日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える
設立40周年の記念事業の一環として、
2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、
歴史や建築の専門家などにより、
観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、
復元の正確性などを基準に審査の上選定、
2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。
ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。
今、巷でお城ブームが起こりつつあります。
そこで、今回から数回に渡って全国のお城をご紹介していきます。
今回は、
東北地方(4番~13番)の7番から9番までです。
7番 多賀城
多賀城
多賀城は、畿内の大和朝廷が蝦夷を制圧するため、
軍事的拠点として蝦夷との境界になっていた
松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置しました。
創建は724年(神亀元年)、按察使大野東人が築城したとされています。
8世紀始めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われました。
第1期は724~762年、第2期は762藤原恵美朝狩が改修してから
780年に伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、
第3期は780年砦麻呂の乱による焼失の復興から869年の大地震による倒壊まで、
第4期は869年~10世紀半ばで震災の復興から廃絶までに分けられます。
多賀城創建以前は、郡山遺跡が陸奥国府であったと推定されています。
陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ、政庁や寺院、
食料を貯蔵するための蔵などが置かれ、
城柵で囲み櫓で周囲を監視していたと考えられています。
多賀城が創建されると、国府が郡山遺跡から移され、
黒川以北十群(黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿)
に城柵・官衛とその付属寺院が設置・整備されました。
これらの設置・整備は律令制支配の強化を図るもので、
多賀城はそれらの拠点を後援する為の根拠地でした。
これにより当時の日本では、平城京を中心に南に太宰府、
北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城をおくこととなりました。
多賀城政庁に隣接し、陸奥国内100社を合祀する「陸奥総社宮」を奉じる、
陸奥国一ノ宮鹽竈神社を精神的支柱として、
松島湾・千賀ノ浦(塩竈湊)を国府津としました。
都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在します。
政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市が築かれ、
砂押川の河川交通と奥大道の陸上交通が交差する土地として長く栄えました。
建武新政期と南北朝時代初期、多賀城には陸奥将軍府がおかれました。
陸奥将軍府は多賀城の陥落後、将軍府の中心的武将、
伊達行朝の所領である伊達郡の霊山に移転しました。
[所在地]
宮城県多賀城市市川字城前
[交通アクセス]
鉄道:JR東北本線「国府多賀城」駅より政庁跡まで徒歩約10分。
駐車場(無料):
東門跡北側に約15台分。
政庁跡北東側に舗装約20台分。
政庁跡南側の南北道路階段下に約20台分。
多賀城南門跡および多賀城碑の近くに6台分。
最寄りのIC:
三陸自動車道・利府塩釜IC、または三陸自動車道仙台東部道路・仙台港北IC
8番 仙台城
仙台城
仙台城は、現在の宮城県仙台市青葉区の青葉山にある平山城です。
雅称は「青葉城」、「五城楼」との別名もあります。
慶長年間に伊達政宗が築城してから、廃藩置県・廃城令までの約270年間に渡り
伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁でした。
伊達政宗が築城した仙台城は約2万坪で、
徳川家康の江戸城に次ぐ大きさを誇り、全国最大級の城でした。
幾度となく、地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、
奥羽越列藩同盟盟主として戊辰戦争を経ましたが、
一度も戦火を見ることなく要塞としての機能を終え、
その後は明治初期から大正にかけてその大半が失われました。
数少ない遺構であった大手門、脇櫓、巽門は国宝に指定されていましたが、
太平洋戦争の時の仙台空襲により焼失しました。
現在では、宮城県知事公舍正門の建築に転用された寅の門の部材が残るのみです。
青葉山に位置することから、「青葉城」という雅称を持ち、
一般的にもその名で呼ばれることが多いようです。
これは仙台城ができてから生まれた地名で、
山と城のどちらが先に「青葉」の名を得たかは不明です。
青葉山は、仙台七崎の一つ「青葉ヶ崎」に由来するそうです。
[所在地]
宮城県仙台市青葉区川内1番地
[交通アクセス]
鉄道:JR東北本線・東北新幹線「仙台」駅下車。
西口バスプール9番より仙台市営バス(動物公園循環)で約25分
「仙台城跡南」下車、徒歩約5分。
西口バスプール15番3より仙台市営バス(るーぶる仙台)で約20分
「仙台城跡」下車、徒歩約3分。
本丸の有料駐車場:普通車150台、400円/時間、バイク100円/日
(午後6時以降は夜間無料)
9番 久保田城
久保田城
久保田城は、羽後国(旧出羽国)秋田郡久保田にあった城です。
久保田藩主佐竹氏の居城だったところです。
葛根城とも呼ばれます。
江戸時代の公式文書では「秋田城」と書かれることが多かったようですが、
古代に出羽国府が置かれた秋田城とは所在地共に別の城であり、
今日では「久保田城」の方が一般的です。
雄物川の支流仁別川左岸、程野村窪田にある神明山に築かれた平山城で、
石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており、
天守も持たず塁上に出し御書院と呼ばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、
8棟の櫓を建て並べていました。
石垣がないのは幕府に遠慮したためともいわれますが、
佐竹氏の旧領常陸国を含む東国では
もともと石垣を用いない建築法が一般的であったため、
石垣作りに精通した者がいなかったともされています。
(但し、後に江戸城の修築を命じられた時、石垣の普請も担当しています)
いずれにせよ山川沼沢を巧みに利用した防御を図っており、
水堀や円郭式城郭など西国の様式も取り入れられています。
1880年の大火で城内の建造物はほぼ焼失しており、
市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられ官庁街へと変貌しました。
現在、久保田城のあった一帯は千秋公園となり、
秋田県民会館や秋田市立中央図書館明徳館、
平野政吉美術館などが整備されています。
建造物としては、前述の大火を唯一逃れた御物頭御番所が現存し、
本丸新兵具隅櫓、本丸表門が再建されています。
[所在地]
秋田県秋田市千秋公園1−39
[交通アクセス]
鉄道:JR奥羽本線・秋田新幹線「秋田」駅から徒歩約10分。
これから暖かくなって出かける機会も多くなります。
そんな時、目的を持って出かけられることは大いなる楽しみになります。
全国に散在する名城旧跡を訪ねてみるのも一興かと思います。
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