日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える
設立40周年の記念事業の一環として、
2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、
歴史や建築の専門家などにより、
観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、
復元の正確性などを基準に審査の上選定、
2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。
ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。
今回も引き続き、甲信越地方(30番~32番)です。
30番 高遠城
高遠城
高遠城は、兜山城の別名を持つ桜の名所としても有名な城郭です。
高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継が居城としており、
甲斐国守護の武田氏と同盟関係にある諏訪氏当主の頼重とは反目していました。
頼継は1541年に甲斐守護武田信玄に内応して諏訪攻略を援護しています。
頼重は武田により滅ぼされますが、諏訪の領有を巡り武田と頼継は対立し、
1545年に武田勢は高遠城と藤沢頼親の福与城攻めを行い、伊那地方への進出拠点としました。
1555年、武田氏は続いて小笠原氏や知久氏を撃破し、木曾氏を制圧して信濃を平定しました。「甲陽軍鑑」によれば、高遠城は信濃への進出拠点として1547年に、伝説的軍師である山本勘助や秋山信友に命じて大規模な改築が行われたといいます。1556年には秋山信友が城主となり、坂西氏などを伊那衆としました。
1562年、晴信の庶子で諏訪氏の娘を毋とする四郎勝頼が諏訪氏を継承し、
同時に高遠城主となりました。
城主であった秋山は飯田城主となり、
「軍鑑」によれば入城に際して改築が行われ、
勝頼衆が預けられ親族衆に加えられたといいます。
勝頼は1570年に武田氏の正嫡であった義信が廃嫡される義信事件が起こると
後継的立場となり、信玄により本拠の躑躅ヶ崎館に呼び戻され、
高遠城主は信玄実弟の武田信兼となりました。
信玄後期から勝頼期にかけて武田氏は領国を接する織田・徳川氏と対立するようになり、高遠城は対織田・徳川勢力の重要な軍事拠点となりました。
武田氏は長篠の戦いにおける敗退を契機に領国の動揺を招き、
勝頼は1581年に領国維持のため韮崎への府中移転と同時に
異母弟の仁科盛信を高遠城主としました。
翌1582年、勝頼は内通した木曽氏攻めを行い、
仁科は大将として出陣し城代として小山田昌成が入っています。
同年2月に織田信長は本格的な武田攻めを開始し、
長男の織田信忠に5万の大軍を与えて高遠城に迫らせました。
高遠城に籠る守備兵の数は3千で、仁科は信忠の降伏勧告を退けて抗戦するが、
守備隊は玉砕、仁科自身も城を枕に討ち死に、城は落城しました。
高遠城の落城により織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻し、
武田氏は滅亡しました。
織田氏の支配のもと、高遠城攻めに功のあった毛利長秀が城主となりますが、
そのわずか3ヶ月後に本能寺の変が起こり、
高遠城には突如、武田家旧臣・木曾義昌が攻め込み、これを占領しました。
以後、徳川家康と木曾義昌の攻防の舞台となりますが、
結局、家康によって木曾義昌は高遠城を追われて深志城に撤退しました。
江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が後退しました。1691年に内藤清枚が3万3千石で入封し、
以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えました。
城の縄張りは中世の状態を踏襲していますが、本丸には御殿と天守代用として三層の辰巳櫓が上がり、主要な城門は枡形虎口形式の櫓門が建てられており、長大な長塀に囲まれた近世城郭でした。
[所在地]
長野県伊那市高遠町東高遠城跡
[交通アクセス]
鉄道:JR飯田線「伊那市」駅よりJRバスで約25分、
または中央本線「茅野」駅よりJRバスで約1時間、
「高遠」下車、徒歩約15分。
31番 新発田城
新発田城
新発田城は、別名菖蒲城と呼ばれ、新発田藩の藩庁が置かれていた城です。
新潟県内では唯一、江戸時代当時の城郭建築が現存する城跡です。
近くを流れる新発田川の流れを利用した平城でした。
石垣には石同士の接合部分を隙間なく加工して積み上げる工法である
切り込みハギが用いられています。
櫓の壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、海鼠壁が用いられていました。
その他の塀や一部の櫓門には、下見板が張られていました。
天守はなく、本丸の北西隅に3重櫓を上げて「三階櫓」と呼んでいました。
三階櫓は新発田城において実質的な天守でした。
1634年に創建されたものは、1668年の火災により焼失し、
現在復元されている姿のものは1679年に再建されたものです。
明治初期に撮影された写真によれば、続櫓を伴った複合式層塔型3重3階で、
1重目の西面と南面に切妻破風を持った石落しを兼ねる出張りがあり、
3重目屋根の棟は丁字型に造られ、棟上には3匹の鯱が載せられています。
明治7年に破却されました。
[所在地]
新潟県新発田市大手町6
[交通アクセス]
鉄道:JR羽越本線「新発田」駅から徒歩約20分。
32番 春日山城
春日山城
この城は、南北朝時代に越後国守護である上杉氏が
越後府中の館の詰め城として築城したのが始まりとされています。
1507年、守護代であった長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放し、
新守護として定実が府中に入ると、長尾氏が春日山城主となったのです。
上越市中部にある春日山山頂に築かれ、天然の要害を持つ難攻不落の城とされ、
為景、晴景、上杉謙信、上杉景勝の四代の居城となりました。
しかし、上杉景勝が会津へ移った後に越後を支配した堀氏は、
政治を取り仕切るに不便として、
1607年に直江津港近くに福島城を築城して移り、
春日山城はその役目を終えました。
別名を鉢ヶ峰城ともいいます。
「春日山」の名称は、奈良の春日大社から分霊勧請したことに由来します。
春日神社の創建年代は、958年説、守護上杉氏の築城の際とする説、
文明年間という説などがありはっきりしません。
また、近くにある林泉寺の惣門は、
春日山城の搦手門を移築したものであると言われていますが確証はありません。
しかし、最低でも慶長まではさかのぼるものであるとも言われ、
春日山城で最も古い建造物であることに間違いはないようです。
多くの絵図には石垣や天守閣などが描かれていますが、
ほとんど空想であり、石垣も瓦も発掘されていません。
それらをふまえ、厳密な時代考証に基づいた初の復元模型が完成し、
2009年開催の「越後上越天地人博」で展示されていました。
[所在地]
新潟県上越市中屋敷字春日山ほか
[交通アクセス]
鉄道:JR信越本線「春日山」駅下車、徒歩約30分。
JR信越本線・北陸本線「直江津」駅より頸城バスで約14分、
「林泉寺入口」下車、徒歩約20分。
車 :北陸自動車道上越ICより約15分。
だいぶん寒くなってきました。
早い所では山が赤く色づき始めています。
食べ物もこれからは山の幸が美味しい季節です。
遠くのは無理でも近くの自然に触れてみるには良い季節だと思います。
そんな時、目的を持って出かけられることは大いなる楽しみになります。
全国に散在する名城旧跡を訪ねてみるのも一興かと思います。