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日本の100名城!~中国地方5~

2012年06月25日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回も、中国地方(73番~75番)

 

 

73番 広島城

 

 広島城

 

広島城は、別名・鯉城ともいい、国の史跡に指定されています。

現在は広島城全域が広島城址公園となっていて、

復元された大天守は歴史博物館として利用されています。

 

それまでの毛利氏の居城・吉田郡山城は、

尼子氏の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城で、

また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、

領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適した位置でした。

しかし、天正末期になり、天下が安定する頃になると、

中国地方9カ国120万石の太守であった毛利氏に

吉田郡山城は政務所としても手狭なものとなり始めました。

また吉田郡山城は山間部にあり、商業の中心地としては不適切であったことから、

海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある

海沿いへの拠点を移動すべきという意志もありました。

一説には永禄年間の輝元の祖父・毛利元就のころから

現在の広島の平野部への築城構想はあったそうです。

 

1589年、二宮就辰らに指揮のもと、ついに築城が開始されました。

広島築城は川の中州の埋め立てと、堀の浚渫が初段の大工事となりました。

城の構造は大阪城を参考とし、近世城郭として近世城郭として築城されました。

縄張りは聚楽第に範を取っているといわれ、軟弱な三角州地盤に築城したため、

石垣の重量を分散させる工夫がなされています。

また、堀は三重に巡らされ、馬出を多数備える実践的な城構えでした。

この築城は同時期に進行しつつあった豊臣秀吉の朝鮮征伐の後方基地としての

期待もあり、秀吉は築城技術のサポートとして側近の黒田如水を派遣し、

自らも建設中に広島城に滞在したという話も残っています。

 

完成当初は当時の大阪城に匹敵する規模の城だったと言われますが、

関ヶ原の戦いで減封されて広島を去った毛利輝元に代わって

城主となった福島正則による築城があり、

築城当初の広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明です。

 

関ヶ原の戦いの後、

1600年に福島正則が毛利輝元に替わって広島城に入城しました。

この時代に、それまで二葉の里付近から城の北側を通っていた西国街道を、

城下の南側を通るように付け替えるとともに雲石街道を整備したといわれ、

町人町が拡大しました。しかし、幕府に無届けで修築したためそれを咎められ、

二段にしてあった本丸の上段石垣を破却しています。

これは現在でも確認できます。

 

結局、福島正則は1619年に改易の憂き目を見ることになり、

以後は浅野氏の居城となりました。

 

浅野藩時代の広島城は内堀・中堀・外堀のある約1㎞四方の広大な城でしたが、

明治維新後には1911年に外堀が埋められ、

さらに原爆の瓦礫で中堀が埋められて現在の規模になりました。

広島市内の「八丁堀」「薬研堀」などの地名は堀があった名残りです。

八丁堀は約8丁あった東側の外堀にちなんでいます。

また市内の庭園「縮景園」は、元々は城内でした。

外堀は南側では現在の相生通りの南半を東西に走っていて、

外堀の水は三篠橋付近の本川から引いていました。

 

[所在地]

広島県広島市中区基町

[交通アクセス]

鉄道:JR山陽本線・呉線・可部線・芸備線「広島」駅から城南通りを通り、

   徒歩で約20分、タクシーで約10分。

   広島電鉄宇品線・宮島線・江波戦「紙屋町東」「紙屋町西」駅から

   徒歩で約15分。

   「アストラムライン県庁前」駅から北へ徒歩約15分、

   「城北」駅から南回りもしくは東回りで徒歩約15分。

バス:紙屋町バス停・紙屋町県庁前バス停・広島バスセンターから北へ徒歩約15分

 

 

74番 岩国城

 

 岩国城

 

岩国城は1608年に初代岩国藩主の吉川広家が、

蛇行した錦川に囲まれた天然の要害の地である横山の山頂に築城しました。

本丸を中心として南西に二の丸、北東に北ノ丸、

ほかに水の手などの曲輪が配置され、麓には「御土居」が築かれました。

 

しかし幕府の一国一城令により、築城より僅か7年後の1615年には

取り壊しとなりましたが、勢見は御土居で行われ陣屋として存続しました。

 

現在の天守は1962年に外観復元されたもので、4重6階の桃山風南蛮造です。

南蛮造とは最上階をその下階より大きく造り、その間の屋根を省略した様式です。

 

復元の際、錦帯橋からよく見えるよう、

旧本丸の約50m南側に位置を変えています。

現在、天守内には刀剣や武具甲冑が展示されています。

 

一国一城令による取り壊し後、幕府より石垣も破却するよう命じられ、

天守台も破壊されました。

しかし下部約1/4が地中に埋まって残っており、

1995年に古式穴太積石垣が発掘復元されました。

また北の丸の石垣や空堀などの遺構が現存しています。

 

[所在地]

山口県岩国市横山

[交通アクセス]

鉄道:JR岩徳線「川西」駅より徒歩約30分、

   または錦川鉄道「川西」駅から徒歩約30分。

車 :山陽自動車道岩国ICより約900m、大竹ICより8.7㎞、

   広島岩国道路大竹ICより8.7㎞。

 

 

75番 萩城

 

 萩城

 

萩城は、中国地方の大名・毛利氏の居城であり、

標高143mの指月山の山麓には本丸が築かれたことから別名指月城と呼ばれます。

 

関ヶ原の合戦の敗戦で、西軍の総大将であった毛利輝元は、

長門・周防2国に移封されました。

輝元は慶長9年、日本海に面した長門国の萩に築城を開始し、

阿武川河口の三角州を整地しました。

 

城郭の構造は、指月山麓の平城の部分と山頂の山城の部分を合わせた

平山城の形式で、山麓には本丸・二の丸・三の丸を備えていたそうです。

本丸は東西百十間、南北八十間、その南北には内堀を堀めぐらし、

高さ六間の石垣を築いて5層の天守閣が聳え、

内部には藩主の居館や政庁などが立ち並んでいました。

内堀に接してその外に二の丸があり、さらに中堀を挟んで広大な三の丸が

城下町と外堀を隔てて造られていたと言います。

 

現在は指月公園として整備され、旧城の入口には旧厚狭毛利家萩屋敷長屋が

現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所になっています。

また、指月山の原生林は、国の天然記念物に指定されています。

 

[所在地]

山口県萩市堀内

[交通アクセス]

鉄道:JR山陰本線「萩」駅より萩循環まあーるバス西回り

   「萩城跡・指月公園前」下車すぐ。

   JR山陰本線「玉江」駅下車、徒歩約20分。

車 :国道191号線で萩市内に入り案内板に従う。

 

やっと梅雨に入ったかと思えば、

台風がきたり、大雨だったりする今日この頃です。

以前の梅雨といえば、しとしと降る長雨というイメージですが、

今の日本は熱帯地域の雨期と似てきたと思いませんか。

そして、日本の特徴だった四季もなくなっているように思います。

庭ももみじが春先に色づいたり、秋に桜が咲いてみたり、

変な時期に台風がやってきたり、

本当におかしなことになっている日本列島ですが、

それ以上に楽しく素敵なのも日本です。

この先、不安だらけですが今をおおいに楽しみましょう。



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