一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。
故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?
ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、
外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。
これを世の人は「奇祭」と呼びます。
奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。
これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」
「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、
奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。
よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り
(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、
ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、
開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。
これから数回に渡って奇祭を特集していきます。
その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、
祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。
特に言う必要はないと思いますが、
以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、
れっきとした郷土芸能であり、
日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。
今回は、奈良県明日香村のおんだ祭です。
おんだ祭(飛鳥坐神社:奈良県高市郡明日香村)
明日香村の甘樫丘豊浦展望台から足下の飛鳥の集落を見下ろすと、
集落の中を一直線に西から東に貫く道路が見えます。
その突き当たりに、こんもりと樹木の生い茂った小山があります。
飛鳥の甘南備とされている鳥形山です。
天下に奇祭「おんだ祭」で知られる飛鳥坐神社は、この鳥形山に鎮座しています。
由緒書きによれば、神社の起源は神話の時代までさかのぼります。
大国主神が国土を天孫に譲った際、
天孫の守護神としてわが子の事代主神と妹の飛鳥神奈備三日女神の神霊を
飛鳥の甘南備に鎮座させたといいます。
「延喜式神名帳」は飛鳥坐神社を事代主神、飛鳥神奈備三日女神、
大物主神、および高皇産霊神の四柱を祀る古社としています。
史書における飛鳥坐神社の初見は、朱鳥元年(686)7月5日です。
天武天皇の病気平癒の祈願のため、
この日紀伊国の懸神社と摂津の住吉大社とともに
飛鳥の四社(飛鳥神社)に弊帛を奉ったと記されています。
平安時代の「日本紀略」には、
天長6年(829)に飛鳥社を高市郡賀美郷の甘南備山から
同郡同郷の鳥形山に遷座するよう神託があり、
この時に現在地に遷座したといわれています。
江戸初期の寛永17年(1640)に初代高取藩主となった植村家政は、
高取城の鬼門にあたる飛鳥坐神社を深く信仰し、
元禄11年(1698)には社殿を改築し大規模な遷座祭を行いましたが、
享保10年(1725)に里からの火災で社殿の大半を焼失してしまいました。
そのため、安永10年(1781)に
高取藩8代藩主・植村家利によって社殿が再建されました。
平成13年に移築された本殿・拝殿
植村家利による再建から200年以上経過すると、
本殿・拝殿もかなり老朽化が進みました。
それで、平成13年(2001)4月、吉野の丹生川上神社上社が
大滝ダムの建設に伴い遷座することになったのを機に、
同社の本殿・拝殿を譲り受けて当地に移築し再建しました。
飛鳥坐神社の名を有名にしているものに、
毎年2月の第1日曜日に神楽殿で行われる例祭「おんだ祭」です。
正式には春の初めにあたって五穀豊穣・子孫繁栄を祈る御田植神事のことです。
三河の「てんてこ祭」、尾張の「田県祭」、
大和江包の「網かけ祭」とともに西日本における四大性神事に数えられますが、
一番露骨なのはこの「おんだ祭」で、日本一の奇祭とまでいわれています。
「おんだ祭」は2部構成です。
第1部では、五穀豊穣を願い、御田植神事が執り行われます。
第2部では、天狗とお多福による夫婦和合の儀式で、
閨中秘事を一切無言のままリアルに、そして古俗味豊かに展開していきます。
神社に記録も文献も残っていないため、
この祭事はいつ頃、誰によって始められたのか全く分からないそうです。
ただ、慣例として飛鳥の農民が遠い昔から継承してきた行事です。
この日、配られる苗松、福の紙の授与を受けるために、
日本各地から大勢の参拝者が押し寄せるそうです。
正午前から始まった天狗と翁による尻たたき
屋台が並ぶ門前の賑わい
午前11時頃、鳥居前の参道脇にどこの祭礼でも見かける屋台が並んでいて、
「おんだ祭」目当てに参集してくる参拝者で賑わいを見せます。
その参拝者の間を時おり子供たちが奇声を発して逃げ回っています。
子供たちを追いかけているのは、天狗と翁の面をかぶった村の若者です。
2人はササラになった青竹を振り回して、子供たちを追いかけて尻を叩きます。
女性にはある程度やさしく
天狗と翁の尻の叩き方には差があり、青年男子の尻は思いっきりひっぱたくが、
女性の場合は手加減し、子供や幼児は触る程度に行います。
なぜこのようなことをするのかよく分かっていないのですが、
今では一種の厄払いか魔除けと見られているようで、
この騒ぎが大きいほど、その年は豊年に恵まれると言われています。
剣技の奉納
(図:おんだ祭9)剣技を奉納する3人の剣士
午後1時、3人の剣士による剣技が奉納されました。
一人ずつ数種類の型の披露が行われました。
第1部:五穀豊穣を願い、御田植神事
午後2時、一番太鼓とともに祭事が開始されます。
神職による祓いが行われ宮司が一拝した後、
中央に祭壇が設けられて、神饌すなわち供物が並べられます。
宮司が祝詞を奏上し、来賓が玉串を捧げ、いよいよ御田植神事の始まりです。
御田植神事は、
さきほど青竹を持って子供を追いかけていた天狗と翁の面を付けた農夫に、
黒牛のぬいぐるみをかぶった牛男が加わって演じられます。
まず、天狗が牛の手綱をもって田を鋤く格好をし、
牛男はおとなしく四つん這いに這い回っているわけではなく、
時には、舞台から群衆の中に飛び出して暴れたりします。
畔切り
その後に農夫の翁が畔切りをして、田に水を引き入れます。
天狗は鋤き具を取り替えて再び牛の手綱を引いて田均しを始めます。
しかし、牛はなかなか天狗の思い通りに働いてくれず、
その所作が参拝者の笑いを誘います。
最後に農夫が畝作りをすると、
宮司が初種を床の上に撒いて「種蒔き」の所作を演じます。
次いで、松の小枝を苗に見立てて早苗を植える「植つけ」の仕草をします。
3人の演者がそれを参拝者の頭上に投げつけます。
この苗松を田の水口に突き刺しておくと農作物に虫がつかないと言われています。
第2部が始まる前に、神楽殿の西にある西良殿から
巫女が1人しずしずと舞台に現れ、「浦安の舞」を優雅に舞います。
浦安の舞
第2部:天下の奇祭「おんだ祭」の夫婦和合の儀
二番太鼓を合図に第2部の演技が始まります。
舞台に上がった演技者の内、
ちょんまげかつらに印袢天姿の天狗が突然舞台の中央に立つと、
一尺くらいの竹筒を股にあてがい両手で握りながらぐるぐる回します。
それが勃起した巨大な男根を想像させ、参拝者の笑いを誘います。
やがて、黒紋付に赤い蹴出しもなまめかしいお多福と
天狗は宮司と神職の前に山盛りに盛った飯の膳を差し出します。
これを「鼻つきめし」といいます。
今ではすっかり廃れてしまいましたが、
「鼻つきめし」は古い婚礼の形態だったようです。
天狗は盛られた飯に、股間に挟んだ竹筒から酒を注ぐ仕草をします。
畏まって端座する神官たちの鼻先で行われる
この「汁かけ」の珍妙な動作も参拝者の笑いを誘います。
お多福に挑む天狗
次いで、舞台の中央にゴザが敷かれ、天狗がゴザの上に座ると、
お多福に横になるように誘います。
お多福はモジモジしてなかなか応じません。
しばらくすると、観念したお多福が仰向けになります。
天狗は素早くその上に正常位で乗りかかります。
二人は肩から腰をしっかりと抱いて結び合います。
介添えの翁は岡焼き半分で冷やかし、
舞台の前面にたって二人の姿を参拝者から隠すように愉快な仕草をします。
翁が岡焼き半分で夫婦和合の姿を隠す
遂には、翁は天狗の後ろに回って腰を押し「種付け」に協力します。
事が終わって天狗とお多福はやおら立ち上がると、
懐中から紙を取り出して股間を拭きます。
この紙を「ふくの紙」といいます。
翁がその紙を参拝者に向かって撒きます。
首尾よく「ふくの紙」を手に入れたものは、
家に持ち帰って閨房で使用すると子宝が授かると言い伝えられています。
「ふくの紙」を増やすためか天狗が再びお多福に挑んで、
それを参拝者にばらまくのかと思ったら、
その「ふくの紙」は来賓者に配られていました。
その後は、宮司が「おんだ祭」の終了を告げ、
来賓が舞台から豆まきのように御供を撒いてお開きとなります。
御供撒き
【交通アクセス】
電車:近鉄「橿原神宮前」駅より奈良交通岡寺前行きバス「飛鳥大仏前」下車。
いかがでしたか。
祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。
長年にわたって受け継がれてきた祭りには、
理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。
たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?