暇つぶし日記

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Christine Arnothy著 「日本の女性」を読む

2017年12月13日 22時56分18秒 | 読む

 

 

Vrouwen van Japan  (日本の女性) 1959年

Christine Arnothy  (文)全58頁

Mark Riboud (写真) 全98葉

A. W. Bruna en Zoon,  Utrecht   1959

 

1  目次

2 日本の女性、 3 柔軟かつ従順、 4 混合する二つの世界、 5 夜の光、 6 似顔絵を描く娘、 7 音楽、 8 家庭生活、 9 或る程度の深い話、 10 そして、それからゲイシャ?、 11 可愛い舞妓、 12 浴場で、 13 自由!、 14 畳、 15 料理、 16 理容室で、 17 茶事、 18 花嫁、 19 産児問題、 20 女性が立ち上がるのを見る、 21 更なる変化、 22 西洋演劇、 23 文字、 24 女流小説家、 25 真珠と海女、 26 サヨナラ

 

先日町の古LP・CD屋のペーターに貰った古本である。 何語かからオランダ語に翻訳され、原書のタイトルも原語に関する記述もない。 エッセーと写真が半分半分で1959年、昭和34年に出版されている。 写真の版権はパリ・ニューヨークに拠点を置く写真家集団マグナムのもので、著者は1930年にハンガリーで生まれ45年の終戦末期、15歳のときブダペスト包囲戦を命からがら家族と共にフランスのパリに逃げてきて後に作家活動に入りフランス語での「15歳のわたしは死にたくない」などの著作がある女性である。 2015年没とネットの記述にある。 読了後まで著者のことは知らなかったが読み進めるうちに徐々に著者の背景がうすうすと理解できるような記述があった。

西欧人が日本を訪れて旅行記をものするのはイエズス会の神父のものをはじめとして古くからごまんとあり、80年代前半には日本の経済発展はピークを迎えて欧米では文化人類学・サブカルチャー研究フィールド・ワークの舞台として多くの人が来日し長期・短期にわたり逗留、そして日本社会は精査されその結果として学術書なり様々な書物が出版されてきた。 日本ではすでに60年代から日本人論が好まれそれは現在でも以前として書かれ読まれ続けている。 そして興味のあるのはその論なり出版物は書かれた当時の社会をさまざまな意味でその時代を映す鏡となっていることだ。 その写された時代の姿とそれを覗く観察者がそこに映し出されているのがはっきりとわかるのをみるのは興味深い。 ことに書かれたのが今からほぼ60年前の日本であるということにことさら興味が惹かれる。 自分が日本を離れたのが37年前、自分がまだ9歳のときの日本の姿を著者と写真家は観察している。 自分が育った小学校低学年の頃の日本の田舎やそこからたまに出かけた都会の印象はノスタルジーとともに深くこころに残っている。

自分の知人でオランダの写真家、故エド・ヴァンデル エルスケンが初めて日本の土を踏んだのが本書の写真が撮られた年だった。 それ以来ヴァンデル エルスケンは度々日本を訪れいくつもの写真集を出版している。 その写真と本書の写真を比べると明らかな違いが認められるだろう。 それは本書の被写体は女性だけに限られているけれどその佇まいは概ね静かで日本人がみてもどちらかといえば慎ましく大人しい、当時のそれぞれの職種、年齢の平均的な姿なのだが、ヴァンデルエルスケンの被写体はその場所から切り取られはっきりとした輪郭と表情をもつ人々の姿でありそこではっきりとそれぞれの出版物の意図がにじみ出ていることだ。 尚本書に掲載された写真のページの幾つかは次のサイトに紹介されている。

http://bintphotobooks.blogspot.nl/2015/06/women-of-japan-marc-riboud-photography.html

シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「第二の性」がフランスで出版されたのが1949年だから著者がそれに触れなかったことはほぼ無いだろう。 戦争を経験しハンガリーからパリに逃げて女性作家として自立するプロセスでは女性としての自覚、社会に対する何らかの批判性をもって活動していると見做してさしつかえなく、ことに「日本の女性」とした本書であるのだからそこには単にエキゾチックな日本の探訪記には収まらないものがあるものと期待していいだろう。 冒頭、既婚・未婚に関わらず日本を訪れる者に対して知ったかぶりの者はウインクし、男には芸者の国にいくのかいといい、女性に対しては、男のいう事をよく聴き淑やかで無駄口をきかず理想的な女たちの国に女性としていくのなら比べられるのを覚悟しているのだろうがそれはいい根性だ、とも言い、日本の女性を妻とする男の幸せは言うべくもない、と言われてきた著者はフランスから飛行時間だけで40時間、6か所を中継して途中怪しい食事をテヘランで摂り、熱暑のニューデリー、バンコックを経由して日本に向かうのであるが機内での日本人スチュワーデスはフランス人のアナウンスを忠実に唄うような日本語で繰り返すがその事務的な微笑みの陰には夢見るようなまなざしはない、と書く。 香港から乗り込んできた中国人スチュワーデスはぴっちり体を包んだチャイナ服の切れ上がった股の部分から端正な脚が覗き疲れ切った乗客の眼には目覚まし効果が十分ではあるが夜の10時に羽田に到着した著者はこれから出会う女性たちが一般に言われる日本の女性像からは違ったものであることを半ば確信して東京の町にでる。

伝統的な髪結い、現代的なヘヤーサロン従事者、学生、芸者の卵、主婦、作家、バーの女性、農家の主婦など様々な女性にインタビューしたあと良子、幸子、静江、稲子、真理子などの名前を反芻しその名前に付けられた意味を想う。 日本の町で、とりわけ東京での移動に使うタクシーの荒っぽさに驚き「カミカゼ・タクシー」と呼ばれていることを知らされる。 日本女性の柔軟性と従順さには生きる知恵が裏付けされていて盲従ではないことを確認し、そこではアメリカ女性とは対照的な知性をみる。 こういう部分が当時も今も残るフランス人のアメリカ人に対する批判、偏見が充分うかがえるようだ。 戦後の日本の女性に対しては新旧、西洋/東洋の二つの相反する異なった世界の価値観が混ざり合わさっていることを観察している。 これは戦後70年経っても程度の違いはあれ社会に通底していることであるものの西欧からきて日本に長く滞在している者には認められるものではあるのだろうが日本人には当時に比べるとそれが見分け難くなっているのではないか。 

興味深かったのは産児問題について語られた部分だ。 女性問題でネックになるのはこの部分でもあるからだ。 昨日のニュースでも託児所の不足が政府発表と調査機関の発表とはことごとく異なり、まるで安倍政府が女性の職場参画に対して消極的であるかのような施策を未だ採り続けているといった批判がなされていたことだ。 本書が書かれた当時、日本の人口が8600万人、戦中には産めよ増やせよ、との掛け声がそのまま戦後ベビーブームを起こし、町のどこにも背中に負われた赤子がみられるようになり産児制限、避妊、受胎調節というような言葉も広げられ女性の脳に組み込まれるようになる。 けれど実際にはキャンペーンは公には行われず年出生数は170万人に及び、1951年には出生数が死亡数を130万超過したことがここでは述べられている。 1957年には出生数は156万人で政府のキャンペーンの効き目があったのか胎児の死亡率が上昇し、20秒ごとに新しい生命が誕生し、42秒ごとに死亡が数えられる。 斯くして統計数も1945年当時のものにほぼ戻り日本政府の政策が一定の効果をもたらしたものではあるが産児制限の陰に違法の堕胎が数多く行われ大きな問題となっていることも記されている。 

著者は当時日本の著名人にもインタビューしている。 歌舞伎の女方尾上梅幸43歳に何歳に見えるのか尋ねられ32と答え普通の男が女になっていく姿を見て驚愕し、新劇女優東山千恵子の来歴を聴き、ことに外交官夫人としてモスクワで観たチェーホフの「桜の園」以来西欧演劇を志し第一人者となり女優を養成する姿に接し、作家では林芙美子没後であり著者は1930年代にフランス語に翻訳された「放浪記」を読んでいることから同じ女流作家である吉屋信子に接し彼女のパリ時代の思い出をも聴きだしている。 

帰国に際して著者が日本で出合い見た日本の女性について、当然人形のように美しくおとぎ話の妖精のような女性たちを見ることはあっても一概には、日本の女性も他国の女性と同じく人生と格闘する人間には変わりないことを確認する。 そして10年後の日本の社会について、著者は子供の数は減少し、町は多少とも静かになっているかもしれないと想像する。



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