一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。
故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?
ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、
外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。
これを世の人は「奇祭」と呼びます。
奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。
これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」
「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、
奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。
よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り
(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、
ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、
開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。
これから数回に渡って奇祭を特集していきます。
その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、
祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。
特に言う必要はないと思いますが、
以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、
れっきとした郷土芸能であり、
日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。
今回は、愛媛県の新居浜太鼓祭りと青森県の田名部祭り、埼玉県の熊谷うちわ祭です。
新居浜太鼓祭り(愛媛県新居浜市)
四国三大祭りの一つに数えられる新居浜太鼓祭り。
その起源は古く平安時代あるいは鎌倉時代まで遡るともいわれています。
神輿の供奉する山車の一種で、
信仰を対象とした神輿渡御の際、その列に参加して厳かに供奉し、
豊年の秋を感謝して氏神に奉納していたものです。
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新居浜市内には現在総勢51台の太鼓台があります。
1台重さ約3トン、高さ5.5m、長さ12mという
巨大な山車である太鼓台の4本のかき棒には、最大150人余りの男衆がつき、
太鼓台から打ち鳴らされる腹に響く太鼓の音、
かき棒にまたがり太鼓台の運行を仕切る4人の指揮者の笛、
揃いの法被に身を包んだ男衆たちのかけ声によって市内を練り歩きます。
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太鼓祭り最大の見所である「かきくらべ」では、複数の太鼓台が1ヶ所に集まり、
練り歩く際に取り付けていたタイヤをはずし、かき夫の力だけで動かします。
男衆を鼓舞するように太鼓が早打ちされ、
太鼓に乗った指揮者の絶妙な指示で、太鼓台を肩に担ぎ上げ、
さらに「差し上げ」と呼ばれる両手を伸ばして持ち上げる様を競い合う、
まさしく男衆の力比べ、技比べです。
この男衆の祭りにかける情熱が観衆にも呼応し、人並みに押され、
祭りはまさに最高潮に達します。
「かきくらべ」は、祭り期間中、市内各所で繰り広げられています。
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ここで太鼓台の歴史をひも解いてみましょう。
太鼓台の起こりがいつであるかはっきり答えられる資料は、
現在のところ確認されていません。
地域の伝承によると、祭礼の時、
神輿に供奉する山車の一種で信仰を対象にした神輿渡御の際、
その列に参加して厳かに供奉し、豊年の秋を感謝して氏神に奉納していたもので、
その起源は平安時代、あるいは鎌倉時代まで遡るといわれています。
太鼓台が記録の上で出てくるのは、江戸後期ことで、
その頃は「神輿太鼓」と書かれることが多かったのですが、
時代を経るにつれて「太鼓台」あるいは
「太鼓」とされることが多くなってきました。
太鼓台の全国的な分布を見ると、瀬戸内海沿岸の港町、
漁師町、あるいは大きな川の輸送拠点に多く見られます。
これは、瀬戸内海の海上交通が古くから盛んで、
物資の流通、文化の交流が活発に行われたことによるものと考えられています。
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幕末から明治初期の太鼓台は、現在の子供太鼓台くらいの大きさしかなく、
飾り幕も薄めで天幕も現在のような膨らみはありませんでしたが、
別子銅山により産業が起こり、地域経済が発展するにつれて、
太鼓台を所有する地域同士の対抗意識の高まりもあり、
明治中期以降から急激に大型化し、
明治中期から昭和には現在と同じくらいの大きさになり、
飾り幕は縫いの発達とともに豪華に、
また天幕も膨らみを持ったものをつけるようになりました。
しかし、太鼓台の飾りが豪華になり、
大きさも巨大化するということは、その建設費用や、
また巨大な太鼓台を担ぐためのかき夫の力が多く必要になります。
新居浜太鼓台がこれらの問題を克服し、
数多くの改良を重ねて現在に至っていることは、
太鼓台が地域の「財力」と「腕力」の二方向から発展したといえるようです。
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現在では、瀬戸内沿岸にある数多い太鼓台の中でも、
150人余りの男衆で差し上げられ、澄んだ秋空に舞う新居浜太鼓台の姿は、
その豪華絢爛さ、勇壮華麗なことから「男祭り」の異名を持ち、
毎年約30万人の観衆を酔わせて止まない魅力ある祭りとして、
全国的にも知られるようになりました。
【交通アクセス】
電車:JR予讃線「新居浜」駅からせとうちバス住友病院前行きで約4分。
車 :松山自動車道「新居浜IC」から約3分、「いよ西条IC」より約10分。
田名部祭り(田名部神社:青森県むつ市田名部地区)
田名部祭りは、毎年8月18~20日に
青森県むつ市にある田名部神社で行われる例大祭で、
青森県の無形民俗文化財に指定されています。
その起源は定かではありませんが、
約380年以上の歴史を持つともいわれています。
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かつて田名部は、陸奥湾に停泊した北前船からの荷の積み降ろしが
田名部川を通して行われ、その水運で栄えた町でした。
田名部祭りもまた、山車の形態やお囃子に、北前船の近江商人から
祇園の影響を受けており、「北のみやび」と称されています。
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昼は神事として神楽を先導に格式高く威風堂々と、
夜は絵燈籠をともし華やかに、囃子のテンポも速いものへと一変します。
昼と夜、静と動、2つの違った様相を見られるところがこの祭りの魅力です。
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祭りは最終日20日の夜、
5台の山車が来年の再会を誓い合う「5車別れ」でクライマックスを迎えます。
5町内(藩政時代の町割)で管理されている5台の山車が十字路に集まり、
来年の再会を誓って酒を酌み交わします。
これを最後に熱気の中で幕を閉じる、地縁の結びつきを今に伝える祭りです。
【交通アクセス】
電車:JR大湊線「下北」駅より車で約10分。
JR大湊線「下北」駅よりJRバス「田名部」バス停下車、徒歩5分。
熊谷うちわ祭(愛宕八坂神社:埼玉県熊谷市)
熊谷うちわ祭は、7月20=22日、
埼玉県熊谷市街地にあるお祭り広場を中心に開催されます。
3日間で70万人以上の人が訪れ、
関東一の祇園祭と称されるほど賑やかなお祭りです。
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この祭りは、京都の八坂神社の祇園祭の流れを汲み、
勇壮な12台の山車・屋台がそれぞれのお囃子で祭りを盛り上げます。
特に21日と22日は国道17号が歩行者天国となり、
熊谷は勿論、埼玉近郊からたくさんの人出で賑わいます。
うちわ祭りは京都八坂神社の祇園祭が
夏祭りとして全国に広まったものの一つです。
平安時代「エキリ」と呼ばれる伝染病が流行したとき、
疫病退散の祈祷を行った祇園御霊会が祇園祭の起こりです。
熊谷には1592年頃、京都の八坂神社を勧請し、
その後愛宕神社に合祀されました。
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江戸時代には、町民から役人へ「夏祭りを各町内一斉に行うように」と
願い出され、それが許可されました。
この頃から現在のうちわ祭りのような形態が作られたと考えられます。
多くの祭りがそうであったように、熊谷の祭りは一層賑やかになり、
各家で赤飯を炊いて親戚に配ったり、商店では仕入れ客に振る舞っていました。
理由は厄除けには赤の色がいいということからだそうです。
いつの間にかそれが祭り見物客にも嗜好されるようになり
「熊谷の赤飯振る舞い」は祭りの名物になっていきました。
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ある年、泉屋横町にあった料亭「泉州」の五代目主人が、
当時生活必需品だった渋うちわを配るようにしました。
渋うちわといっても日本橋の老舗「伊場仙」製ということもあり、
これが評判を呼びました。
その後、各商店でも買い物客、
取引商人に赤飯の代わりに渋うちわを出すようになり
「買い物は熊谷のうちわ祭の日」と言われるようになりました。
事実、3銭の買い物に5銭のうちわを振る舞ったのが由来だと言われています。
【交通アクセス】
電車:JR高崎線、上越新幹線あるいは秩父鉄道「熊谷」駅北口より徒歩約5分。
車 :関越自動車道「花園IC」より約20分。
いかがでしたか。
祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。
長年にわたって受け継がれてきた祭りには、
理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。
たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?