一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。
故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?
ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、
外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。
これを世の人は「奇祭」と呼びます。
奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。
これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」
「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、
奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。
よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り
(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、
ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、
開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。
これから数回に渡って奇祭を特集していきます。
その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、
祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。
特に言う必要はないと思いますが、
以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、
れっきとした郷土芸能であり、
日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。
今回は、岡山県岡山市の西大寺会陽です。
西大寺会陽(西大寺:岡山県岡山市東区)
裸祭りとして有名な西大寺会陽は、
岡山市にある西大寺観音院で毎年2月の第3土曜日の夜に行われます。
ふんどし一丁の男たち約9000人が
真夜中の12時に投下される2本の宝木をめぐって激しい争奪戦を繰り広げます。
500年を超えて今に伝わる西大寺の勇壮な裸の夜祭りです。
[西大寺]
西大寺は、金陵山と号し、
千手観音を本尊とする高野山真言宗所属の別格本山です。
寺の創建は、天平勝宝年間(749~757)、
周防国玖珂庄(山口県玖珂郡)の住人藤原皆足という女性が
大和長谷観音の霊験によって開基し、
777年(宝亀8年)安隆上人が長谷観音の霊夢により現在地に移したそうです。
寺地が備前第一の大河である吉井川の河口に位置して交通の要地でもあったので、
門前町が発達して座商人が各地から集まり、
西大寺は備前南部における信仰、交易、商業の中心地として栄えました。
しかし、戦国期に伽藍は2回炎上し、現在の本堂、三重塔、庫裏、
方丈、仁王門、牛玉殿、大師堂などの諸堂はいずれも近世の建物です。
正式の寺名は、金陵山西大寺観音院。
[会陽]
会陽とは、修正会結願行司の地域的名称です。
岡山県以外でも香川県善通寺市の善通寺会陽などがあるほか、
岡山県には岡山市・金山寺会陽、
西粟倉村・岩倉寺会陽など多くの会陽があります。
しかし、何といっても全国に名を知られているのが岡山市・西大寺会陽であり、
1959年(昭和34年)岡山県により重要無形民俗文化財に指定されています。
もともと西大寺会陽は、旧暦正月元旦から27日つまり
14日間続いた修正会結願の14日後の夜半に行われていましたが、
1962年(昭和37年)からは、
毎年新暦2月の第3土曜日に行われるようになりました。
深夜、西大寺観音院本堂大床に参集した大勢の裸群の頭上に
修正会のあいだ修せられた一対2本の宝木が投下され、
裸男たちがすさましい争奪戦を繰り広げる会陽は、
近年も死者を出した程荒っぽいものです。
以前は修正会結願の日の真夜中に御福窓から住職によって
牛玉(右から西大寺、牛玉、宝印と書かれた紙の護符)が投下されていました。
争奪戦が激化するにつれて、紙ではちぎれてしまうことから、
室町時代の1510年(永正7年)、
当時の住職であった忠阿上人が牛玉を木に巻き付けた宝木に代え、
今日の木札に至っています。
この時初めて会陽と名付けられたといいます。
[会陽ふんどし]
宝木争奪戦は誰でも参加できるので、
地元民だけでなく、全国からお祭り男がやってきます。
ふんどしなど必要な装具は当日現地で調達できます。
相撲まわしより柔らかく晒しよりは固めの
上まわしが5000円ほどで売られています。
晒木綿をふんどしにしている人もいます。
ふんどしは、全員並幅(約135㎝)のまま前垂れ式に締め、
横廻しを幾重にも巻いて解けないように工夫しています。
スクラムを組んで走る裸衆
鉢巻は頭の後ろで結びます。鉢巻をしていない人も多くいます。
白足袋は、テープを巻いて脱げようにしている人もいます。
それだけ激しい揉み合いがあります。
中にはふんどしが外れてしまう人もいるそうで、揉み合い中は回収できません。
[裸祭りの概要]
結願当日は、西大寺の旧町内を南北二つに分けて、
太鼓を打って時(午後9、10、11時)を知らせる触れ太鼓があります。
会陽に参加すべくふんどし姿になった人たちは、
「わっしょい、わっしょい」というかけ声とともに山門より境内に入り、
石門をくぐり、垢離取り場で身を清めた後、
一旦本堂に詣でて千手観音を拝して、牛玉所大権現に詣で、
本堂裏手を抜けて四本柱に至ります。
四本柱をくぐり抜けたあと本堂大床で本押しに入ります。
水垢離
身体が熱せられると垢離取り場に行き清水を浴び、
牛玉所・四本柱・大床コースをたどり再度押し合いに加わります。
御福窓の脇窓からは清水方が柄杓で水を撒きます。
現在は、テレビ放映や観光行事化されたため、
午前零時丁度に宝木投下が行われます。
時間に合わせて修正会結願の行法も終わり、
山主(住職)及び職衆(お坊さん)は御福窓と脇窓に立ちます。
投牛玉の投下
まず投牛玉(枝牛玉・串牛・投牛とも呼び、
柳の細い木片5~6本を一束にして小形の牛玉紙を巻き、
紙縒で結んでいます)が100束程投げられ、次に宝木が投げられます。
一対になった二本の宝木は護符である牛玉紙に巻かれて同時に投下されます。
投下の瞬間は全ての明かりが消され、宝木が投下されると、
その争奪戦は本堂大床から徐々に境内へと移り、
いくつかの渦と呼ばれるグループに分かれて揉み合いが繰り広げられます。
なお、近年は宝木争奪戦は寺の境内に限定し、
会陽奉賛会を通じないものは無効としています。
「宝木が抜けたもよう」というアナウンスがあるまで、
観音院では揉み合いが続いています。
2本目の宝木が何時抜けたのか分からず、
アナウンスが1回だけで終わったり、全くアナウンスがないときもあります。
宝木がもはや境内にないことが分かると、
揉み合っていた群衆は散り始め、裸祭りは終了します。
宝木は、取り主(拾い主:最後に宝木を得た者)によって境内を抜け、
宝木仮受所に指定されている西大寺商工会議所に持ち込まれると、
白米を盛った一升升で仮受けの後、
検分役の寺僧が宝木削り(宝木の原木から宝木を削る行事)のときに切り放した
本木と一升升の宝木の木理(木目のこと)が合致するかどうか判定します。
真正なものであれば、取り主は晴れて福男に認定されるとともに、
宝木は祝い主が用意した祝い込みの場所まで運ばれます。
(近年、祝い主は、会陽奉賛会により事前に決められます。)
寺から赴いた山主は、
宝木を朱塗りの丸形の厨子に納め、祈願して祝い主に渡します。
かくして宝木は祝い主のものとなります。
祝い主は45㎝×120㎝の白い額行灯(横長の額の形に似た行灯)に
御福頂戴と大書し、山主(住職)や取り主などを迎えてお祝いをします。
宝木は1年で御利益がなくなるわけではないが、
祝い主は毎年会陽の始まる前に宝木を寺に持ち込んで祈祷を受け、
新たな気持ちで年を迎えるといいます。
【交通アクセス】
電車:山陽新幹線「岡山」駅でJR赤穂線に乗り換えて
「西大寺」駅下車、徒歩約15分。
車 :山陽自動車「山陽IC」より一般道で約30分。
いかがでしたか。
祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。
長年にわたって受け継がれてきた祭りには、
理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。
たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?