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いつでも君のこと好きだったよ

近藤かすみ第二歌集『花折断層』

2019-11-21 22:51:46 | 日記

 近藤かすみさんの第二歌集『花折断層』を読んだ。近藤かすみさんとは神楽岡歌会やあなたを読む会で毎月ご一緒していて、的確な指摘や言葉に対する厳しさを近くで見て来た。そういう歌や言葉の向き合い方の積み重ねたものが歌集となったとき、力強いものになるのだなぁと今回とても深く感じた。

 

 ・置きざりの鞦韆おほふ草いきれ花折断層むかし遊びき

 ・ひこばえの萌ゆる柳の枝先は鶫ひとつの重みに撓る

 ・叡山の峰のみどりの濃きところふいに明るむ雲はうごきて

 ・落差ある処をしぶく水のあわ鴨川(かも)の流れに白き帯なす

 ・豆餅を買ふ人の列ながければ折れて店舗の間口に揃ふ

 

 第一歌集の『雲ケ畑まで』に引き続き、京都の暮らしに風景が溶け込んでいる。叡山、鴨川、豆餅(この歌には「出町ふたば」という短い詞書がある)。いかにも「京都」という地名やアイテムを使うときはそれらのもっているイメージに耐えられそうになくて避けてしまいがちたが、近藤さんはそこを踏み越える。多くの歌人が歌にしてきたところであっても、近藤さんはものともせずにその感性と的確な言葉をつかって差し出して来る。

 叡山の峰がふいに明るむ。ああ、雲が動いたんだ、と認識する。「峰のみどりの濃きところ」が明るむ映像があざやかに読む者の目の前に再現される。鴨川の白くしぶくところを詠うときも「落差ある」から詠い出す。すると、読者は段差のある場所を思い描き、ああ鴨川の、「白き帯」か、あの。というふうに自然に景がたってくる。出来上がった歌を読めばするするとできているように思えるかもしれないけれど、これは相当のテクニックのある人でないとこうはいかない。

 

 「「鶫ひとつ」の重みで撓る」ことで柳の枝先のやわらかさに触れているような気持になる。豆餅を買う人の並び方に、ご当地ルールのようなもう長くこの並びかたに習ってきている店が見える。

 

 ・アスファルトに煽られて舞ふレジ袋あれはさつきのわたしぢやないか

 ・日傘にも雨傘にもなるわたしですやがてどこかに置き忘れます

 

 こういう歌も差し挟まれていて、おもしろいなと思う。レジ袋や傘になるわたし。自分の存在の心許なさのようなものが投影されている。

 

 ・大根の五センチほどをおろすとき津の国にいまし雪ふりそめむ

 ・琺瑯の小鍋にミルクあたためて匙たよりなく膜をすくひぬ

 ・きなり色の高野豆腐に湯をそそぐ花の絵のある魔法瓶より

 ・お茶碗の糸底に残る水滴を拭ひて終わるけふの一日

 

 やはり、第一歌集にひきつづき、厨歌の巧さも健在だ。1首めは河野裕子さんの匙をみがく歌を少し思ったけれど、「五センチ」というささやかな具体がとてもいい。津の国からきた大根なのかもしれない。大根と雪。とても美しいとりあわせだ。琺瑯の小鍋、花の絵のある魔法瓶、お茶碗の糸底。どれも長く使われてきたものへの愛おしさがある。きなり色の高野豆腐というのもなるほど、と思った。

 

 こういう心を静かにしてくれる、という歌集は秋の終わりに読むのがぴったり。ささやかなものを重ねるととても豊かになることをこの歌集は教えてくれる。

コメント
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