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日本の奇祭49「桑名石取祭・燈籠祭り・伊万里トンテントン祭り」

2015年06月22日 | 日本の奇祭

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。

故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

 

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、

外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。

これを世の人は「奇祭」と呼びます。

 

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

 

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」

「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、

奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。

よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り

(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、

ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、

開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

 

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。

その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、

祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

 

特に言う必要はないと思いますが、

以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、

れっきとした郷土芸能であり、

日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

 

今回は、三重県の桑名石取祭と新潟県の燈籠祭りと

佐賀県の伊万里トンテントン祭りです。

 

 

桑名石取祭(春日神社:三重県桑名市本町)

 

桑名石取祭は、桑名南部を流れる町屋川の清らかな石を採って

祭地を浄めるため春日神社に石を奉納する祭りで、

毎年8月第1日曜日とその前日の土曜日に執り行われています。

 

 

町々から引き出される祭車は、太鼓と鉦で囃しながら町々を練り歩きます。

試楽(土曜日)の午前0時には叩き出しが行われ、

祭車は各組に分かれ、組内を明け方まで曳き回し、

その日の夕方からも各組内を回り、深夜にはいったん終了します。

 

 

本楽(日曜日)は午前2時より本楽の叩き出しが明け方まで行われ、

いよいよ午後からは各祭車が組ごとに列を作り、

神社参拝のための順番に曳き揃えを行います。

浴衣に羽織の正装で行き交う姿は豪華絢爛な祭絵巻を醸し出します。

一番くじを引いた花車を先頭に午後4時30分より曳き出された祭車は列をなし、

午後6時30分からは春日神社への渡祭が順次行われます。

 

 

渡祭後は七里の渡し跡(一の鳥居)を経て、

午後10時頃より始まる田町交差点における4台ずつの祭車による

曳き別れが行われるのも見逃すことのできない場面です。

 

 

【交通アクセス】

電車:JR関西本線「桑名」駅から三重交通バスで「反町」停留所下車徒歩1分。

   近鉄名古屋線「桑名」駅から三重交通バスで「反町」停留所下車徒歩1分。

 

 

燈籠祭り(弥彦神社:新潟県西蒲原郡弥彦村)

 

灯籠祭りは、毎年7月24~26日に

新潟県西蒲原郡弥彦村にある弥彦神社で執り行われるお祭りです。

 

 

各種の儀式があり、25日早朝には古式に則って大御膳を献じて祭典が執行され、

午後9時からは県下各地の大燈籠講中から献燈の大燈籠と、

地元氏子中より献燈の小田楽燈籠多数が、

神歌楽・天犬舞の両舞童、宮司以下神職、

役員総代らの供奉する二基の御神楽を中心として、

その前後に連なり渡御を展開します。

 

 

伶人の奉する道楽の音も賑々しく延々と1㎞以上の灯りの大巡行は神社を出発し、

町を2時間余りにわたって一巡し、再び拝殿前に帰ります。

そして、拝殿前に特設された舞殿の周囲を大燈籠が取り囲み、

その中で一社古伝の秘曲「神歌楽・天犬舞」が厳かに奉奏されて

深夜にようやく終了します。

翌26日には還御祭が執行され、一切の神事の幕を閉じることになります。

 

 

【交通アクセス】

電車:JR弥彦線「弥彦」駅下車、徒歩約10分。

車 :北陸自動車道「三条燕IC」より約25分。

 

 

伊万里トンテントン祭り(伊萬里神社:佐賀県伊万里市)

 

伊萬里神社の御神幸祭で、伊万里供日とも呼ばれています。

毎年秋たけなわの10月22~24日の3日間開催されます。

法被姿の氏子らの「チョーサンヤ(朝廷に参ずるの意)」

「アラヨーイトナ」の掛け声とともに、

白神輿、赤神輿、荒神輿、団車の計4基が市街地を巡幸します。

 

 

この祭りは、伊万里川河畔にあった香橘神社と戸渡嶋神社で、

それぞれ行われていた収穫感謝の御神幸祭に端を発し、

南北朝の故事になぞられ、荒神輿を楠木方、

団車を足利方に見立てた合戦祭りになったものと伝えられています。

 

荒神輿の香橘神社の創建は、田道間守が中国より橘を持ち帰り、

この地に植えたことに由来します。

また、団車の戸渡嶋神社は建武の頃、足利尊氏が敗戦の後、

筑紫の降り松浦の海上で暴風に遭遇したおりの救いの神を祀っていましたが、

1962年に香橘神社と戸渡嶋神社、岩栗神社の三社が合祀され

伊萬里神社となりました。

これを機に、合戦のルールや担ぎ手の役割分担制度、

参加者の禁酒などの制度刷新が行われています。

 

荒神輿

 

香橘神社の荒神輿とは、

巡行時「チョーサンヤ」と掛け声をかけながら町内を巡行する神輿で、

喧嘩時は「キーワエンカ」(こっちに来てみろという当地の方言)と

掛け声をかけ団車を挑発します。

また、合戦場所からは、荒神輿が勝った時点で先に逃げ、

次の合戦場所まで巡行します。

 

団車

 

一方、戸渡嶋神社の団車は、巡行時はゆっくりした三つ太鼓の後、

「アラヨーイトナ」と掛け声をかけながら巡行します。

喧嘩時は、荒神輿の挑発の後、

早い三つ太鼓を合図に「カーマエロ」と掛け声をかけ合戦が始まります。

5段重ねの5色の布団は、陰陽五行説を意味し、

上から青が空、黄が風、赤が火、白が水、黒が土を意味しています。

 

 

荒神輿が合戦場に着くと反転し、団車の到着を待ちます。

荒神輿は「キーワエンカ」と団車を挑発し、団車は「まだまだ」と焦らします。

機を見て喧嘩大将が旗を揚げ、合戦に入ります。

団車が仕掛け太鼓を打ちます。この早打ち三連打が「トンテントン」の由来です。

双方「カーマエロ」の合図で前進し組み合います。

前棒を組み合い、前傾した状態になったら競り太鼓が打たれ押し合いとなります。

相手方を倒したり、相手方に乗り上げた方が勝利です。

相打ちの場合は再び合戦が始まります。

荒神輿が勝った場合はすぐに次の合戦場に向かいますが、

団車が追い太鼓を打って再試合を挑むこともあります。

それを受けるかどうかは荒神輿の喧嘩大将の采配次第です。

 

 

24日夕方に伊万里川の岸辺で行う最後の合戦を「川落とし」といいます。

双方組み合ったまま川に落ち陸に早く引き上げられたほうが勝ちとなります。

荒神輿が勝つと豊作、団車が勝てば大漁に恵まれるといい伝えられています。

荒神輿と団車が組み合ったまま伊万里川になだれ落ちる勇姿は壮観です。

 

このように伊万里トンテントン祭りは、

九州男児の心意気を示す伝統的な祭りであり、

勇壮な合戦絵巻を満喫しようと例年約15万人の観光客が訪れ、

大変な賑わいを見せています。

また毎年数名の負傷者が出ますが、

名誉の負傷と言われ救急車では、拍手で見送られます。

 

【交通アクセス】

電車:JR筑肥線もしくは松浦鉄道「伊万里」駅下車、徒歩3分。

車 :長崎自動車道「武雄北方IC」から国道498号線経由で約30分。

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?


日本の奇祭48「アスムイ・神田祭り」

2015年06月08日 | 日本の奇祭

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。

故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

 

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、

外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。

これを世の人は「奇祭」と呼びます。

 

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

 

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」

「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、

奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。

よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り

(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、

ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、

開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

 

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。

その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、

祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

 

特に言う必要はないと思いますが、

以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、

れっきとした郷土芸能であり、

日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

 

今回は、沖縄県のアスムイと東京都に神田祭りです。

 

 

アスムイ(沖縄県国頭郡辺戸地区)

 

アスムイは、昭和18年ころ途絶えてしまいましたが、

1999年に復活した首里王府お水取り行事です。

 

執り行われる場所は沖縄本島最北端の辺戸御嶽ことアムスイ(安須森)です。

アムスイは琉球開闢七御嶽のひとつで、

その中でも最初に作られた聖地だそうです。

 

 

行事の内容は辺戸区の神アサギでお水取りの開始、

無地執り行われることを祈願し、大川(アフリ川)でお水を取り、

人々の健康を祈願して、シチャラ嶽(ウガミ)で万国の太平を祈願、

祝女殿内(火の神)で祖先への感謝を祈願の後、

出発式を行い、首里に向けて出発します。

 

 

沖縄本島最北端にある辺戸の集落の前方に

アスムイと呼ばれている岩山が突き出ています。

最古の歌謡集「おもろさうし」にも次のように歌われています。

 

 一、あすもりの きりくちの(安須森の 切り口の)

   きみのあまへ きよらておりとみ(君の歌へ 清ら天降り富)

 

 又、つれのふた(何れのふた)

   つれのまきよ おれほしや(いずれのマキョに降りたいのか)

 

 又、いじけまきよ(意志気マキョ)

   いじけふた おれほしや(意地気ふたに降りたいものだ)

 

きりくち(アスムイの別称)の女神が喜び踊り、

美しい天降り富船を浮かべて、どこの村に降りようか、

すぐれた立派な集落におりたいものだ、という意があります。

 

これはアムスイに神が降りてきたことをうたったもので、

ここで初めて天から神(アマミキヨ)が降りた場所で、

神聖な場所であるとされ、地元では黄金森とも呼ばれています。

 

アマミキヨは天帝の命によって土と泥で最初に辺土のアムスイを作り、

続いて今帰仁のスムチナ御嶽、そして知念森と沖縄島を次々に作ったといいます。

 

荒海の辺の渡を渡るさい、航海の安全を祈る女神の鎮座する御嶽として

「おもろそうし」にうたわれています。

土器や石器が出土した宇座浜遺跡やカヤウチバンタ貝塚などがこの御嶽の北、

および西麓にあり、古くから人が住んでいたことがわかります。

 

このアムスイのふもとを流れる大川は

毎年5月と12月に王府からお水取りの使者がきて、

国王と闇得大君の長寿を祈る若水を首里に送ったと伝えられています。

 

【交通アクセス】

バス:名護バスターミナルより67番琉球バス交通または沖縄バス辺土名線に乗り、

   辺土名バスターミナルへ、村営バス待合所より国頭村営バスで。

 

 

神田祭り(神田神社:東京都千代田区)

 

神田祭りは、2年に1度5月の第2日曜をはさんで、

約1週間にわたって行われる祭礼です。

 

 

神田祭りは、江戸総鎮守である神田神社の祭礼で、

赤坂にある日枝神社(山王権現)の祭礼と隔年で行われますが、

共に江戸城に入城し将軍の上覧に供した「天下祭」です。

江戸に幕府が開かれて以来、江戸城入城を許された祭礼は、

神田祭りと日枝神社の山王祭り、根津神社の祭礼以外にはありません。

根津権現の祭礼は1714年に初めて江戸城へ入城しましたが、

その後は入城していません。

 

神田祭りの起源は記録文書がほとんど残されていないので詳細は不明ですが、

大祭化したのは江戸時代前後のことです。

江戸時代の「神田大明神御由緒書」によると、

江戸幕府開府以前の1600年に徳川家康が会津征伐において

上杉景勝との合戦に臨んだ時、神田神社に戦勝の祈祷を命じ、

また石田三成との関ヶ原の合戦においても戦勝の祈祷を命じられたそうです。

神社の祈祷により天下を統一できたのかは分かりませんが、

9月15日神田祭りの日に家康は天下を統一したのです。

それにより家康は神田神社を厚遇し、社殿、神輿・祭器が寄進され、

神田祭りは徳川家縁起の祭りとして

以後絶やすことなく執り行うよう申し付けられたそうです。

 

「天下祭」として知られる神田祭りは、

1620年ごろまでは船渡御だったといわれています。

1670年代中頃まで毎年斎行されていましたが、

山王祭(赤坂・日枝神社)と隔年で斎行することになり、

以後今日まで2年に一度斎行されることが恒例となりました。

江戸幕府の庇護を受け、江戸城内に祭礼行列が練り込み、

将軍・御台所の上覧があったことなどから、

江戸の庶民たちがいつからか「天下祭」と称されるようになりました。

また、江戸時代を通じて全国的に有名な祭りの一つとして

「日本三大祭り」「江戸三大祭り」の中に数えられています。

 

江戸歳時記に描かれた山車の中で囃子が演奏されていますが、

最初からこのようなスタイルだった訳ではありません。

最初は山車の上で太鼓を打ち鳴らすだけでしたが、

1752年の山王祭で山車の上で葛西囃子が演奏されました。

これが好評だったらめ翌年の神田祭りでは山車の1/3ほどが

囃子を乗せて巡行を行い、後に恒例になりました。これが神田囃子のルーツです。

 

 

明治に入り山車は大幅に減少しましたが、1884年に46本、1887年に40本と、

江戸時代の36本よりも多く出され盛大な祭礼が行われた時もありました。

しかし明治22年を境に不景気と電線架線などの影響から、

山車が出されなくなっていき各町に備え付けられるのみとなりました。

また、1873年に太陽暦に改められ、祭礼の斎行日が約3週間早まり、

台風発生時期に重なってしまったために、多くの山車に被害が発生しました。

このような経過から神田祭りは、1892年から5月に変更されました。

 

 

大正時代に入ると山車が出されることはほとんどなくなり、

神社の神輿が渡御する「神輿渡御祭」へと変遷していきました。

渡御祭は、数日かけて氏子町々を隈なく渡御する祭りで、

長い日には1週間もの日数をかけて渡御が行われていましたが、

関東大震災・戦争などを経験して、

終戦後に神輿主体の連合渡御に代わっていきました。

 

平成に入り、諌鼓鶏の山車の復活、相馬野馬追騎馬武者行列の特別参加、

町田町火消行列、将門武者行列、一本柱万度型山車の特別参加、

船渡御の復活やKIXプロジェクト、

インターネットによる神幸祭の映像配信など様々な神振行事を行います。

また、本祭にあたらない陰祭の年にも、

平成16年より大神輿の渡御が恒例化し、賑やかに行われています。

 

 

現在の神田祭りでは、午前8時に鳳輦・神輿行列が出発し、

途中で加わる附祭を合わせて約300m、

約2000名もの祭礼行列が、神田、日本橋、大手、丸の内、

秋葉原の神田神社の氏子108か町大小合わせて約200基余の山車や神輿が、

約30kmの道程を一日がかりで巡行します。

さらに翌日には、終日、各氏子町会の神輿が自分たちの町々を渡御し、

そのうち約100基の神輿が神田神社へ宮入りするという、

東京屈指の名物祭礼に発展しています。

 

【交通アクセス】

電車:中央線・総武線「御茶の水」駅(聖橋口)より徒歩5分。

   京浜東北線・山手線「秋葉原」駅(電気街口)より徒歩7分。

   東京メトロ丸ノ内線「御茶の水」駅(聖橋口)より徒歩5分。

   東京メトロ千代田線「新御茶の水」駅(聖橋口)より徒歩5分。

   東京メトロ銀座線「末広町」駅より徒歩5分。

   東京メトロ日比谷線「秋葉原」駅より徒歩7分。

バス:茶51駒込駅南口←→御茶の水線「神田明神」バス停下車、徒歩1分。

車 :首都高速都心環状線「神田橋」出入口

   首都高速1号上野線「上野」出入口

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?