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日本の100名城!~沖縄地方1~

2012年10月15日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回から、沖縄地方(98番~99番)です。

 

 

98番 今帰仁城

 

 今帰仁城

 

今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう)は、

14世紀に琉球王国三山時代の三山の一つ・北山王の居城だったところです。

別名を北山城とも呼びます。

 

城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多量に出土し往時の繁栄が伺えます。

北山は尚巴志に1416年に滅ぼされますが、

北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、

北山監守が派遣されました。

1609年の薩摩藩による琉球侵攻の際には、その攻撃の第一目標となりました。

 

現在も石垣などの遺構の整備が進み、

今帰仁城跡として1972年5月15日に国の史跡に指定されています。

門から城の中心部へと向かう階段の左右にはカンヒザクラの並木があり、

毎年1月末~2月始めに開花します。

本部町の八重岳などと並び、沖縄県の桜の名所として知られています。

城内には志慶真乙樽歌碑や山北今帰仁城監守来歴碑記などの碑もあります。

 

2000年11月に首里城跡などとともに、

琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産に登録されました。

 

[所在地]

沖縄県国頭郡今帰仁村

[交通アクセス]

空路:那覇空港から車で那覇ICより高速道路にのり、許田ICで降り、

   国道58号線を経由して約1時間40分。

バス:高速バスまたは20番系統(名護西線)で名護バスターミナルまで。

   バスターミナルで66番系統(本部半島循環線今帰仁廻)で今帰仁へ、

   下車徒歩約15分。

 

 

99番 中城城

 

 中城城

 

中城城(なかぐすくじょう)は、15世紀の琉球王国・尚泰久王代、

護佐丸のグスクとして知られています。

城壁の増築により現在見られる規模になったと考えられますが、

築城の時期は不明です。

 

中城城は当時貿易港であった屋宜港から2㎞ほど離れた

標高約160mの丘陵上にあり、

中城村の北西から北中城村の南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、

グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られています。

石垣の上に立つと西に東シナ海、東に中城湾、

さらには洋上の島々まで見渡せます。

 

[所在地]

沖縄県中頭郡北中城村・中城村

[交通アクセス]

空路:那覇バスターミナルより

バス:30番・泡瀬東線/58番・馬天琉大泡瀬線(東陽バス)、

   52番・与勝線(沖縄バス)で「中城小学校」バス停下車徒歩約30分、

   「久場崎」バス停下車徒歩約30分、「安谷屋」バス停下車徒歩約10分。

 

10月に入って急に涼しくなりましたね。

また、台風の時期とはいえ太平洋上の何処かに必ず発生しています。

その影響かはっきりしない日が続いています。

以前の10月といえば雨が少なく晴れる日が多いことから、

学校関係では運動会が花盛りの季節でした。

最近では稲刈りの時期が早くなったり、

運動会を行う季節が秋でなくなったり、

温暖化でなかなか紅葉にならなかったりして季節感が薄れているようです。

食べ物にしても何を食べるかによって季節を感じていたところがあったのですが、

養殖や温室栽培で季節感が麻痺している感があります。

都会に、いえ今は田舎でも自然への依存度は減ってきています。

その季節しか味わえない風物や味覚を堪能するために

本当の自然を求めて出かけてみませんか。

きっと素晴らしい発見が待っているはずです。


日本の100名城!~九州地方4~

2012年10月01日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回も、九州地方(95番~97番)です。

 

 

95番 岡城

 

 岡城

 

岡城は、竹田市の天神山に築かれた平城で、

別名、臥牛城・豊後竹田城とも呼ばれます。

 

岡城が築かれた天神山は標高325m、比高95m、城域は東西2500m、

南北362m、総面積は23万4千平方メートルに及びました。

 

伝承では、文治元年に緒方惟義が

源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが初めであるといいます。

その山城は、南北朝時代の建武元年に

後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、

岡城と名付けられたとされています。

「豊後国志」によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年以降のことで、

岡城に入る前は直入郡にあった木牟礼城を居城としていたそうです。

 

天正14年、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、

薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、

岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、

親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けています。

 

豊臣秀吉の時代の文禄2年、

文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、

大友氏重臣の親次も岡城を去ることになりました。

翌、文禄3年、播磨国三木から中川秀成が移封され、

入城後に3年がかりで大規模な修築を施しました。

 

城は、中川秀成により縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、

石垣普請に山岸金右衛門などが携わり改修されました。

志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、

城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けました。

本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった

下原門に加えて近戸門開き大手門を東向きの下原門から

現在見られる西向きの位置に改め、3口としました。

また、城下町は志賀氏時代の狭田に加えて西方に竹田町が整備されました。

2代久盛の代には清水門が整備され、

3代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営しています。

岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、家事などの被害を多く受け、

特に8代中川久貞の明和年間には城内の大半を焼く大火が起きています。

 

明治維新後、廃城令によって廃城とされ、

明治4年から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、

現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみです。

 

[所在地]

大分県竹田市大字竹田岡

[交通アクセス]

鉄道:JR日豊本線「豊後竹田」駅より

   竹田交通バス「大久保経由緒方・三重行き」で約4分、

   「岡城入口」下車、徒歩約10分。

車 :大分道「大分光吉IC」より約40㎞、約1時間。

 

 

96番 飫肥城

 

 飫肥城

 

飫肥城は、伊東氏飫肥藩の藩庁だったところで、

飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城です。

 

【沿革・戦国時代】

飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした

土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、

飫肥院とも呼ばれていました。

時代は下って、室町時代末期の長禄2年、九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、

鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、

志布志城主で島津氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させました。

 

戦国初期は薩摩国の戦国大名島津氏の居城で、はjめ新納氏が治めていました。

1484年に日向中北部を支配する伊東氏が飫肥に侵攻し、

当時の当主である伊東祐国が戦死すると、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、

領土の割譲と戦の原因になった飫肥城主の交代によって急場を凌ぎました。

 

しかし、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、

その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなりました。

1597年、念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐は、

子の祐兵に飫肥の地を与えました。

ところが、1572年に伊東氏が木崎原の戦いで没落すると、

日向国全土を島津氏が治めるところとなり、

飫肥も再び島津氏の支配に復帰しました。

 

伊東氏の没落によって両氏の争いに終止符が打たれたかに思われましたが、

飫肥を失った伊東祐が羽柴秀吉に仕え、九州征伐に参加した功により、

再び飫肥の地を与えられることとなりました。

江戸期、伊東氏は豊臣系の外様大名という微妙な地位ながらも

飫肥の地で家名を全うしましたが、

ひとえに関ヶ原の合戦で東軍側にたった数少ない九州大名だったことが

物をいったのだと思われます。

 

祐国が飫肥に侵攻した1484年から祐兵が豊臣大名として

飫肥城主となった1587年までは103年の長きに及びます。

これだけの長期間に渡って伊東・島津氏という2つの勢力が一貫して

1つの城を巡って争い続けた例は、

日本の戦史において希有な例と言えるでしょう。

 

【沿革・現代】

近年では1978年に大手門が復元されましたが、

本丸跡には日南市立飫肥小学校が建てられています。

 

[所在地]

宮崎県日南市飫肥

[交通アクセス]

鉄道:JR日南線「飫肥」駅からバスで「飫肥城下」下車。

車 :宮崎道「田野IC」から県道28号経由県道430号で。

 

 

97番 鹿児島城

 

 鹿児島城

 

鹿児島城は、鹿児島では一般的に古くから「鶴丸城」と呼ばれています。

「鶴丸」の呼び名の語源は島津家の家紋が「鶴丸の紋」であったことによります。

 

江戸時代初期に島津氏によって築かれた、

上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城です。

 

城山は、南北朝時代には「上之山城」および「上山城」という

上山氏の居城でしたが、後に島津氏に明け渡され、上山氏は桜島に移っています。

その後、島津氏は城山の東麓に屋形を築いて居城しました。

麓の屋形には石垣が築かれましたが、

公称「77万石」の大名の城としては天守など高層建築や高石垣などは築かれず、

明治時代に城跡を訪れた本富安四郎は著書「薩摩見聞記」で

「不思議」と評しています。

これには江戸幕府に対する恭順の意味があったとされています。

その代わりに、島津氏は中世式の山城を各地に残し、

113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていたとされています。

 

本城である鹿児島城は北に本丸、南に二の丸が位置していましたが、

単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城でした。

そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていました。

初代の城代として島津歳久の孫の常久が任命されて居住していましたが。

常久が早生した後は次の城代は任命されず、

城山自体が聖域として立入禁止区域となりました。

 

明治6年には「御楼門」という大手口の櫓門と1重2階の兵具所多聞櫓、

角櫓、書院造の御殿などがありました。

御楼門と兵具所多聞櫓、角櫓の様子については

明治初期の撮影された写真が現存しています。

 

[所在地]

鹿児島県鹿児島市城山町

[交通アクセス]

鉄道:JR日豊本線「鹿児島」駅から徒歩約12分。

バス:「鹿児島」駅からバスで「市役所前」下車、徒歩約5分。

車 :九州道「鹿児島北IC」から国道3号で。

 

昨日は台風が日本を縦断し荒れた1日でした。

被災されt方や避難を余儀なくされた方には大変な日でした。

10月といえば日本に台風が接近する季節です。

まだ暫くの間は天気予報を注意しなければならないようです。

ですが、10月は1年中で5月に次いで行楽のシーズンでもあります。

気温は穏やかで晴れる日が多いこの時期は、

郊外に出かけるには絶好の季節です。

寒くなって家に閉じこもる前に思い切って出かけましょう。

また、そろそろ紅葉も見ごろになってきます。

食べ物も豊富に取れるこの時期に出かけないのは人生の損失ですよ。