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日本の100名城!~近畿地方1~

2012年02月20日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回からは、近畿地方(49番~51番)です。

 

49番 小谷城

 

 小谷城

 

小谷城は、日本五大山城に一つに数えられます。

標高495m小谷山から南の尾根筋に築かれ、

浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城です。

 

戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られましたが、

元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城しました。

その後、北近江の拠点は長浜城に移されたために廃城となりました。

現在は土塁・曲輪などのほか、

先駆的に取り入れられた石垣なども遺構として残っています。

 

[所在地]

滋賀県長浜市湖北町伊部

 

[交通アクセス]

鉄道:JR北陸本線「河毛」駅から湖北町タウンバス小谷山線「小谷城址口」下車

車 :北陸自動車道「長浜IC」から国道365号を通り伊部林道。

 

50番 彦根城

 

 彦根城

 

彦根城は、近世にあたる江戸時代に金龜町にある彦根山に、

鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城です。

山は「金龜山」との異名を持つため、城は金龜城とも呼ばれました。

多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城でした。

 

明治初期の廃城令に伴う破却を免れ国宝の天守、附櫓および多聞櫓のほか、

安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、

国の重要文化財に指定されています。

中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少です。

一説では、大隈重信の上奏により

1878年に建物が保存されることになったのだそうです。

 

日本で12箇所の安土桃山から江戸時代に建造された天守が現存する城郭の一つで、

その内、国宝に指定された現存天守のある国宝四城の一つに数えられています。

1992年に日本の世界遺産暫定リストにも記載されていますが、

世界遺産登録は厳しい状況にあります。

滋賀県下で唯一、城郭建築が保存されて城でもあります。

 

[所在地]

滋賀県彦根市金龜町1−1

 

[交通アクセス]

鉄道:JR東海道新幹線「米原」駅からJR東海道本線に連絡し

   「彦根」駅下車、徒歩約15分。

車 :名神高速「彦根IC」から約5分。

   北陸自動車道「米原IC」約20分。

   国道8号線・外町交差点を彦根市街方面へ、約5分。

 

51番 安土城

 

 安土城

 

安土城は、現在の安土山に建造され、

大型の天守を初めて持つなど威容を誇ったが、

1582年の家臣明智光秀の信長への謀反、

いわゆる本能寺の変後まもなくして何らかの原因によって焼失、

その後廃城となりました。

現在は石垣などの一部の遺構を残すのみですが、

当時実際に城を観覧している宣教師ルイス・フロイスなどの記録によって

その様子を伺い知ることができます。

 

安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、

ここで培われた築城建築が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて

相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となりました。

そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団、

いわゆる「穴太衆」はその後全国的に城の石垣普請に携わり、

石垣を使った城は全国に広がっていきました。

ただし、安土城に残る当時の石垣の積み方は場所により様々であり、

特定の「穴太積み」なる技法の存在を想定するのは難しいとされています。

 

建造当時は郭が琵琶湖に接していましたが、昭和に入って干拓が行われたため、

現在は湖岸からやや離れています。

安土山の全体に城郭遺構が分散していて、

当時の建築としては城山の中腹に所在する摠見寺の境内に

仁王門と三重塔が残っています。

また二の丸には信長の霊廟が置かれています。

滋賀県は1989年から20年計画で安土城の発掘調査を行っており、

南山麓から本丸へ続く大手道、

通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、

天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏の清涼殿を模った本丸御殿などの

当時の状況が明らかとなりつつあり、併せて石段・石垣が修復工事されています。

 

築城の目的は岐阜城より京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、

加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、

越前・加賀の一向一揆に備えるため、上杉謙信への警戒のためでもありました。

その規模、容姿は大田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武、

信長の天下統一事業を象徴する城郭であり、

山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、

家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされます。

 

[所在地]

滋賀県近江八幡市安土町下豊浦

 

[交通アクセス]

鉄道:JR東海道本線「安土」駅下車、徒歩約20分。

 

今年は例年に比べて梅の開花が遅れているそうです。

それでも春はもうそこまで来ています。

日本の遺跡や遺構のある場所には必ず桜や梅などの名所がつきものです。

花見も兼ねて全国に散在する名城旧跡を訪ねてみるのも一興かと思います。