観測にまつわる問題

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建国記念の日、紀元節と皇紀(神武天皇即位紀元)、西暦

2019-02-12 16:15:02 | 日本史
昨日2月11日は建国記念の日でした。1966年(皇紀2626年、昭和41年)制定。元々のルーツは1873年(皇紀2533年、明治6年)に定められた紀元節(日本建国の日)ですが、これは戦後GHQによって一度廃止されています。日本は皇室を戴く国であり、明治元年を建国の日にする訳にもいかず、歴史的に大和朝廷(皇室)の始まりの日も明快ではありませんから、建国神話に基づく建国記念の日は妥当な判断のように思います。日本の紀元を初代神武天皇の即位に求めることは、日本書紀編纂以来、一般的な認識であったようです(それが何年前か定量的に求められたのは江戸期。制定は明治期)。

建国記念日の制定の経緯に詳しくありませんが、明治維新に関連して世界の建国記念日を参考にしたことは間違いないんでしょう。あえて何処かと言われればアメリカでしょうか。各国の制度・文物の視察・調査や国書の捧呈、不平等条約改正に向けた予備交渉を行うことが目的であった岩倉使節団は明治4年(1871年)11月横浜から出航。最初にアメリカに向かいましたが、不平等条約の改正の交渉が困難であることを知り、伊藤と大久保が一時帰国しています(参考:近代国家 日本の登場 - 4.岩倉使節団(国立公文書館))。後に触れますが紀元を定めたのが明治5年11月15日(1872年12月15日)で、岩倉使節団の帰国が明治6年9月ですから、建国記念の日の制定が岩倉使節団に関係あるとすれば、アメリカからの一時帰国に関係があるということになります。元々下調べはしていたでしょうから(当然欧米に建国記念日のようなものがあることは行く前から知っていたでしょうから)(国が行う視察とはフラッと遊びに行くものではなく予め見たいものを調べておき現地で確認調査するものなんだろうと思います)、直接的に使節団と関係ない可能性もありますが、アメリカ連邦議会が1776年にアメリカ独立宣言が公布された記念日7月4日を公務員の祝日に制定したのは1870年です(独立記念日恒例の打ち上げ花火は、1777年以来の伝統行事なのだそうです)。あるいは失敗に終わった不平等条約改正交渉が関係あるかもしれません。GHQが廃止したのもその辺の経緯が関わっていた可能性もあります。

明治政府が欧米の制度を参考に国づくりを行ったことは知られていますが、建国記念日で言えば、プロイセンが怪しいような気もします。プロイセンの建国記念日に関してはよく分かりませんが、1901年にドイツプロイセン建国200年を記念して2マルク銀貨が発行されています(1901年 ドイツ プロイセン建国200年 2マルク銀貨 PCGC鑑定済 AU Detail 極美品 ヤフオク)。プロイセンは1871年にドイツが統一されドイツ帝国となった時の盟主であるため、ドイツ帝国にとってもプロイセン建国200年というのは国全体の祝事だったようです。建国記念日は西暦1701年1月18日(マニアックな女性中心に人気の漫画「ヘタリア」の登場人物プロイセンの誕生日でもあるようです。詳しくは我が党の乙女ゲー制作会社出身の岡山政治家に聞いてみると何か教えてくれるかもしれません(はちま起稿))(乙女ロードは池袋ですが、秋葉原は自民党の選挙演説でも知られますね)。日本は明治以来大陸法の国であり、当時のドイツに多大な影響を受けたといいます。陸軍も後にプロイセン式になっており、昔のカルテはドイツ語(カルテ自体ドイツ語、クランケ(患者)もドイツ語)、筆者が大学生の頃は第二外国語の多数派はドイツ語でした。ビスマルクに多大な影響を受けたといい、「小国」プロイセンが富国強兵でのしあがった過程が不平等条約を結ばされ条約改正を目指す当時の日本の参考になると考えたようです(【岩倉使節団が得たもの】ビスマルクに影響を受けたヨーロッパ視察 歴人マガジン)。この推測が当たっているとすれば、やはり敗戦後GHQに目をつけられた理由になるかもしれません。

フランスの建国記念日は1789年のフランス革命に由来し7月14日。パリ祭ともいい盛大に祝うようですが、公式に決まったのは1878年~1880年のようです。当時はそうした記念日の制定が行われていった時代で日本もその一部だったと言えるのかもしれません。岩倉使節団は他にも欧州各国・世界各国を回っており、建国記念日もそれぞれあるようですが、ここでは詳しく検討しません。

イギリスにはハッキリした建国記念日はないようですし(現在の王家ウィンザー家はドイツ出身(筆者が旧宮家の復活に否定的なのは、系譜は変えられないので、イギリス王室がドイツ出身を言われるように(勿論イギリス王室の価値がそれで無くなるものではありませんが)、日本史上世界史上類を見ない空前絶後の超傍系に皇統が移ると永遠に言われてしまうというのが大きいです)、イギリスは連合王国で、それぞれの起源も不明なところがあります)。オランダも正式な建国記念日は不明とするようです。

歴史の古い建国記念日は1000年8月20日のハンガリーの初代王イシュトヴァーン1世がハンガリー王国を建国した日、1253年7月6日が初代リトアニア王ミンダウガス戴冠の日、1291年8月1日スイス誓約同盟が結ばれた日、1523年6月6日がスウェーデンがカルマル同盟から離脱した日で、日本という国の古さと連続性が分かるというものですが、断トツで古い紀元節を持つ?のはあの国のようです。開天節は国慶日と呼ばれる5つの祝日の内のひとつで、紀元前2333年10月3日。一方で1945年8月15日を祝う光復節もあるのですが、これに対して北は1948年9月9日。ダン君(檀は本来インドや東南アジアなど熱帯系の植物で朝鮮には自生しないようですが、妙香山(北朝鮮中部)が今でも香木で覆われた山で有名であり、高麗時代に檀と称して解熱薬とされたようです)は伝説上の存在ですが、母親が熊。北方のツングース(満州)に熊を含む獣祖伝説がありますが、こちらは父系が熊であるようです。極東ロシアの沿海州にヒグマは現在でも住んでいるようですから、北朝鮮あたり(高麗)なら昔はヒグマがいた可能性もありますね。アイヌの祭祀で熊送りがありますが、ヒグマが住んでいる地域で熊祭祀は有り得る話で、全くの捏造でない可能性はあるのかもしれません(珍しいから三国遺事に収録してみたとか?)。

紀元節は、神武天皇の即位日をもって定めた祝日。皇紀(神武天皇即位紀元)及び即位日の日付は江戸時代前期の渋川春海の日本長暦に基づくとか。渋川春海の元の姓は安井(→保井)と言い、安井家は囲碁の家元四家の一つであり(御城碁(おしろご)にも出仕。上手並み(七段)にも認定)、清和源氏畠山氏の一族。畠山氏は室町時代三管領の一角ですが、分家の七尾城に拠る能登畠山氏(能登畠山氏の歴史 攻城団)なんかも地方史で知られると思います。春海は天文暦学者として貞享暦を作成し、その功績で幕府から新設の天文方に任命されました。800年ぶりの改暦は当時話題になり、井原西鶴が暦、近松門左衛門が賢女手習並新暦を執筆したそうです。春海は神道家として垂加神道(水戸学等尊王思想に影響)の影響を受けており、日本長暦にもその影響があるとか。日本書記記載の神武天皇の即位日は正月朔日、すなわち1月1日ですが、これは陰暦に基づくのであって、新暦(グレゴリオ暦)で言えば2月11日なのだそうです。戦前は紀元と言えば皇紀であったようで、元号と併用されていたようです。昭和期に使用が増えたとか。西暦が定着し戦後30年経って生まれた筆者には想像が難しいものがあります。皇紀復活の動きに関して、ここで特には言及しませんが、一点だけ、正月朔日の即位がグレゴリオ暦に基づき法律で制定した明治以来、2月11日になっていることには注意するべきでしょう。神武天皇の即位日が正月朔日でなくていいのか?ということですね(皇紀を意識して建国を祝う方々にとって2月11日が正月なのであれば何も言えませんが)。日本は有史以来太陰暦だった中国の影響を受け、歴史的には陰暦でした(ただ、皇祖神が太陽神で日の出信仰もあり、太陽や月を神格化しない中国と違った文化伝統もあったように思います)。太陰暦自体、しばしばズレる厄介なものですが(ゆえに貞観暦での修正が大きな話題になったのであり、専門の暦学者がいたのでしょう)、太陽暦/太陰暦の換算もいろいろ難しい問題があるようです。

西暦はイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法として知られますが、今では当時の文書により紀元前4年が生まれた年とされます(それが定説となった後もわざわざ修正していません。長年の歴史・慣習を守る保守的態度と言えると思います)。歴史学のおいては新たなテキストの発見でこれまでの見方が塗り替えられることがありますが(例えば死海文書に関して個人ブログから「死海文書|内容から謎に関して最近発見されたことまでを一挙に紹介」)、今更日本書記以前の歴史書が発見される可能性はまず無いでしょうが、木簡竹簡や鉄剣の銘といった金石文が発見され何か分かる可能性が無いとも言えませんし、大陸における発見が関係してくる可能性もあります。ともあれ、日本第一の正史である日本書記の記述を基準にしたとしても、計算の間違いが見つかる可能性はありますし、古事記等他の資料との矛盾もあります。日本書記自体、一書に曰くで異論を数多く連ねて認める歴史書であることも注意せねばなりません(中国では清代まで本文中に異説を併記した歴史書はなく画期的と言えるようです。ただ、三国志で言えば東晋の裴松之が異説を注釈で記しており、定評があります。日本書記はこの定評のある注釈を参考にしたんだろうと思いますが、最初からそうしたものを知っていたがゆえに注釈という後付ではなく、本文に最初から記したものかもしれません)。いずれにせよ、タイムマシンが存在している訳ではありませんから、神武天皇の即位日を目で見てきて確定する訳にもいかず、従って永遠の「暫定に決めた状態」になることは避けられません。決めたものの長さ・深さと継続が文化の重さを量る基準とも言え、皇紀(神武天皇即位紀元)も例外ではありません。

紀元節は現在でも臨時御拝という形で皇室で同様の祭祀が行われ、今上天皇もそれを継承しているそうです(「皇室祭祀と建国の心」日本会議)。橿原神宮にも勅使が派遣され、御神楽奉納は神武天皇の崩御日である神武天皇祭(4月3日)において行われるのだとか。1967年(昭和42年)の建国記念の日制定以降、全国の神社でも再び紀元節祭が行われるようになったようで、神社本庁などから宮中での紀元節祭復活の要求があるそうですが、宮内庁は首を縦にふらないようです。紀元節は明治以降戦前の伝統ではあるとは思いますが、江戸時代の前史もありますし、江戸時代以前も日本の始まりは神武天皇と意識されていたそうですから、何らかの形で(もう少し目立つ形で)(宮中でも)紀元節が祝われたら良いんじゃないかと思います。そしてそれは少なくとも次代以降の話になるのでしょう。

皇紀元年は紀元前660年で、奇しくも紀元前7世紀あたりが大体西日本に弥生時代が広がった時期のようです。北九州においては前10世紀頃の開始と言います。狙った訳ではないんでしょうが、そう考えると何だか意味深のような気もしますね。


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