元騎兵隊の賞金稼ぎマーキス・ウォーレンが、お尋ね者3人の死体と共に乗り込んでくる。共にレッドロックを目指す一行は猛吹雪を避け、道中にあるミニーの紳士洋品店に立ち寄ることに。そしてその途中でもう一人、レッドロックの新任保安官だというクリス・マニックスを拾う。ようやく辿り着いたミニーの店にミニーの姿はなく、見知らぬメキシコ人のボブが店番をしていた。そんな店には他に、絞首刑執行人のオズワルド・モブレー、カウボーイのジョー・ゲージ、南軍の元将軍サンディ・スミザーズという3人の先客がいた。一見、まるで無関係な8人は、ひょんな成り行きから、この店で一晩を一緒に過ごすハメになるのだったが…。
 
上記が映画データベースの記述である。 オランダと大阪を結ぶボーイング機の中の狭い座席でスコッチを手に昔のものに比べて格段に綺麗に写る目の前のモニターのものを観た。 食後のスコッチと満腹感から話が謎解きに入るあたりで居眠ってしまい目が覚めて頭がすっきりしてから再度観た。 出だしのショットがいい。 西部劇なのだから広大なスペースを我々に感じさせる装置が必要であり、それを情け容赦ない世界を嘆きながら十字架にかけられているキリストの後ろから話しが始まるショットはセルジオ・レコーネの現代版だとの確信を与えるのだしそれはマカロニウエスタンがイタリアやスペインでロケをしたような乾いて荒れた岩山や砂漠が広がるスペースではない。 雪の中に閉じ込められて徐々にテンションが上がって来る人物群のシーンは「Once Upon a Time in the West(1968)」ので砂漠の駅馬車中継所の対照されるべきものだ。 また、題名の 「The Hatefull Eight」は「七人の侍」に材を採る「The Magnificent Seven」をもじってそれに数を一つたしたもので数々の西部劇を経てこのジャンルにまた一つの足跡を残すものである。 また題名でいうと「イングロリアス・バスターズ (2009)」での群像と Inglorious が呼応するようでもあり、第二次大戦中のフランスで始まるのであるけれどその出だしは紛れもなく西部劇であり音楽とも相まってセルジオ・レオーネへのオマージュが感じられた。
 
タランティーノ作品に常連の俳優に比べてカート・ラッセルが加わるのが意外に思ったけれどジェニファー・ジェイソン・リーとの掛け合いで相乗効果を上げている。 何でもポリティカルコレクトの時代に容赦なくリーを打ちのめし血だらけにする嫌いな奴の一人に対抗して魁偉な雰囲気まで醸し出すリーはその役とはいえ達者なものだ。 データべ―スで彼女はヴィック・モローの娘だと言うのを知って喜んだ。 彼女は自分が子どもの頃白黒テレビにかじりついてみたテレビの戦争映画シリーズの「コンバット」のサンダース軍曹の娘だったのだ。 なるほどノルマンディーに上陸して以来ヨーロッパ戦線で戦った男の娘ならそれは強いはずだと納得した。

’16春の日本帰省旅(7) 道頓堀から周防町、心斎橋に新世界をブラブラした

2016年06月17日 15時26分14秒 | 日常

2016年 5月 19日 (木)

この日は老母がデイケアセンターに出かける日だったので自由となり難波に出て本屋を探しにでかけようと宿を出た。 30分ほど乗る電車は昼前だから通勤客はなく仕事、用事・遊びの中年以上、女性が多い配分で空港近くの駅だから車内に入ればまだ座れる空間はある。 この何年か大阪キタ・ミナミの大型書店が姿を消し、この何年かは吉本の難波グランド花月前にあったジュンク堂に出かけていたのだがそれも今年は消えていて仕方がないからその前で劇場に入る人、行き交う人々の流れを警備の若いのと眺めながら四方山話をして時間を潰していた。 なんといろいろな格好、肌の色、言葉の違う人たちが行き交うものだ。 もう何年も前からそこに続く道具屋筋では上から流れる広報は英語・朝鮮語・中国語なのは承知しているが今更ながら中国人の溢れているのにはため息も漏れる。 そこから遠くない黒門市場はその顕著なものだ。 自分の戻るホテルが分からないと警備員に尋ねるフィリピン人の母娘がいてその日本語がさっぱりわからないので警備員が困っているので英語で話しかけると返す。 それで見分け難い地図を頼りに話すのを通訳して警備員のスマホに連動させて説明するのだが日本の大都会の繁華街の集密度に情報のカオス状態ではそこから数百メートルの場所であっても辿りつくのは日本人の自分のような御上りさんでも同様だ。 

そんな警備員と話していてジュンク堂が消えて残念だというと難波の高島屋に移ったのではないかというので行ってみた。 そこで尋ねるとそれは正確ではなく西難波駅の近くだと言われたのでそこにブラブラ歩いて行った。大阪のことは多少とも承知しているけれどそんな名前は聞いたことが無かった。 言われた通りそこに行ってもし難波と名の付く古い駅があったならその駅舎でも撮りたいと思っていたのがそれは旧港町の駅でそんな駅舎もとうにビル街の中にカゲロウとなって消えていた。 ビルの何階かの広いフロアにジュンク堂があり幾つもの棚が整然と並んでいるものの別段何が欲しいとも頭になく、今年の10月か11月に高野山から熊野本宮に向けて3泊4日ほどで歩きたいと思っているので5万分の1の地図を何枚か求め文庫本を一つ二つデイパックに入れたあと、さて、どうしようかと外に出ると久しぶりに「はり重」のカレーが喰いたくなりその方向に歩いて行った。

肉屋の「はり重」は古くからその肉屋のそばにすき焼屋、グリル、カレーとビーフ・ワンという肉丼だけの小さな店があり、1969年だったかそこのカレーの洗礼を受けたのだった。 肉屋には美味い奈良漬も売られていてそれがカレーの傍についていたのだし肉丼には山椒の粉がかかっていて今ではそれは普通なのだろうけれどその当時には我々の舌を一味ちがうものとして実感させたものだ。 前回、去年の秋にはそのビーフ・ワンを喰い、当時の空間はそのままだったけれど当時にはなかったテーブルがいくつも配置されていて何人かのオバサンウエイトレスに当時のことを話して懐かしんだものだ。 それが去年のことでこの日は久しぶりにここのカレーを喰いに行くべく中に入ると一杯だった。 待つのが嫌だから外に出て肉屋の棚を眺めていると一番高いのが100g2000円と出ていた。 もっと高いのもあるのだろうがそれは中に入って尋ねて初めて出て来るものだろう。 ネットでみればしゃぶしゃぶ肉800gがセットになって32000円というのもあった。 そうなると1kgが4万円か。 精々このごろワギューという質のいい高い肉が特別にオランダでも生産されているということは知っているのだろうがそれでもそれは質は別として特別だと言うので付加価値が付いて1kgで1万円ほどの値が付いているかもしれないがそんなものは例外だ。 ただ日本の肉というのと高いということだけで新しいものずきが話の種に一生に一度の経験として出かけるぐらいで一般にはバカバカしくそんなものを喰うぐらいならいくらでも他に喰うものがあるとして見向きもしないだろう。 そんなことを思いながら松竹座の方に曲がったら割烹とグリルの前に割烹着のような制服を着た接客の男がいたので先ほどの吉本の劇場前と同じくその男の傍で行き交う人々を眺めていた。

昼間の時間だから松竹座に入る前に昼食をというような年寄りや年配の商店主とも思われる人などが割烹に出入りし四十を越したぐらいの男がテキパキと対応をしているのだがそんな年寄りたちに対応する態度がすこぶる他の呼び込みたちとは違い特別に呼び込むことはしない。 ただそこにいて誰彼となく分け隔てもなく道順を訊かれるままに教えすき焼を昼間からやっているのかという客にもどんなふうに煮炊きしてだすのか値段、種類などを説明している。 尋ねた中年婦人二人は高いなあ、といいながら離れていくのだが男はそれにも声はかけず笑っている。 メニューを見るとなるほど安くはないが日頃ちょっと入ろうというようなものでもなくすき焼きなど今はどこでも喰えるのだから主婦の習いでそうなるのもうなずけるようだ。 地元の岸和田にも「はり重」というのがあって高価な肉を商っている。 もう4年ほど前にアルツハイマー初期の母を自宅で世話した時に何が喰いたいかと尋ねるとステーキだというのでそこで買って食わせたことがある。 年寄りのことだから自分は味見程度でいいと200gほどで3500円ほど払った覚えがある。 それを母はペロッと全部平らげたので自分は味見をする機会がなかったとそのことをいうと、そこはうちとは何の関係もない、よくそのことを訊ねられるけどあれは分家でもチェーン店でもないと主人から言われている、あそこのは播磨じゃなくどこかの「はり」でしょとのことだった。 

表を行きかう人々を眺めていると面白い。 世界中で大阪だといわれると出てくる「かに道楽」の前では様々な人が記念写真をとり、それを邪魔者だとみるような店員たちが忙しくその間を縫って動き回る。 いつだったかオランダのテレビでホステスやホストたちの話がドキュメントになっていてそのことをその男に言い、そんな水商売の人々をあれはそう、これはそうじゃないと目で追っていたのだがその男は履いている靴で見分けがつくという。 若い娘や女は化粧や服装が千差万別でケバいからだと言ってその筋とは限らない、自分は靴を見て判断するという。 それから先は言わないけれど言われてみて靴に集中すると分からなくもないような気がしてくる。 立っている場所は日陰になるので30℃はある日向を歩くのは堪らない。 それでも何人かグループで大きなスーツケースをガラガラ曳きながら移動する中国人たちが行き交いそのことを言うと賑わうときはこんなもんじゃない、それに中国人はうちには来ない、高すぎるから、あいつらは自分たちのネットワークを持っていて安いホテルに泊まり、ものを買いあさっては引揚げていく、ここでの犯罪というのは中国人が中国人の観光客を襲うんだぜ、あいつらの方が日本人よりよっぽど現金をもってうろうろしているんだから、それに強盗にしても自分たちのネットワークがあり、警察も手も足も出ないようだと教えてくれた。 なるほどそんなものか、ビジネスは効率優先だなと苦笑いもでる。 

そんなことを話していると白人家族が地図をもってこの店員に訊ねて来る。 日本語がわからず何かラーメンと言っては店の名前らしきものをいうけど分からない、ラーメン屋などここにはゴマンとあると言うけど相手には通じない。 英語が分かるかというと自分たち家族はそのラーメン屋を探してもう1時間ほどあちこち見て回っているけれど分からない、ここはテンノウジか、というからテンノウジなら地下鉄で3つ4つ行かないとだめだ、で、その店の名前をもう一度、というと店員はちょっと待て、それならこの道を100mほど行った右側にあるのじゃないか、という。 それを言うと助かった、ありがとうというので先ほどから英語に訛りがあるのでオランダから来たのかと訊くと驚いた顔をしてどうしてそれが、という。 オランダ語であんたのアクセントはオランダ訛りじゃないかというと親はオランダからの移民でシドニーから来たのだ、なんで日本人がオランダ語をというのでオランダから来たところだというと5つぐらいの男の子が英語とオランダ語の混ざった言葉でロッテルダムに行ったことある?と訊くので何度もあるし家から1時間ほどだというとおばあちゃんはロッテルダムからオーストラリアに来たんだ、と言ってそのラーメン屋に2mほどある父親、180cmほどの母親がそんな日向もものともせず御堂筋を横切って行った。 

そのうち腹が減ってきたのでさっき満員で喰いそびれた話をするとグリルに入れば同じものが喰えると言うので中に招かれた。 なるほど両方が店はL字型にくっついている古いグリルだけあって戦前の雰囲気が溢れている。 客は常連か年寄りばかりだ。 壁にかかっているリトグラフかアクアチントにメゾチントかというような果物のプリントも本物だ。 ビールでカレーを喰って外に出ると先ほどの男が80歳を越したと思われる、和服を上品に着こなした女性を割烹料亭に迎えているので上客だね、というとあれは家の仲居さんですと笑った。 大体が年配の客が多いので仲居さんたちも働けるだけ働いてもらってます、と鷹揚なものだ。 ほぼ2時間以上も楽しませてもらい満腹にもなったのでグリルの釣りをこの男にチップにした。 うちの辺りじゃオランダ人はケチだけどあんたみたいな人にはチップをはずむんだ、少ないけどそれでも素うどんぐらいは喰えるからとそこを離れた。 

腹ごなしに御堂筋を北に向かってアメリカ村辺りまで行ってみようと歩き始めた。 別に何をしようという目的もなくマッキントッシュの店でアイパッドを眺めたりしていたのだが三角公園の方に向かうと楽器店があったので入った。 アンプや楽器といってもギターばかりでブランドものが殆どないので訊いてみるとそれなら50mほど行くと専門店があるという。 そこに行くとなるほどヴィンテージものがあり見知ったギターが並んでいるけれど自分が贔屓のオランダ人のギタリストが持っていた何とか言うスウェーデン製の、というとレヴィン?というので、ああ、それだ、というとジェシー・ヴァンルラーの? と反応があり流石プロが来る店だ、と客の来ない4階の店で音楽事情、ジャズのことなど駄弁っていると客が来てギターを試している。 アマチュアではなくセミプロかプロのような弾き方をして暫くしてまた来ると言って帰って行った。 ながながと居座ると邪魔にはならないけどそろそろ閉店も近いのでそこで美味いコーヒーの店を教えてもらって外に出た。 なるほどその店は美味いことは美味いのだが流行の店構え、その質にしては値段が高くトレンディーとはこういうものだと外国人が多い店内を見て納得した。 女の子たちは英語が分からないのによく注文が出来るもんだと注文したコーヒーを待っている時にそばのアメリカ人の若者に呟くとスマホを見せてここに中身が説明されているからと笑った。 なるほどスマホか、自分より知っているはずだ。 ガラケイというより化石のような携帯を持っている自分には理解の外である。

そろそろ暗くなっているので地下鉄の駅へと御堂筋を渡ってすぐ何か周りとまるで雰囲気の違う空気が漂っているところに行き会ったので立ち止まって他の見物人たちと暫く眺めていた。 黒塗りジャガーの最新モデルが2台停まっていて映画に出てくるようなセキュリティーが5,6人居る。 まさか脇や腰にピストルでもつけていないかと窺っているとダンヒルのオープニングで限定客のパーティーのようだ。 カメラマン、仕立てのいいスーツの30代の男が多く、北新地のホステス様の高価なものを身につけた若い女たちが談笑している。 そんな女たちは自分の役目をわきまえているように周りを無視して会場の花と化している風だ。 ジャガーのそばのタキシードの男に何なんだと聞いてみるとサッカー日本チームの監督が来ているんだと言った。 今日は招待客だけのパーティーでというのでなるほど店の中から溢れた男女が手にシャンパンを持って優雅に振る舞っている。 ここでも何処も同じ殆どがスマホを弄りそんな小さな板に話しかけている。 そうと分かれば用はないので地下鉄に乗って動物園前で降り新世界の立ち飲み屋で喰いたいものを喰い飲みたいものを飲んで天王寺公園を抜けドイツビールのオクトーバーフェスの横を歩いているとドイツ娘の格好をした3,4人と2,3人の男が靴の格好をして1リットルは入るようなガラスのグラスを持って陽気に同じ方向に歩いているので何で5月にオクトーバーフェスなんだと言うと、知らないけどビールが飲めるんだったらいいじゃないかと酔っぱらった声で応えるし、私たちドイツが好きだからこんな格好で来たのと女たちが言う。 それだったらドイツ娘たちのように太らなきゃだめだ、そんな体格じゃドイツ娘たちのように一つ1kgほどあるジョッキを両手で6つも7つも運べないぞというとここは日本だからそんなことしないでいい、とシャーシャ―していた。 20代中頃ぐらいの男たちはこの靴のジョッキ5,000円だった、安いものだというからそうだな、ドイツでもそれぐらいかまだ高いのもあるしな、というとオジサン行ったことあるのというからミュンヘンの市役所近くのマーケットじゃ毎日もっといろいろ店が出ている、面白いよ、というので俺たち言葉出来ないしだめだな、せいぜいトラックドライバーで稼いだ金でこんなふうに遊ぶぐらいだと言って別の地下鉄の入口にガヤガヤと消えていった。

なるほど、こんな風な若者がいるかと思えばそこから数百メートルのところには10人余りの浮浪者が段ボールで囲いを作って寝ているのだ。 朝来た道を戻り宿に着いたら11時を廻っていた。 蚊取り線香の匂いのする部屋のクーラーを24℃にして風呂に入り出てきてから近くのコンビニで買った缶ビールを飲んで寝た。

 

 


垣根を刈った

2016年06月16日 19時46分42秒 | 日常

 

昨日頭を刈りに行った話を書いて今日また刈った話だが今日のは頭ではなくていわば敷地の側頭部というか垣根を刈った話だ。 裏庭の両隣との境にはそれぞれ10mほどの垣根がある。 今日刈った方は多分もうここに50年以上植わっているもので、今日刈らなかった片一方の方は家に越してきた時に木を選んで植えたものだからそれからもう25年経つ。 50年以上植わっている垣根は常緑樹でオランダ語は Liguster、英名は Privet でこれはプライベートから来ている。 自分(の土地)と他人(の土地)のプライバシーを守る垣根として使われることから命名されたと言われている。 和名はモクセイ科のイボタノキ属らしいのだ聞いたことがなかった。 そもそもイボタというのは何なのだろうか。 漢字では水蝋樹・疣取木として出ているけれど何のことか見当もつかない。

25年物は落葉樹のカバノキ科のシデ、オランダ語で Haagsbeuk だ。 beuk というオランダ語は英語になるとbeech でそれはブナでありハーグ市のブナということになる。 ブナなら自分の故郷でよく歩いた和泉葛城山の頂上付近には日本南限のブナ林があり、秋には15cmか20cmほどの大きな乾いた落ち葉を蹴散らして歩いた記憶があるけれどこのブナの名前が付いたシデの垣根は形はほぼ同じでも精々5cmほどの小さな柔らかい葉を付けた垣根用の細い枝木だ。  

我が家のルーティーンは11月前に両方の垣根を、常緑樹の方はほぼ枝だけまで刈り、シダのほうも同様に毎年の丈まで刈り上げる。 それからほぼ7か月経って晴れ間を縫って大分伸びた垣根を刈り上げることにした。 あと何日かで夏至になりそれが過ぎると成長速度が遅くなる。 だから今刈っておけば10月、11月の雨の無い時にまた刈り上げればそれで一年のルーティーンは終了する。 簡単なものだ。 だった、と言う方が正しいかもしれない。 この1、2年で体力に陰りが出てきた。 シデの方は梯子に登って鋏でチョキチョキ小枝を切って一つづつ下に落とすから伸ばした腰あたりに負担がかかるだけだがイボタの方は枝自体が比較的柔らかく垣根用電気バリカンとでもいうような電動ヘッジトリマーで刈り取る。 これには安全のために二つのスイッチがグリップ形式になっていて同時に押されていなければ起動しないという仕組みで縦・横・方向に動かすのだが、かなり重い本体と刃の部分を両手で支えて両手を伸ばすようにして稼働させなければならない。 もう10年ほど前に父の日に家族からプレゼントされたものでそれ以前は悠長に鋏でチョッキンチョッキン切っていたものだ。 初めの7,8年は何とも思わず毎年無難に2回づつ使っていたのだが特に今日それをまたやっていると徐々に腕が疲れ今まで感じたことのない疲労を感じた。 歳なのだ。 あと何年かすると重すぎてもう支えきれずまた初めのように大きな鋏を両手で動かして刈るようになるだろう。

あとで刈り取った枝と葉っぱをゴミのコンテナー用の140リットルはいる大きな紙袋に詰めたら二つ要った。 近日中にシデの垣根も刈るので今日以上の量になるだろう。 だからそれらを車で市のごみ集積所に持って行かなければならないだろう。 全部で4袋となると560リットルとなり2mのバスタブが200リットルだからバスタブ2杯以上の量となる。 庭のゴミが大量に出るのは今の時期と枯葉を集める11月ごろで11月には特別に枯葉を集める金網が地区の何箇所かに設置され近所にもそれがあるからそこに持って行けば市の造園課が取りに来てくれるのだが今の時期にはそれがない。  


床屋のエリックのところに行ったら

2016年06月16日 03時53分43秒 | 日常

 

2016年 6月 7日 (火)

 またエリックの床屋に行った話だ。 一か月半か二か月に一度出かけるのだからルーティーンではある。 エリックの店のことと自分の床屋経験については何回か書いていて例えば9年前に下のように書いている。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/45953618.html

9時を廻って起きたからエリックの店で刈ってもらおうと前夜から決めていた。 ついでに町で幾つかすることを頭に入れて置き、そのときもうすでに外気は25℃になっている快晴の表に出た。 今迄の習慣だったら昼頃起きるから床屋に行くのは1時か2時ごろだ。 そうすると混んでいても最高5人まで待つ客が入れるのでそれなら一人20分として一時間半から二時間弱待てばよく、5時になったら入口のシェードを下げてしまうからアウト、だから2時までに行くことにしていた。 当然金曜や土曜は避ける。 それで午前中だったら幾ら待っても十分時間があるし雑誌や他の客たちと世間話をしていれば十分暇は潰せるので大抵は文庫本などを持って行くのだが殆どの場合そういうものは要らない。 

十時を大分周って店に入ると一人鏡の前に坐って4人かけられるソファーには一人しかいなかった。 エリックに訊くと朝来ればこんなもんだというからやはり早起きは三文の得かと思うけれど値段は別に安くはならないから逆に捻くれて、そうすれば日頃見ない雑誌やバカ話の時間が少なくなるではないかとも言いそうになる。 これなら予定していたより1時間は早く済むことになるから何をしようかと思いを巡らしていたら美容院ではなくてこの散髪屋に女性が入ってきた。 

女性が来るときは大抵男性用のプレゼントにクリームや剃刀、ローションなどをエリックのネットショップの情報を頼りに訪れる。 この女性もそうだろうと見ているとネット雑誌の記者だという。 新聞記者などはこの20年ほどで何人もここに来ているし写真家も何人かこのアンティークな床屋を撮りに来ていてそんな姿を自分のカメラで撮ったこともある。 彼女は何ショットかを撮りエリックに店のことを訊ねているのだがもう一つ要領を得ない。 エリックは指を忙しく動かして客に集中するのだがこの記者は興味がないのか能力がないのかボーっとしているからこの機会に自分が初めてエリックを知った28年ほど前のことを聞きだした。 

エリックが修行していたその店は今はシーボルト博物館になっている当時は簡易裁判所の建物の隣だった。 恰幅のいい、いつも三つ揃いのスーツを着てその上に白衣を羽織っている恰幅のいい親方の弟子がエリックだった。 その主人はただシーボルトが嘗て住んでいた屋敷の隣で店をもっているというだけで日蘭友好のイヴェントに招待されて一週間タダで日本旅行に行ってきたと言っていた。 エリックの他にもう一人助手がいて奥まで散髪椅子を4つ並べた細長い店だった。 その主人が引退してからその店は今は児童書籍の本屋になっている。 その後エリックは自立するのに今の場所を見つけて前の店のアンティークな雰囲気をそのままにして一人でやっている。 だからその当時からの客がそのままここに移ってきて、だからあれはこうしている、あれはもう何年も前に死んだ、というような情報交換もするわけだ。 記者が帰ってしばらくすると自分の番になり散髪台に坐るとエリックから招待状を貰った。 

来週自分の散髪屋としてのキャリヤが35年になるのでレセプションをするからと書かれたものだ。 自分が前の散髪屋に行き出したのが28年前、彼が小僧になってから35年だから自分がそこに行った時にはもう既にそこで7年修行していたことになる。 今の店に落ち着いてからもう20年以上で途中の自分が来なかった数年は自分も忙しく自分で髪を削いでいた時代だ。 仕事、家が落ち着きだしてここに来出したのだったと思う。


何故か分からないけれど憂鬱だ

2016年06月15日 13時38分17秒 | 日常

 

この3日ほど曇り空が続いていて今日などは殴りつけるような雨が降ったかと思うと止んだりするようなことが何度もあり降るのか降らないのかはっきりしろというような空模様だ。 庭の花も5月6月の初めと盛りだったものが今はそんな色も形も違う様々な花も萎れ、枯れ落ちてそのあとに緑の丸いものが残っているというような具合でこの分でいくとそれでも花の第二波が7月の中頃から8月にかけてまたやって来るのかもしれない。 けれど次のものは第一波ほど足並みのそろうものではなく、ばらばらにあちこちに出てくるからああまだ咲くのかというようなもので初めの浮き浮きした気分は起こらない。 だから春が来ると樺太の中ほどと同じような緯度にあるこういう寒冷の地では一気に押し寄せる自然の息吹でそれまでの鬱をしばし吹き飛ばし我々は暫し慰められる。 そんな風だから分かっていても毎年毎年同じ花に同じようにカメラを向けてしまうことになる。

もう何年も冴えない小さい楓の木が庭に植わっている。 周りが緑だけの時にはコントラストにもなりなんとか見られるのだがこの木、秋には紅葉しなくてそのままくすんだ色のまま残っているという甚だ地味なものだ。 けれど今の時期そこに羽の生えた種が出来てその羽根の色が鮮やかで目を楽しめせてくれる。 田舎の村のはちきれるばかりに丸々と固太りした健康な少女が寒風の中で見せる頬っぺたの色だ。 それがこの楓の1年で一番のハイライトである。 秋までに両羽の根元に一つづつ付いている種が熟し、色がくすみ羽根が枯れて半透明になり軽くなると地面に落ちる。 これが高木ならプロペラの原理でクルクルと舞いながら落ちてきて、そんなものが降る森の中を歩くのは味わいがあるけれど自分の背丈ほどのものだから落ちてもクルクルとはいかないうちに着地ということになる。 何とも中途半端なものだ。 けれど今はこの羽根だけ見ているとそんな森の中を歩けなくとも気分は保たれるような気がする。


素敵な相棒 ~フランクじいさんとロボットヘルパー~ (2012);観た映画、May '16

2016年06月13日 00時20分49秒 | 見る

素敵な相棒 ~フランクじいさんとロボットヘルパー~  (2012)

ROBOT & FRANK

89分

 
 
近未来を舞台に、偏屈老人とその介護用超高性能ロボットが泥棒コンビを結成するユニークな設定で評判を呼んだSFコメディ。元泥棒の偏屈じいさんが、息子から介護用にとあてがわれた超高性能ロボットを相棒に、再び泥棒家業に復帰したことで生きる意欲を取り戻していく姿をユーモラスに綴る。主演は「フロスト×ニクソン」のフランク・ランジェラ、共演にスーザン・サランドン、ジェームズ・マースデン、リヴ・タイラー。監督は本作が長編デビューとなるジェイク・シュライアー。

70歳を迎え、物忘れが激しくなってきた元宝石泥棒のフランク。ある日、一人暮らしをしている父を心配した息子が、人型の超高性能介護用ロボットを置いていく。フランクにとってははた迷惑な贈り物でしかなかったものの、家事や健康管理を完璧にこなすロボットのおかげで彼の体調はみるみる改善。そしてそんなロボットには、雇い主の趣味や生きがいをサポートするというプログラムも組み込まれていた。やがて、そのプログラムにつけ込み、ロボットをある泥棒の計画に巻き込んでいくフランクだったが…。
 
上記が映画データベースの記述である。 イギリスBBCテレビの深夜映画として観た。 これについてメモを記してみようと思ったのは、既に前世紀から人工知能の実現化が夢見られ情報工学の進歩とともに80年代にはその工業化に貢献するロボットがもてはやされていたこともありそのうち寂しい人たちを慰めるロボット犬が発売され福祉の面で立ち遅れている介護の場で人間に代わり役立てようとする試みも既に始まっていると聞く現在、最近ロボット間の「生殖」で情報交換を各自のロボットにさせ進化した次世代を生まれさせるという試みまでなされているし今日のニュースなどではロボットに「感情」まで備えさせようというプロジェクトがあるとラジオで聞いたからだ。  動物にも感情があり精神、心理のメカニズムが徐々に解明されていけば情の仕組みが分かって来るだろうしそれをプログラムにすれば理論的にはできないことはないだろう。 ことに自習し自分で進化させる機能が整えばそれは時間の問題となるだろう。 先日道で会った旧知のオランダ人の禅僧と話をしていて90を越す彼のアルツハイマーの母親にその子犬ロボットを与えたら充分効果があったとも聞いていた。
 
 ロボットの中に入って演技する主演俳優は別としてサランドンと「準」主演のランジェンには満足した。 ランジェンについて特に記憶に残ったのは同じくSFものでキャメロン・ディアスがでていた「運命のボタン(2009)」の中で重厚な配達人を演じた姿だった。 それに「フロストxニクソン(2009)」でニクソンを上手く演じていたのだが我々には実在のニクソンの記憶が強すぎ体格も顔つきも違う映画でのニクソンには少々当惑したのだが実際から見えないニクソンの魁偉さがランジェンの演技から立ち上がってきていたのが記憶に残る。
 
遠くの親戚より近くの他人、という言葉があるけれど近年では、遠くの家族より近くの他人、というほどに家族の距離は離れていてそれは本作でも同様のようだ。 だから息子が、自分の知り合いがロボット犬を認知症の母親に与えたように、本作ではロボットを与えているというのは分からないことではない。 それがある種の作用か感情のようなものを持ち自己犠牲で主人公を救うという顛末に終わるところがポイントなのだ。 それに加えてアルツハイマーの主人公にとってサランドンは何者であったかがそのうち分かるとそのうちに自分もそのようになるのかと覚悟のようなものをしなければならないと感じた。 そのようなプロセスは普通どこでも起こっていることなのだ。

不必要な殺生だったのだろうか

2016年06月12日 02時39分43秒 | 日常

 

昨日家人をフリースランド州ハーリンゲンまで2時間かけてフェリーの渡し場まで150km走った。 7時を廻って家を出て9時45分のフェリーに乗せるべく急いだ。 けれどこの数年あちこちにカメラが設置されていて制限時速を10km超えると3週間ほどして罰金の請求書が来るので150kmで飛ばすわけにはいかない。 前夜寝不足だったので32キロある締め切り大堤防(afsluitdijk)を渡ったところにあるレストランで眠気覚ましのコーヒーとケーキで朝食代わりにした。 尚、この行事はこの数年ほぼ毎年の事になっているのでそのことは次の様に書いている。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/63457627.html

ここに行く度に帰りの150kmで居眠りをしないようにジャズのCDを2,3枚景気づけに鳴らす。 家に戻ったら11時だった。 300kmを4時間、時速75km平均と遅いものになるのだがレストランで30分ほど居たからそれを除くと平均時速85kmほどになるけれどどうも納得がいかない。 一度高速に出るといつも100km以上、120km、大堤防が近づいてくるとかなりのところが130km制限でそこを140kmほどで走り大堤防では150kmほどで走ったところもあるので85kmというのは納得が出来ない。 高速から降りて町の中、ハーリンゲンの港近くは50kmであるから60kmほどで走るけれど全長150kmほどのところで殆どが高速なので85km/hというのが理解しかねる。 大体が今まで20年以上夏には隣国、他のヨーロッパの国へ長距離を走ってバカンスに出かけているのだが同じような結果が出ているので一生懸命アクセルを踏んでいるのにこれは不思議なことだ。 

 家に戻って疲れた気分でソファーに横になったら眠っていた。 1時間ほど鼾をかいて居眠っていたらしく喉が渇いたのでテレビをぼんやり眺めながらビールを飲んだ。 その後インターネットをやったりしながら4時になって空腹を覚えこれから一週間只一人家にいて何もしないことに決めていたので中華料理屋の安物持ち帰りを久しぶりに喰いたくなり自転車で家を出て途中のスーパーで小さい西瓜を半分だけ買って中華料理屋でチャーハンにフーヨーハイ、鶏のサテー、牛肉の煮込み、インドネシアのバビパンガンが少しづつ塩梅されたセットメニューを1人前ぶら下げて帰ってきたのだが質より量がオランダの中華料理であるから2人分以上の量であって結局5時のテレビディナーをビ―ルで詰め込み夜食で完食したら久しぶりの動けないほどの体たらくだった。 やはり夜更かしできず3時前には寝床に入っていた。

土曜の今朝10時に起きた。 二つほど鍋に残り物があってそのままでは喰えないしそろそろいたみ始めているので捨ててキッチンを整理していたらハーグに住む息子が電話してきて新しいサイクリング用のバイクを買ったので友人と試し乗りで行きたいけれどそこで昼飯でも喰えたら、と言う。 自分は土曜のマーケットで毎週のように白身魚の揚げ物を立ち食いし近くのカフェーでビールを飲んでそのあとジャズライブに行くはずだったので来ても自分はいないし喰うものもない、冷蔵庫や冷凍庫のものを勝手に浚って何とかすればいいと言って電話を切った。 そのあとラジオを聴きながらキッチンを掃除したり磨いたりしていると彼らが来た。 30分経っていたのだ。 ハーグからライデンまで直線で15kmそれを時速30kmで走った勘定になる。 自分はサイクリング車のことは全く分からないけれどいいものだと自分で言う。 ヘルメットからツ―ルドフランスにでも出るようなテブクロから靴まで揃えて15万かかったといった。 片手で軽々と持ち上げられ9kg弱だと言った。 自分の7段変速の普通のものは14kgほどあるから重量は半分ぐらいだ。 冷凍庫から勝手にパンを出してトースターで戻しチーズやペーストでサンドイッチを作りミルクでそそくさと食事をし自分はそれを白ビールを飲みながら見ていた。 雲行きが怪しいからとじきに彼らは帰途に就いた。 息子は夏に誰かと二人でスイスの4000m以上の山に登りヨーロッパで一番高いところにある山小屋に泊まるのだと言っていた。 そこに行くのには山登りのディプロマはあってもガイドを雇わなければいけないようで1週間で30万近く要ると言う。 将来エリートにもなれるような世界で一番大きなアカウンタントの会社で忙しく働いているけれど入社2年目でそんなに給料があるのだろうか。 安月給の公務員だった自分には分からない。 息子は子どもの頃父親の給料が安すぎるから自分は将来経済を勉強して金を稼ぐのだと言っていたのだが、うまくいけばあと2年ほどで公認会計士になれるらしい現在、初任給も普通の新卒とは大分違うようだ。 なるほど金融関係に人気がある理由が分からなくないが自分には初めから興味のない職種だったからそんなものかと思うだけだ。 秋には2週間ほど休暇をとってオランダから飛んできて熊野古道を歩く自分たち夫婦に加わりたいたいとも言っている。 自分はこのあいだ帰省した時にその準備のために高野山から熊野内宮までの5万分の1の地図を買っている。 自分にはタフなものになるだろうけれどアルプスで氷河を渡る訓練をしてきた息子にはどうということのないものだ。 

息子たちが帰ってから自転車で土曜のマーケットに行った。 白身魚の揚げ物を歩きながら食い青空マーケットで苺のパックを二つ、煎ったマカダミアナッツを買ったらもう5時近くなっていた。 ジャズカフェーに入ったらジャズを聴く客は自分とベースの男の子の両親を入れて5,6人であとはジャズなどはBGMでしかない喋りにくる普通の客たちだった。 初めのステージを30分ほど済ませたところに入って行った。 ピアノトリオに女性歌手がリーダーのグループで彼女の名前からこの10年ほどであちこちで聴いたドラマーの娘かと尋ねるとそうだと眼鏡をかけたまだ20を越したばかりの娘は言い、誰が一番好きな歌手かと尋ねるとエラ・フィッツジェラルドだと応えた。 小柄で華奢な体ではとてもエラには比べられず、太って体重をつけなければね、と言うと笑ってカフェーの表に出て行ってそのうち2セット目を始めた。 まだ音大のジャズ科の学生なのだろう。 トリオも若く、ジャズはやるけれどこなれてはおらずこれではレコード会社からは当分声はかからないだろうとも思い、けれどどこかいいところはないだろうかと白ビールを啜りながら聴いていたけれど3曲ほど聴いて飽きたのでスーパーで買い物をすべくそこを出た。

食事をつくる気にもならず冷凍してあった飯を解凍してひじきと筍を一緒に煮込んだため置きの煮豆を時々寿司の生姜を噛みながら渋い緑茶で喰った。 その後12時を廻るまでテレビを観た。 サッカーの欧州杯が始まってウエールズ対スロヴァキア、イングランド対ロシアの二つをあちこちにザップさせながら観た。

夜中にキッチンにはいると蠅の羽音が聞こえた。 冷蔵庫に入れないで流し台に置いてある苺にとまって歩き回ったり卵を産まれてはいやなので蠅叩きを探したけれどみつからなかった。 キッチンの電気を消すと蠅は明るい廊下の方に飛んできた。 耳を澄ませてその居場所を探ったけれどキッチンとの境のドアからかなり離れているのでキッチンの灯をまたつけて廊下の灯を消した。 すると蠅は灯の方へ行こうと境のドアのすりガラスに留まっている。 できるとは思わなかったけれど右手の中指を丸めて親指に付けて弾いたら蠅に当たり下に落ちてジタバタやっていた。 そこに気が付かなかったもう一匹が寄ってきたのでそれも同じように弾いたら小さい蠅は絶命した。 初めの大きい方はジタバタしていたのでもう一回、もう一回と弾いたらそれで絶命した。 ティッシュで包んで念のため圧力をかけて潰しゴミ箱に捨てた。 我ながら残酷だとも思ったけれど青く光った蠅である。 汚いし不衛生だ。 蠅叩きがなくこんな簡単に落とせるとは思わなかったのに指で弾き殺したから罪悪感が湧くのであって蠅叩きなら別段何とも思わなかったに違いない。 妙なものだ。 これは不必要な殺生だったのだろうか。 

撮った写真をみていてキッチンのフロアに敷いたポルトガルタイルに罅がはいっているのに気が付いた。 こんなことがなければわざわざ眺めるようなことはないのだけれど新しいキッチンが3年でこれだとは少々気になる。

 

 


或るコーヒーカップの終焉

2016年06月11日 01時47分17秒 | 日常

 

いよいよ自分にとっては記念碑的なものが終焉を迎える。 こう言うとえらく大層な文言なのだが自分にとってはこの36年の行き越しを考える意味では記念碑的コーヒーカップがお蔵入りすることになったのだ。 このコーヒーカップは1980年にオランダのグロニンゲン大学の学生寮10階、3x4mの部屋に到着後すぐに自炊のために町で買い求めたコーヒーカップだ。 それ以来何度か引っ越してはそこでほぼ毎日8時のテレビニュースとともに身近にあった。 けれどこの2年ほどで食器洗い機を使い始めてから痛みが激しくなりとうとう退役する時期が来たことで気に入りのカップと別れることにしたということだ。

大阪の中小貿易会社の営業を70年代後半の3年半ほどしたあとオランダに越してくるまで1年半ほど家でブラブラしていた。 それは大学研究助手として自分を呼んでくれたアメリカ人の教授からヴィザを待っていたからだ。 戦争中アメリカ海軍情報将校として日本語学校でサイデンステッカーやキーンと同じく日本語を修め、戦後日本に進駐し接収された東郷平八郎の邸宅に住み言語学者の服部四郎を師とした人で朝鮮戦争時に朝鮮に派遣されそこで自分も知るオランダ人の日本・朝鮮研究者と出会い、ジョージタウン大、コロンビア大で研究の後オランダで教授職を得た人なのだが当時としては世界的な視野を持った人であったようだが、あとで知ったら事務が一切出来ない人だった。 だから自分へのヴィザを放ったらかしにしていた。 そんなことも知らずこちらも能天気で田舎の町で失業保険を貰いながらアルバイトもしその金で中国旅行もしている。 

ブラブラしている間に友人の友人が陶芸家でもあることからその工房に通い手伝いとは言いながら生まれたばかりの娘がいる陶芸家の新居に居候を決め込みボロ車を駆って泉南と南紀田辺を往復した。 そこでの田舎の経験が後ほど何年か前に田辺から出発して熊野古道を歩くのに役に立った。 その陶芸家は人間国宝の孫弟子であり田辺に越してくるまでには京都醍醐の山中に窯を作って陶作を始め京都ではもう築くのが無理な登り窯の準備をしていた頃だ。 地元の数寄者の助けもあってそれまで紀州備長炭を焼いていた穴窯を使って地元の草木から作った釉薬をかぶせて数日間火を入れたのを手伝った。 そしてその一つを自分の宝としている。 

自分は元々骨董、美術品に興味があったのでこの陶芸家との日々はまた学生時代に戻ったような楽しい日々であり、ヴィザを待つ自分は地元の人たちにオランダさんとも紹介されていた。 穴窯は地元の焼き場のそばにありその煙突から立ち上がる地元の霊を眺めながら作業をすることもあり、それは子どもの頃既に廃屋になっていた自分の村の焼き場を思わせるものだったけれど田辺では焼き場には上がって来る車を停めるコンクリートのかなりのスペースがあってそこで壁打ちテニスを楽しんだものだ。 友人はここに来るまで2か月ほど台湾の故宮美術館や何か月も韓国の人間国宝の下で修行しており自分が行っていた折にそれでは北京の故宮博物館の陶磁器をみようという計画があった。 それで友人と自分が二人で大平首相が訪中する一か月前に新聞社主催のツアーに参加したのだが友人は個展の都合で行けなくなり元大韓航空のスチュワーデスだった友人の義理の妹が代わりに加わることとなり飛び切りの美人でグラマーなその人をエスコートする自分はツアーの他のメンバーから羨ましがられたり嫉妬が含まれた眼でみられたものだ。 この旅行は収穫の多い2週間だったのだが一人紫禁城を歩き博物館に辿りついたもののそこは何もなにもぬけの殻でぶらぶらする子供たちが屯してそこに来る外国人に英語を試したいというものばかりだった。 それは予想通りだったのだが建物の荒れ方には驚いた。 

グロニンゲンに来て最初に買ったのは鍋、キッチンナイフ、皿、コーヒーカップだ。 鍋は小さいものだから子供が出来てからは使えなく退役した。 キッチンナイフはゾーリンゲンの錆の出る昔からの鋼で安物だが一番切れる。 今でも年寄りの間で人気があり、毎日使っていると7,8年でグリップの木が腐って使えなくなるから同じものを買いかえる。 安いものだから幾つも買って帰国するたびに皆に配っていた。 けれど或るとき、ナイフなどをみやげにするなどもってのほか、切る、は縁を切るに繋がって縁起が悪いと言われてから止めた。 皿は初めは1枚だったのが結婚し、子供が出来、人と食事をする機会が増えるにしたがって同じ意匠のテーブルセットとなって毎日の食卓で使われている。

コーヒーカップを見たのは裏通りの小さな陶芸品の店だった。 髭面の老人が自分で焼いたもので、硬いものではない、丁寧にあつかってくれ、と言われた。 自分には萩焼のような光沢と質感が好ましく唇が触れる厚みのある丸さが気に入っていた。 手でずっと洗っていたものが食器洗い機を使い初めてこの2年で年200回ほど、すでに400回ほど高熱・洗剤で洗浄され徐々に釉が浸食されていったようだ。 磁器であれば抵抗力もあるのだろうが柔らかい陶器では差しさわりがある。 だから一番薄い、唇が当たる辺りが剥がれてきて何かに当たったのだろうか、グリップというのかハンドルというのか持つところが欠けてきた。 それで引導を渡す時期が来たと悟った。

自分はものが捨てられない。 長年使ってきて自分に馴染んだものはことさらだめだ。 このあいだ長年使って来たジャケットというかオーバーのようなものを探していると書いたけれどまだ次のものは見つかっていない。 けれどコーヒーカップはどこにでもあるのだから簡単に見つかるだろうと思うけれど今度見つけたらそれはもうこの分では死ぬまで毎日使うものとなるだろう。 どんなものになるのか分からないけれどもうだいぶ前にみたイギリスの白地に青の模様が入ったこんもり丸い磁器のカップがいいかもしれないと思う。 それは元々ティーカップだったようだが今でもあるのだろうか。 

ここに撮った写真は実際とはかなり違う。 接写して内部と全体の輪郭が同時に写るように試みたが駄目だった。 口の直径は底部の直径よりかなり小さく実際は中ほどがこんもり膨れて丸いのにここでは上部が大きくずん胴に写っている。 これは実物とは似て非なるものだ。