複雑な心境で東京へ<o:p></o:p>
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十月十八日(木) 曇<o:p></o:p>
午前三時起床。小池のおばさんに送られて寮を出る。星はふるようにきらめいているが、案外暖かい。<o:p></o:p>
四時半、飯田発下り電車で東京へ。眠くて松葉も自分もぐたぐた居眠りするばかりだ。七時辰野着。相変わらず信濃の朝は白い霧が深い。すぐに上りの汽車に乗り込む。依然、凄い混雑で座ることが出来ない。<o:p></o:p>
車中復員したらしい一将校とその老母が、何か読んだり書いたりしている。将校の読んでいるのは竹田敏彦の大衆小説で、老母が塵紙に写しているのは日用英語のパンフレットであった。どういうつもりでこの年で英語などやり出すのかわかりかねるが、敗戦国とはいいながら御苦労千万である。混み様がひどいせいかむし暑く気持が悪い。車中緒方富雄「病気をめぐって」を読む。<o:p></o:p>
浅川でプラットホームをのそのそ歩いているアメリカ憲兵を見る。青い鉄兜に白く大きくM・Pと書いている。すれちがう日本人の群、子供を負ぶった女、ボロボロの作業衣を着た少年、袋を背負った老人達は、もう馴れていると見え、振り返りもしない。その背景に、すでに見えはじめた廃墟がひろがり、敗戦日本の情けなさが今さらのように胸を衝く。すべてがみすぼらしく、汚らしく、ゴミゴミしている。赤い大柄なスタイルのよい米兵は、巻きタバコをくわえて悠々と倉庫など覗き込んでいた。<o:p></o:p>
立川からまた二人米兵が乗り込んで来た。絶えず口を動かしているところを見るとチューインガムでも噛んでいるのであろう。中年の男が小声でひそひそ話している。<o:p></o:p>
「それでもいいところで戦争がすんでくれました。日本中がまああの通りに焼けてしまったあとで降参してごらんなさい、そりゃあ惨めなもんですよ。どっちにしろ叶わないのだから、大都市がやられたくらいのところで手をあげて、結局助かったというもんですよ。……」<o:p></o:p>
午後二時新宿着<o:p></o:p>
東京は相変わらず物凄い人間の波だ。駅の中の至るところに英語が白ペンキや墨で書いてある。青梅口の広場には、女や老人が路傍に腰を下ろして見わたす限り露店をひらいている。いわゆる新宿マーケットであろう。<o:p></o:p>
群衆の間から覗いてみると、化粧品、紐、靴べら、草履、安っぽいが、日常生活に必要なものでないものはない。その前に貼り出された値段表は公然と公定の二十倍三十倍の値段である。<o:p></o:p>
東京新聞に「餓死線上に彷徨する都民」という見出しで、冠水芋を買出部隊に掘り出させ、しかもそれを一貫十五円二十円に売りつけて、先日の大雨による水害を転じて一億円の闇利益をむさぼった東京近郊の強欲な農民を国民法廷にかけろと絶叫しているが、見たところ「彷徨している」何千人かの都民はべつに餓死線上にいるようには見えない。赤い肥った顔ばかりである。<o:p></o:p>
(同じころ、わが家でも同じ憂目に会っています。冠水芋なる代物、煮ても焼いても食えず、要するにガリガリで、例え空腹でもとてもじゃありませんが食えません、母は口惜しいと一言、そして泪を流しました。)
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