観測にまつわる問題

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両陛下の沖縄訪問

2018-03-06 19:56:10 | 日記
両陛下、27~29日に沖縄訪問 宮内庁発表(日経新聞 2018/3/5 11:02)

>宮内庁は5日、天皇、皇后両陛下が27~29日の2泊3日で沖縄県を訪問されると発表した。那覇市内に宿泊し、戦没者追悼施設で慰霊するほか、日帰りで日本最西端にある与那国島を訪れ島民と交流される。2019年4月の退位を控え、在位中の沖縄訪問は今回が最後となる可能性が高い。

>両陛下の沖縄訪問は皇太子ご夫妻時代も含め11回目。沖縄返還から3年後の1975年7月に初訪問して以来、太平洋戦争の犠牲者の冥福を祈るとともに、沖縄の住民らとの交流を通じて歴史や文化に触れてこられた。

>今回は、米潜水艦に撃沈された疎開船・対馬丸に関する資料を展示する対馬丸記念館(那覇市)を視察した14年6月以来の沖縄訪問。島々への旅を象徴的行為として重視する両陛下が離島訪問を強く望まれたという。

>両陛下は27日午前、羽田発の特別機で出発。糸満市の国立沖縄戦没者墓苑を訪れ、供花される。28日は与那国島を日帰りで訪問し、伝統芸能「棒踊り」を鑑賞。在来馬の「与那国馬」や世界最大級のガ「ヨナグニサン」を見学される。29日は豊見城市の「沖縄空手会館」で演武を見た後、帰京される。

3月に両陛下が沖縄訪問されるということで、記事に合わせてあらためて沖縄に注目してみます。

国立沖縄戦没者墓苑
(沖縄県平和祈念財団)



>国立沖縄戦没者墓苑は、沖縄戦で亡くなられた住民や軍人などの御遺骨を納めた国立の墓苑です。

>沖縄戦においては 軍民合わせて18万余の尊い命が失われました
>この戦没者の遺骨収集は戦後 いち早く地域住民の手によりはじまり 各地に納骨堂や納骨堂を兼ねた慰霊塔を急造し 収集した遺骨を納めました
>昭和32年(1957年)には 政府が当時の琉球政府に委託して 那覇市識名に戦没者中央納骨所を建設し 納骨してまいりましたが 次第に収骨数が多くなるにつれ 中央納骨所が狭隘となってまいりました
>このため 国難に殉じた戦没者の遺骨を永遠におまつりするのにふさわしい墓苑を新たに造るべきであるとの要望が沖縄県をはじめ関係遺族等から寄せられ 厚生省(現厚生労働省)の配慮により昭和54年に本墓苑が創建され 中央納骨所から本墓苑に転骨したものです
>しかし その後 毎年のように約100柱が新たに収集納骨されたことから 昭和60年に後方に納骨堂が増設されました
>現在 本墓苑には戦没者18万余柱が納骨されております

沖縄戦と言いますと、沖縄戦における集団自決(ウィキペディア)が想起されるのですが、当時の日本は特攻を行っており、満蒙開拓団でも集団自決(ウィキペディア)は行われていますから、不幸な歴史があったことは間違いないでしょう。軍の強制性に関して犯人とされた方々中心に反発があるのは理解できますし筆者も共感してきましたが、こういうのを否定すると、何か集団自決まで否定したかのような印象もあり、あまり感じは良くなかったのかもしれませんね。ただ、遺骨収集が軍民合わせて戦後いち早く地域住民の手によりはじまり、慰霊や収集納骨され続け、現在18万余柱も納骨されていることを考えると、ちょっと強制されて集団自決さされたというようなシナリオは苦しいのではないかと思います。そんなに旧軍が悪かったのであれば、骨だけになってしまえば区別もつかないでしょうが(軍服を着ていたら区別はつきますが)旧軍と共に祀られるなんて嫌でしょうし、本土人など蛇蝎の如く嫌われていたでしょうし、本土復帰することも無かったと考えられます。あるいは一部不幸な事例は何時だってあったとは思いますが、全体として旧軍=悪みたいな話は信じられませんし、日本的ではないですね。こんなことをかの国の方々に言うと、「反省してないアル」とか「反省してないニダ」とか言われるんでしょうが。何時か沖縄での現実の歴史に沿った歴史観で教科書が記述されればいいなと思いますね。

満蒙開拓団の話ですが、集団自決が相次いで起こったことは史実のようですし、あるいは一部の軍人が指示を出した可能性もあるかもしれませんが、全般として軍が強制的にやらせたということであれば、約57万5千人のシベリア抑留も無かったでしょうし、引揚者もいなかったはずです。満州と沖縄は必ずしも同じではないでしょうが、それほど状況が違ったとは思いにくいところもあります。

次いで棒踊り(与那国 棒踊り の画像検索結果)(棒踊り の画像検索結果)ですが、起源は鹿児島にあるとも言われるようですが(鹿児島の棒踊り(南日本の民俗文化誌2))、高知県(棒踊り(山北棒踊り))・熊本県(築山花棒踊り|玉名市 - 玉名市役所)・新潟県(臼井棒踊り|ニイガタカラ.Net - 新潟市小高棒踊り - 長岡市 - 長岡市)などにも見られるようですね。与那国の伝統芸能 - 与那国町役場を参照すると、「与那国島の棒踊りはおよそ290年の歴史がある。西暦1700年頃に首里出身の棒術者であった幸地氏が与那国に漂着し与那国島の娘と結婚した。7男1女の子宝に恵まれたが、息子たちの怪力と、気性の荒さに棒術の伝承を危惧し、一人娘にだけ棒術を伝授した。娘が嫁入りの際に道具一式を持たせたという。娘は自分の息子たちに棒術を教えたのが始まりという一説がある。当時、役人の統制、抑圧の厳しかった与那国島で、島民は役人の目をごまかしながら創意工夫を凝らし、数多くの棒術を編み出し、練習を続けたのである。以来与那国島全体に広く伝えられるようになった。現在では、各公民館によって保存・継承されているものの一つである。多くの棒踊りは各集落共通しているものが多いが、棒のティ(打つ手)に異なりが見られる。」とのことのようです。棒術(ウィキペディア)を参照しましたが、「棒術は手軽に手に入り、日常生活でも使用する棒を武器とするその特性上、身分、階層を問わず広く修練されており、日本各地に多くの流派が存在した。現在でも祭礼で棒術が棒の手や棒術、棒踊り、獅子舞などと呼ばれ演じられる例が多くある。場合によっては、祭礼で演じられるが、伝承形態は武術そのものとして伝わっている例も散見される」ということのようであり、今となっては与那国の棒踊りの起源も分からないと思いますが、日本の棒踊り・棒術とそれほど変わらない文化であるように思えます。後で取り上げますが唐手という名前のイメージや中国の棍術のイメージで中国の影響があるかと思いましたが(日本にあまり棒術のイメージがありません)、そんなこともなさそうですね。よく見てみれば衣装も中国服ではなく浴衣の一種であるように見えます。



与那国馬(ウィキペディア)は「与那国馬の来歴は明らかではないが、日本最西端の離島である与那国島に生息するため、他品種との交配や品種改良が行われることがなく、その系統がよく保たれてきた」とのことで、現代に残る貴重な在来馬のようです。琉球競馬(ウィキペディア)は琉球王国で広く行われたようですが、その最古の記録は徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家ウィリアム・アダムス/William Adams(三浦按針)が書いた『琉球諸島航海日誌』で、「1615年、陰暦3月3日、首里は祭日で闘鶏と競馬が催される」と記されており、与那国でも浜競馬が行われた歴史があります。与那国馬には与那国島 - ヨナグニウマふれあい広場与那国馬風(う)牧場/よなぐに式与那国馬乗馬 - たんぽぽ流ツアーで触れ合えるようです。与那国馬もアニマルセラピーに使われているとのことですが、日本の一大場産地北海道日高地方の馬文化ひだか:馬を楽しむ:日高路の馬(日高振興局)を参照すると、ホースセラピーなるものもあるようですね(例えばホースセラピーねっと)。在来馬はポニー(ウィキペディア)に含まれますが、ポニーは乗馬やホースセラピーの他にホースショー(日本では例えばホースショー | 六甲山牧場や馬車用(日本ももポニーカートが販売されているようです(ワールドランチホースクラブ|ポニーカート(馬車)の販売について))、ペット用(ポニーの飼い方|飼育に必要なもの・販売価格・寿命・餌 | 珍動物)にも使えるようです。世界では盲導馬という使い方も(日本でも活躍する日は近い!?世界が注目する盲導犬ならぬ『盲導馬』(目ディア))。与那国馬に更なる可能性もあるかもしれません。


与那国町役場

ちなみに在来馬と言えば我らが愛媛県の今治市に野間馬も(のまうまハイランド)。

ヨナグニサンに関して言えば、森林性なので(ヨナグニサン 世界一大きなガ、短い寿命 西日本新聞 2015年11月17日 14:15)、絶滅させてしまわないためには、森林の保護が重要になってくると思います(環境省のレッドリストでは準絶滅危惧種になっています)。アヤミハビル館(与那国観光WEB)もありますし、西表島や石垣にも生息すると言われますが、ヨナグニという名前もついており、与那国のシンボル的存在でもありますから、やはり保護はするべきじゃないかなと思いますね。また、与那国の自然はヨナグニサンだけでもないようです(与那国島の基本情報 与那国島の自然と伝統文化)。こんな面白い植物もあります(「森のこびと」が出現 キノコのような種子植物 与那国の山林(八重山日報 12日 1月 2018))。こんなニュース「八重山に新種キノコ16種 光る種など学術本で紹介 琉大の寺嶋教授が監修」(沖縄タイムズ 2016年3月3日 06:10)もあるようです。


ウィキペディア                                       八重山日報

結果、必然的に農業も含めて開発はあまり進めるべきではないということになります。田原川における多自然川づくり・環境整備内容の検討(沖縄県環境部環境再生課)というpdfを見つけましたが、地域と自治体が協力し合って、県指定天然記念物の宇良部岳ヨナグニサン生息地や久部良岳天然保護区域といった与那国島の自然を守ってほしいですね。世界自然遺産はコアゾーン(核心地域)とバッファーゾーン(緩衝地域)に分かれていますが、天然記念物だけ守るというのではなく、島全体の環境を守ることが与那国固有の生物・特色を守ることになると思います。

じゃあ産業は?ってと思うかもしれませんが、起伏が激しい地形で、海岸線には断崖絶壁が多数ありますから(「与那国島 崖」画像検索)、開発するより、今の自然環境を守り活かしていく方向性の方がいいのではないかと思います。Dr.コトーの島に派手な喧騒は似合いません。

与那国に配備された自衛隊は沿岸監視部隊ですが、活気と安心をもたらしたようですね(与那国島への陸自配備から1年余 島民に溶け込む自衛隊 国境の砦に「活気」と「安心」もたらす「地域のために 地域とともに」(産経ニュース 2017.7.3 09:00))。ただ、やはり昔のように国境の島だからといって密輸で盛り上げるという訳にはいきません。仮に与那国が距離が近い台湾人観光客相手の開発を目指すと仮定しても、台湾人が与那国に求める売りとは何だろうという疑問もあります。ヨナグニサン(Attacus atlas ryukyuensis)は日本でこそ特異だと思いますが、Attacus atlas(ウィキペディア)という種自体は台湾にも分布します。やはり近いですから、環境が似ているところもあるんじゃないでしょうか。隆起珊瑚礁ではなく、主に第三紀堆積岩からなる島でもあります。

環境なんてメシの種になるの?と思うかもしれませんが、森林インストラクターという仕事もあるようですし(一般社団法人 日本森林インストラクター協会)、その独自の自然が守られていれば、それを目当てに訪れる観光客はいるでしょうし、それで十分ではないかと思いますね。ただ、この森林インストラクター協会、九州森林インストラクター会というブロック組織はあるようですが、沖縄や鹿児島に支部がないようです。与那国や西表・石垣・ヤンバル・奄美・徳之島など豊かな森林があるのに残念なことだと思います。ちなみに日本人はキノコ狩りや山菜採りが好きなようですし、与那国にも美味しい山菜はあるようですが、日本ではキノコ狩りや山菜採りで10年間に約2,400人が食中毒を起こし、うち13人が亡くなっているとのこと(キノコ狩りや山菜採りなどで 毒のあるキノコや山菜などにご注意を! うっかり食べると食中毒に(政府広報オンライン))。与那国にハブはいないようですので、そういう意味では安心な島ではあるようですが、素人判断は危険かも???島のガイドということであれば、現状でも与那国馬のところで触れたたんぽぽ流ツアーさんが島ガイドをやっているようです。

与那国島でキャンプは禁止されているようですが、他に野外活動としては、オリエンテーリング(オリエンテーリングをやってみよう - 日本オリエンテーリング協会)やネイチャーゲーム(公益社団法人日本シェアリングネイチャー協会: 自然と遊ぼう!)があるようです。「沖縄 オリエンテーリング」で検索するとやんばる東村アドベンチャーラリー2018が出てきました。シェアリングネイチャー/ネイチャーゲームも石垣含む沖縄にも組織があるようです(沖縄県のシェアリングネイチャー組織一覧)。

ちなみに与那国島は日本最西端で証明書も発行しているようです(観光お役立ち情報 与那国島観光協会 与那国町商工会)。一枚500円。西崎(いりざき)からは台湾の島影が見えることも(西崎(いりざき)与那国観光WEB)。


与那国観光WEB

最後に沖縄空手館。今年は第1回沖縄空手国際大会も行われるようです。2020年東京五輪で採用された空手(東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会)はこれから益々注目されますね。空手の名前の起源は唐手にあるでしょうし、中国武術の影響はあると思いますが、筆者が「沖縄空手道の歴史」(新垣清 原書房)やネットで調べた感じでは、日本の影響の方が強いのではないかと思います。根拠は琉球士族は示現流など剣術や日本の武術を学んでおり(例えば琉球王国時代の最も偉大な武術家の一人とされる松村宗棍(ウィキペディア)は成人してから薩摩に渡って示現流を学び免許皆伝を得たとされています。ただし、その後中国で1年ほど滞在し武術も学んだようです)、兵装も日本のものだったからです(琉球王国首里城から出土した「日本」の証拠(坂東忠信の日中憂考))。素手戦闘だけ中国式ということは考え難いところです。日本中心に中国の影響も受けながら、沖縄で独自に発展した武術が沖縄の武術なのではないでしょうか?琉球士族は帯刀(ウィキペディア)していなかったようですが(おそらく琉球王家が大名ではなかったので権利が無かったのだと思います)、であるがゆえに素手の格闘術が発達し、明治以降武士が刀を捨てた時、本土でも広まったものでしょう(本土での普及に貢献した人物として船越義珍(ウィキペディア))。現代の空手は必ずしも実戦的な格闘術そのままではなく、スポーツ化・体育化したものであるようですが(近代化に貢献した人物として糸州安恒(ウィキペディア))、柔道の父・日本の体育の父である嘉納治五郎(ウィキペディア)が柔術を学んで柔道を創始した経緯と良く似ているように思います。


沖縄関係ない動画で申し訳ありません(笑)。


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