祖父の記憶は一切ありませんが 2007ー1-23記
祖母は戦後も焼け跡に建てられたバラックに上京してきて、長期に滞在していたこともあり、記憶が鮮明に残っています。なにしろ百才過ぎまで生き、地元の新聞にその健在を報じられたぐらいです。そうでした、子供のころ、夏休みには何度も隠居所に世話になっていました。祖父はあたしが物心つく前に亡くなっています。その祖父の話ですが、もちろん全て母が面白おかしく聞かせてくれたお話の受け売りです。その前に叔父夫婦のことを話しておかねばなりませんが、まあそれは追々ということにして。
ある日、あたしに祖父の記憶がないのですから、昭和七、八年のこととします。田舎から祖父が一人で忽然と訪ねてきたそうです。そしてその日の夜も遅くに、言い忘れましたが、祖父も祖母も父方です。あまりの店の忙しさに居たたまれなくなったのでしょう、酒のサービスもよくなかったのではないでしょうか、山うえに住む娘夫婦のところに行くと腰を上げたそうです。母は極力かまえないことを詫びつつ押しとどめたそうですが、祖父は今夜は娘の家に泊まるといって店を出ました。
叔母の家は店から歩いて行ける距離にあったのですが、店も盛りで送っていく術もなく、義妹の家に連絡する電話などあるはずもありません。
祖父は道灌山の坂を上り、本郷をめざしました。坂を上がりきったところに交番があります、タイル貼りの瀟洒な建物です。祖父が交番の前を通り過ぎようとしたとき、巡査が呼び止めました。
「これこれ隠居、こんな夜分にどこへいくのだ」
「ちょっとそこまで」
「ちょっとそこまでじゃわからん」
「娘のところじゃ」
「ふん、隠居、名前は」
「わしのか、長谷川歌之助」
「なに、長谷川歌之助、役者みたいな名前だな」そしてにやっと笑いました。
祖父はこの巡査の言葉と態度に激高しました。多少酒の勢いもあったのでしょう、役者みたいな名前とはなんだ、わしを河原乞食と一緒にするのか、それは声を荒げて巡査に詰め寄ったそうです。
奥から年嵩の巡査も飛んで出てきて祖父を宥めにかかり、あらためて行き先を尋ねました。祖父はこの先の何某「なにがし」というと、今度は巡査が慌てました。叔母の連れ合いは剣道の達人で、範士?という最高の段位をもち、御前試合の審判も務めた水戸出身の剣士だったのです。
当時道場を開き、警視庁の師範も兼ねていたのです。巡査は前言を平身低頭で詫び、どうかこのことは内聞にしてくれと懇願してきたそうであります。
これだけの話ですが、祖父は後年孫の一人であるあたしが、河原乞食と忌み嫌った役者の真似事をしようとは、夢にも思わなかったでしょう。
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「どこの馬の骨かわからん」昔はよく口にされた言葉ですね。最近はとんと聞きません。いいことなのでしょうが、淋しい気もします。