暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

バカンス ’13  (8);小さな教会

2013年11月27日 23時31分32秒 | 日常

秋も深まり冷たい霧のような雨が空気中を漂う中、ポンチョを被り帽子の庇を深く被っていても細かい粒子が眼鏡に纏わりつく鬱陶しい日に日記を書こうと思って机の前に坐っても筆は進まない。 こんなときにこそ夏のバカンスに毎日書いておいた記録を辿ってその思い出を綴れば夏の光と空の青さを思い出し何とか今を凌げるというものだ。 そうなると話の前後は関係なくそのときの光と緑だけの記憶で取りとめもなくそのときの記憶を辿って話もあっちこっちと迂回しながら続くこととなる。


2013年 8月 2日 (金) バカンス5日目

7時半起床。 快晴。 チロル地方の Huben 村にあるキャンプ地にテントを張りここに落ち着いてから初めてこの日はちゃんとした靴を履いて何日か後にこれから2500m以上の高地を歩くのに慣れるため5kmほど離れた Längenfeld 村まで歩いて行くことにしていたから家人が三人分のパンを村のパン屋に買いに行っている間に自分は飯を炊いて握り飯を作った。 グルテンとかなりの肉体疲労が結合すると急性小麦アレルギーの発作が起こるからこれから一日歩いたり山に登ったりする日の朝と昼間はパン製品は口に出来ない。 だから自分で昼飯を用意するしかないのだ。 果物や野菜とグルテンの含まれていない肉製品を村のスーパーに買いにいくこともこの日の目的に入っている。 3年前、Längenfeld 村のスポーツ用品店で煮炊きするためのガスボンベを買っているときにオランダの大学病院から担当教授の電話が入り、それまでの長い検査結果を知らされ、急性アレルギー発作の原因は疲労と小麦製品の結合だからこの二つを切り離すこと、そうしていれば何事もないと言い渡されて以来、こういうときの朝飯、昼飯のパンはもちろん昼間にビールを飲むことも禁じているのだった。 だから牧草地を縫いだらだらと小川に沿って5kmほど歩くにしても途中で摂る昼食には小麦製品のパンは食えないから自分で用意した握り飯というわけだ。 ヨーロッパでは小麦製品を避けるというのはかなり難しい。パンにクッキー、パスタに各種練り物等々避けては通れない。 ただ最近は多くのさまざまなアレルギーを持つ人がいることから普通のスーパーでも商売になると踏んでそういう食物を揃えているところが多いので前ほど苦労はないのだがそれでも自分の身がこうなってからはつくづくパンの簡便さを思い知ることにもなったのだ。 

息子と娘はこの標高1100mのキャンプ地の上に見えるピークを目指し急勾配を800m登って頂上の写真を撮ってくる予定だと地図を見ながら言っている。 我々と一緒にのんびりと平地を歩く気はないらしい。 そんな子供たちを残して我々は9時半にテントを離れた。

3年前にこのルートを2回ほど歩いているから何の変りもないのだけれど今の時期に田舎道を歩くのは楽しさこそあれ若い者達とは違い退屈するものは何もない。 牧場に放牧されている牛達を周りに見て時にはその間を通り抜けなければならないこともあるけれど雌牛ばかりだから用心していれば問題はない。 ただ一頭か二頭いるだけの雄牛の柵の中には入らないことだ。 子供の時自宅に3頭の乳牛を飼っていた経験がこんなときに役に立つ。 伯父が自宅や村の農家のホルスタイン種・乳牛の種付けをするのを何回か牛の尻尾を括って持ち上げ助手をしたこともあるし出産にも立ち会ったことがある。 オランダに来て街の中に漂う匂いは空気中を通って牧草地から来るものだと気づいたり、姑の実家の酪農農家の30頭ほど並んだ納屋に入ったときなどにはそこに漂う匂いを嗅いで20年ぶりに昔に戻ったと感じたものだ。 けれどこのあたりの牛はゆったりと張りのあるオランダのフリース種やホルスタイン種の体格に見慣れている者には少々痩せているとも見えるのだけれどそれもここの風土に合ったものなのかもしれない。 それに、夏の間は柔らかい草地が2000m以上の高山にあって、そういうところに放し飼いにしているのなら牛たちも険しい山道を上り下りすることになり、そんな牛でなければいけないからこういう体格でいいのだろう。 後日、標高2200mほどの山道を歩いているときその細い道は人間だけでなく牛の通り道だと分かった。 普通なら草地に散らばっているはずの牛糞が連綿と幅50cmほどのこの道に続いていて、ついにはこの細道にはそこでのんびり草を食んでいる牛達に正面から遭遇することになったのだった。 どうすることも出来なく我々がそれを避けるために斜面を登って迂回し向こう側に抜けなければならなかったことも経験している。 ゆるい斜面の牧草地なら牛達も動くのだろうけど道の上も下もかなりな斜面になっているところでは動けるのは人間だけだからそうならこちらから迂回するしかない。 そんなことは分かっているだろうというような牛の落ち着き方なのだ。 我々はもった杖を頼りに斜面を登った。 けれど今歩いているこんな平坦な牧草地ならそういうこともない。 ただ新しい牛糞を踏まないように気をつけて歩くだけだ。 

そうこうしている間に教会の白い塔が向こうに見え、こちらも一休みするためにその教会に行ってみた。 そこには Zur heiligen Dreifaltigkeit つまり、聖なる三位一体教会とでもいうのだろうか、そのように書かれていた。 けれど中に入って説明を読むと地元ではペスト教会といわれているらしい。 ここは谷間の長い平地にある Längenfeld 村から800mほど西に行って上流の氷河から流れてきた大量のミルク色の濁った水を運ぶ川を越したところから斜面を標高50mほど登ったところにあるのだった。 入り口のドアの簡素な木目と金属の鍵の取り合わせが美しかった。 

ヨーロッパを席捲した厄病のペスト、黒死病がこの村を襲ったのが西暦1600年だったらしい。 多くの死者を村から1kmほど離れたここに隔離してこの場所で焼いたらしい。 それもそのうち収まり、30年ほど経ってから村の教会の分家とでもいうのだろうか、そういう風にしてここに教会が建てられ、以来この村が管理しているらしい。 50人も入れば一杯になるような簡素な内部だが綺麗に整っており日常ここでミサも行われているような形跡もある。 1600年といえば関が原の合戦があり、それから30年ほど経つと鎖国となりオランダ商館だけが西洋との窓口になったころの事だ。 この教会の由来を辿っているうちに日本のそのころのことを想った。 しばらくそこにいて外に出ると入れ替わりに目の見えない娘を連れた50代の夫婦がこの教会に入っていった。 




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