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日本の100名城!~関東地方3~

2011年07月18日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

関東地方(14番~23番)

 

21番 江戸城

 

 江戸城

 

江戸城は、武蔵国豊嶋郡江戸にあった城です。

千代田城とも呼ばれました。

現在は皇居として利用され、

本丸・二の丸・三の丸部分は皇居東御苑として解放されています。

 

江戸城は、現在の隅田川河口付近にあった麹町台地の西端に、

扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城です。

近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、

総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になりました。

 

徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、

江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となりました。

明治維新後の東京奠都で宮城・皇居となりました。

以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西の丸が宮殿の敷地となっています。

その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二の丸と三の丸の跡は

皇居東御苑として解放されています。

南側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時解放され、

それらの外側は一般に利用できる土地になっています。

 

[所在地]

東京都千代田区千代田

 

[交通アクセス](皇居東外苑)

鉄道:JR「東京」駅および地下鉄千代田戦「大手町」駅から徒歩約5分。

 

22番 八王子城

 

 八王子城

 

北条氏の本城、小田原城の支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点でした。

延喜13年に華厳菩薩妙行が山頂で修行中に

牛頭天王と8人の王子が現れた因縁で延喜16年、

この城の山頂に八王子観音を祀ったことから、八王子城と名付けられました。

 

八王子城は標高445mの深沢山に築城されており、典型的な中世山城です。

 

縄張りは、北浅川・南浅川に囲まれた東西約3㎞・南北約2~3㎞の

広大な範囲に及び、山の尾根や谷など複雑な地形を利用し、

いくつかの地区に分けられていました。

地区は、山頂に置かれた本丸、

松木・小宮曲輪など何段もの曲輪を配置した要害地区、

城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ館を構えて

その東側にアシダ曲輪で防衛している居館地区、

城山川に沿った麓に城下町を形成した根小屋地区、

などでこうせいされていました。

 

周辺にはいくつもの砦を配し、それらを結ぶ連絡道の要所には、深い堀切や堅堀、

兵舎を建てるための曲輪などが造成されていました。

特に、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は、5つの深い堀切で仕切られ、

南側を石垣で固めるなど、容易に尾根を越えられない構造になっていました。

城全体が余りに広大であったため、

落城時には未完成であったという説もあります。

 

城下町には、武家屋敷のある中宿、刀剣鍛冶職人の居住区である鍛冶屋村に加え、

滝山城下から移転した商業地区の八日市・横山・八幡三宿がありました。

また出城には、搦手の防衛線を形成する浄福寺城、

小田野城の他、初沢城などがありました。

 

なお、八王子市文化財課が管理する現在の「八王子城跡」としての範囲には、

太鼓曲輪尾根の南斜面を含む南部のエリアなどが含まれておらず、

各所に霊園や私有地も入り組んでいるため、

史跡としてはじっさいよりかなり狭い範囲に限定されています。

このため、住宅地の側にも多くの遺構を確認することができます。

 

[所在地]

東京都八王子市元八王子町・下恩方町・西寺方町

 

[交通アクセス](皇居東外苑)

鉄道:JR中央線「高尾」駅北口1番バス停より、

西東京バス「高尾の森わくわくビレッジ」「宝生寺団地」「恩方車庫」

「大久保」「陣馬高原下」「グリーンタウン高尾」「美山町」行きで、

バス停「霊園前」下車、徒歩約15分。

 

23番 小田原城

 

 小田原城

 

小田原城は神奈川県小田原市にあった、

戦国時代から江戸時代にかけての平山城で、

江戸時代には小田原藩の藩庁がありました。

 

北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、

後背にあたる八幡山を詰の城としていました。

大森氏も、そうであったと推測されています。

3代当主北条氏康の時代には、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えたと言われます。

 

北条時代においては外郭は総延長9㎞に及びました。

1614年、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させました。

地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを

警戒していたという説もあります。

 

現在の小田原城址の主要部分は、大久保氏時代に造営されたものです。

佐倉城や川越城などのように、土塁の城の多い関東地方において

主要部のすべてに石垣を用いた総石垣造りの城ですが、

現在のような総石垣の城になったのは1632年に始められた大改修後のことです。

2代藩主大久保忠隣の時代、政争に敗れ改易の憂き目にあっています。

一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城に考えもあったといわれますが、

実現はしませんでした。

 

その後、城代が置かれた時期もありましたが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、

そして再興された大久保氏が再び入封されました。

小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場でした。

 

なお、小田原藩大久保氏の大名となった支藩には荻野山中藩があります。

 

小田原城は、江戸時代を通して1633年と1703年の2度も大地震に遭い、

なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの

甚大な被害を受けています。

天守が再建されたのは1706年で、

この再建天守は明治に解体されるまで存続していました。

 

[所在地]

神奈川県小田原市城内6−1

 

[交通アクセス](皇居東外苑)

鉄道:JR線・小田急小田原線「小田原」駅から徒歩約10分。

 

梅雨の鬱陶しい日が続きますが、

雨によって埃が抑えられ、梅雨の合間の晴れた日は清々しいものです。

そんな時、目的を持って出かけられることは大いなる楽しみになります。

全国に散在する名城旧跡を訪ねてみるのも一興かと思います。


日本の100名城!~関東地方2~

2011年07月08日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

関東地方(14番~23番)

 

18番 鉢形城

 

 鉢形城

 

鉢形城は戦国時代の城跡です。

現在は国の史跡に指定され、鉢形城公園として整備されています。

園内には鉢形城歴史館が建てられ、往時の鉢形城の姿を紹介しています。

 

鉢形城は、

深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、

その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、

外曲輪、三の曲輪の三つの郭を配し、

両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪、本曲輪、

笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっています。

搦手、本丸、二の丸、三の丸および諏訪曲輪には塹壕を伴い、

また北西側の荒川沿岸は断崖に面しています。

 

初めて鉢形城を築城したのは

関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられています。

その後、小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、

後北条氏の上野国支配の拠点となりました。

その後、下野国遠征の足がかりともなったが、

その滅亡とともに廃城となりました。

 

関東地方に所在する戦国時代の城郭としては

比較的きれいに残された城のひとつといわれ、

1932年、国の史跡に指定されました。

1984年からは寄居町による保存事業が開始され、

現在は鉢形城として整備され、鉢形城歴史館が設置されています。

 

[所在地]

埼玉県大里郡寄居町鉢形2496−2

 

[交通アクセス]

鉄道・バス:JR八高線・秩父鉄道線・東武東上線「寄居」駅下車、徒歩約25分。

   東秩父村営バス「和紙の里」行き「鉢形城歴史館前」下車、徒歩約5分。

自動車:関越自動車道花園ICから国道140号バイパスで秩父・長瀞方面へ約6㎞

 

19番 川越城

 

 川越城

 

川越城は埼玉県川越市にある城跡です。

江戸時代には川越藩の藩庁が置かれました。

別名、初雁城。

関東七名城の一つです。

通常、川越城の名称を表記する場合、

中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多いようです。

 

武蔵野台地の北東端に位置する平山城です。

1848年に建てられた本丸御殿の一部が現存しています。

二の丸跡は川越市立博物館・川越市立美術館となっています。

三の丸跡地である埼玉県立川越高等学校の近くに小高い富士見櫓跡があり、

御嶽神社と浅間神社が建っています。

川越城には天守閣はなく、宇都宮城・清明台櫓と同様に

城の中で一番高いところにあった富士見櫓が天守閣の代わりをしていました。

富士見櫓は三層と考えられてきましたが、

近年発見された詳細な図面から二層の可能性もあるようです。

藩政時代には、松平信綱や柳沢吉保など幕府の要職についた歴代藩主が多く、

特に江戸時代中期までは「老中の居城」となっていました。

 

[所在地]

埼玉県川越市郭町2−13−1

 

[交通アクセス]

鉄道:東武伊勢崎線・JR川越線「川越」駅東口、

   および西武新宿線「本川越」駅から

   東武バス「上尾西口」「埼玉医大」「川越運動公園」行きで約10分、

   「市役所前」下車、徒歩約5分。

   または、「川越」駅西口からイーグルバス「小江戸巡回バス」で約15分、

   「本丸御殿」下車。

 

20番 佐倉城

 

 佐倉城

 

佐倉城は、千葉県佐倉市にあった近世の城郭です。

佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲み込むように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていました。戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始しましたが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはありませんでした。しかし、いつしか築城予定地には鹿島親胤にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったといいます。

 

1610年に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、

ついに佐倉城が完成しました。

江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれました。

城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封してからは、安定した藩の経営を行っています。

 

城郭は比較的質素で石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓を天守の代用としています。このようなケースは関東地方を領した、要衝を預かる城郭を除き、川越城や古河城などの譜代各藩の城に見られました。

 

しかし明治維新後に廃城令により建物を撤去、その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊の駐屯地になったため、更に佐倉城の名残りは消し去られてしまいました。1962年に市の史跡に指定され、現在は跡地に佐倉城址公園が建てられています。

 

[所在地]

千葉県佐倉市城内町官有無番地

 

[交通アクセス]

鉄道:JR総武本線「佐倉」駅北口より徒歩約25分(駅からバスあり)

   京成電鉄京成本線「京成佐倉」駅南口より徒歩約20分(駅からバスあり)

車 :東京方面より

   東関東自動車道・四街道ICより

   国立歴史民俗博物館の案内標識に従って約8㎞。

   成田方面より

   東関東自動車道・佐倉ICより国道51号を成田方へ

   国道296号を船橋方面へ国立歴史民俗博物館の案内標識に従って約8㎞。

駐車場:佐倉城址公園駐車場あり(無料)

 

梅雨明け宣言がなされていないとはいえ、真夏のような日が続いています。

熱中症の被害にあわれている方もすでに出ています。

炎天下に出る時は熱中症対策を忘れずに出かけましょう。