10倍楽しむ為の旅no心得

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より快適な旅を。

日本の100名城!~北陸地方2~

2011年10月31日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回も引き続き、北陸地方(35番~37番)です。

 

 

36番 丸岡城

 

 丸岡城

 

丸岡城は、福井平野丸岡市街地の東に位置する

小高い独立した丘陵に築かれた平山城です。

近世に、山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていました。

別名を霞ヶ城といい、この名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、

城を隠したという伝説によるものです。

 

天守が現存する日本国内12カ所の城郭の一つです。

城郭に現存する建築は天守のみで、国の重要文化財に指定されています。

その他、石垣が現存しています。

移築現存する建物として、小松市興善寺およびあわら市蓮正寺に、

それぞれ城門、丸岡町野中山王の民家に、不明門と伝わる城門があります。

ほかに土塀が現存します。

五角形の内堀は現在埋め立てられていますが、

この内堀を復元する計画が浮上しています。

 

[所在地]

福井県坂井市丸岡町霞町1−59

 

[交通アクセス]

鉄道:JR北陸本線「福井」駅から京福バス「本丸岡」行きで約40分、

   「丸岡城」下車すぐ。

車 :北陸自動車道丸岡ICから約2km。

 

 

37番 一乗谷城

 

 一乗谷城

 

福井市街の東南約10km、足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あいに

築かれた戦国時代の城下町と館跡および背後の山城が一乗谷朝倉氏遺跡です。

一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、

周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群でした。

また、三国湊に続く足羽川の水運や大野盆地に通じる美濃街道、

鹿俣峠を抜け越前府中へ続く街道などが通り交通の要衝でもありました。

さらに、一乗谷は北陸道より数キロメートル東寄りに位置するため、

朝倉街道が整備され北陸道と連絡しました。

 

一乗谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7kmの「城戸ノ内」に、

朝倉館をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が

計画的に整備された道路の両面に立ち並び、

日本有数の城下町の主要部を形成していました。

 

遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、

そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で

国の特別名勝の指定を受けています。

 

[所在地]

福井県福井市城戸ノ内町ほか

 

[交通アクセス]

鉄道:JR越美北線「一乗谷」駅から徒歩5分で下城戸、徒歩約30分で朝倉館跡。

   京福バス62東郷線「武家屋敷前」下車。

 

寒暖の差が日毎に激しくなってきました。

この寒暖の差が山の木々を色づかせるのです。

紅葉も今が真っ盛りです。

休日のはお弁当を持って出かけましょう。


日本の100名城!~北陸地方1~

2011年10月18日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回からは、北陸地方(33番~35番)です。

 

 

33番 富岡嬢

 

 富岡城

 

1605年、富山城に隠居した初代加賀藩主・前田利長は4年後の1609年、

富山城下の町人地から出火した火災の類焼により

城内の建築物の大半を焼失したため、利長は魚津城に移り、

大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に火災の報告と、関野に築城の許可を貰いました。

 

利長は築城の方針に伴うやめ、資材調達を小塚秀正ら、

現地奉行を神尾之直らに命じ、魚津城から築城の指揮を取り、

同時に城下町の造成も始めました。

縄張(設計)は当時の前田家の客将だった高山右近とされています。

同年、利長は「関野」を「高岡」と改め、未完成の高岡城に入城しました。

殿閣は先代利家が豊臣秀吉から賜った豊臣秀次失脚に伴い破却された

伏見城秀次郎の良材を使って建てられたとも伝えられています。

しかし、1614年に利長は死去し、隠居城として使われたのはごく短期間でした。

その翌年には一国一城令により、

大坂夏の陣からの利常凱旋を待って高岡城は廃城となったとされます。

ただし、廃城時期については1638年とする異説も存在しています。

 

しかしながら、廃城後も高岡町奉行所の管理下で、

加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、

軍事拠点としての機能は密かに維持されていました。

これは加賀藩の越中における東の拠点であった魚津城も同様だったそうです。

街道の付け替えの際には、濠塁がそのまま残る城址を街道から

見透かされるのを避ける為町屋を移転して目隠しにしたといわれます。

また、廃城後に利長の菩提を弔うために建立された瑞能寺や周辺に

堀を備える利長の墓所自体も高岡城の南方の防御拠点としての

機能を併せ持つものとして配備されたと考えられています。

なお、江戸時代の古図の中には城址を「古御城」の名称で

記しているものもあります。

 

城内におかれた米蔵などは1821年の高岡大火の際にほぼ全焼しましたが、

その後再建された明治に射水郡議事堂が再建されるまであったといわれます。

 

現在、城址は高岡古城公園として整備され、市民の憩いの場となっているほか、

桜の名所としても有名です。

 

[所在地]

富山県高岡市

 

[交通アクセス]

鉄道:JR北陸本線「高岡」駅より徒歩約10分。

   JR氷見線「越中中川」駅より徒歩約5分。

   JR北陸本線「高岡」駅から加越能鉄道バス「市民病院・職安前」行きで

   「大手町」下車、徒歩約2分。

 

 

34番 七尾城

 

 七尾城

 

七尾湾が一望できる、石動山系の北端の標高300mほどの尾根上にあり、

その尾根から枝分かれする幾筋もの大小の尾根にも

無数の砦を配した大規模な山城です。

「七尾」という名は「七つの尾根」から由来しているそうです。

別名として「松尾城」あるいは「末尾城」と記した資料も残っています。

これは城が七つの尾根のうち松尾に築かれたためです。

いずれも尾根づたいに配された曲輪を連想させます。

 

[所在地]

石川県七尾市古府町、古屋敷町、竹町

 

[交通アクセス]

鉄道:JR七尾線「七尾」駅から市内巡回バス「まりん号」東回りで約13分、

   「古屋敷町」下車、本丸まで徒歩約60分。

車 :国道159号線城山登山口交差点から石川県道177号城山線。

 

 

35番 金沢城

 

 金沢城

 

金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に

築かれた戦国時代から江戸時代にかけたの梯郭式の平山城です。

櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠壁と

屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目た塀に付けられた唐破風や

入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴です。

 

この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である「尾山御坊、

または御山御坊」でした。

寺とはいうものの大坂の石山本願寺と同じく

石垣を廻らした城とも呼べる要塞でもありました。

織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間氏を置いたのです。

後に佐久間氏が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により滅ぼされ、

秀吉は金沢城を前田利家に与えたのです。

利家は1592年から改修工事を始め、曲輪や塀の拡張、

5重の天守や櫓を建て並べました。

兼六園は、4代綱紀が金沢城に付属してつくらせた大名庭園です。

明治以降は、存城とされて軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、

第2次世界大戦後には金沢大学が1995年まで置かれていました。

 

[所在地]

石川県金沢市丸の内

 

[交通アクセス]

鉄道:JR北陸本線「金沢」駅から北鉄バスで約15分、

   「兼六園下」下車、徒歩約5分。

 

だんだん山の装いが賑やかになってきました。

巷では、食欲の秋、読書の秋などと言いますが、

旅行大好き人間にとっては誠に結構な季節となってきました。

お弁当を持ってハイキングがてら名城の訪れてみませんか?

他の季節にはない新しい発見があるかもしれません。


日本の100名城!~甲信越3~

2011年10月03日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回も引き続き、甲信越地方(30番~32番)です。

 

30番 高遠城

 

 高遠城

 

高遠城は、兜山城の別名を持つ桜の名所としても有名な城郭です。

 

高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継が居城としており、

甲斐国守護の武田氏と同盟関係にある諏訪氏当主の頼重とは反目していました。

頼継は1541年に甲斐守護武田信玄に内応して諏訪攻略を援護しています。

頼重は武田により滅ぼされますが、諏訪の領有を巡り武田と頼継は対立し、

1545年に武田勢は高遠城と藤沢頼親の福与城攻めを行い、伊那地方への進出拠点としました。

 

1555年、武田氏は続いて小笠原氏や知久氏を撃破し、木曾氏を制圧して信濃を平定しました。「甲陽軍鑑」によれば、高遠城は信濃への進出拠点として1547年に、伝説的軍師である山本勘助や秋山信友に命じて大規模な改築が行われたといいます。1556年には秋山信友が城主となり、坂西氏などを伊那衆としました。

 

1562年、晴信の庶子で諏訪氏の娘を毋とする四郎勝頼が諏訪氏を継承し、

同時に高遠城主となりました。

城主であった秋山は飯田城主となり、

「軍鑑」によれば入城に際して改築が行われ、

勝頼衆が預けられ親族衆に加えられたといいます。

勝頼は1570年に武田氏の正嫡であった義信が廃嫡される義信事件が起こると

後継的立場となり、信玄により本拠の躑躅ヶ崎館に呼び戻され、

高遠城主は信玄実弟の武田信兼となりました。

 

信玄後期から勝頼期にかけて武田氏は領国を接する織田・徳川氏と対立するようになり、高遠城は対織田・徳川勢力の重要な軍事拠点となりました。

武田氏は長篠の戦いにおける敗退を契機に領国の動揺を招き、

勝頼は1581年に領国維持のため韮崎への府中移転と同時に

異母弟の仁科盛信を高遠城主としました。

 

翌1582年、勝頼は内通した木曽氏攻めを行い、

仁科は大将として出陣し城代として小山田昌成が入っています。

同年2月に織田信長は本格的な武田攻めを開始し、

長男の織田信忠に5万の大軍を与えて高遠城に迫らせました。

高遠城に籠る守備兵の数は3千で、仁科は信忠の降伏勧告を退けて抗戦するが、

守備隊は玉砕、仁科自身も城を枕に討ち死に、城は落城しました。

高遠城の落城により織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻し、

武田氏は滅亡しました。

 

織田氏の支配のもと、高遠城攻めに功のあった毛利長秀が城主となりますが、

そのわずか3ヶ月後に本能寺の変が起こり、

高遠城には突如、武田家旧臣・木曾義昌が攻め込み、これを占領しました。

以後、徳川家康と木曾義昌の攻防の舞台となりますが、

結局、家康によって木曾義昌は高遠城を追われて深志城に撤退しました。

 

江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が後退しました。1691年に内藤清枚が3万3千石で入封し、

以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えました。

城の縄張りは中世の状態を踏襲していますが、本丸には御殿と天守代用として三層の辰巳櫓が上がり、主要な城門は枡形虎口形式の櫓門が建てられており、長大な長塀に囲まれた近世城郭でした。

 

[所在地]

長野県伊那市高遠町東高遠城跡

 

[交通アクセス]

鉄道:JR飯田線「伊那市」駅よりJRバスで約25分、

   または中央本線「茅野」駅よりJRバスで約1時間、

   「高遠」下車、徒歩約15分。

 

31番 新発田城

 

 新発田城

 

新発田城は、別名菖蒲城と呼ばれ、新発田藩の藩庁が置かれていた城です。

新潟県内では唯一、江戸時代当時の城郭建築が現存する城跡です。

 

近くを流れる新発田川の流れを利用した平城でした。

石垣には石同士の接合部分を隙間なく加工して積み上げる工法である

切り込みハギが用いられています。

 

櫓の壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、海鼠壁が用いられていました。

その他の塀や一部の櫓門には、下見板が張られていました。

 

天守はなく、本丸の北西隅に3重櫓を上げて「三階櫓」と呼んでいました。

三階櫓は新発田城において実質的な天守でした。

1634年に創建されたものは、1668年の火災により焼失し、

現在復元されている姿のものは1679年に再建されたものです。

明治初期に撮影された写真によれば、続櫓を伴った複合式層塔型3重3階で、

1重目の西面と南面に切妻破風を持った石落しを兼ねる出張りがあり、

3重目屋根の棟は丁字型に造られ、棟上には3匹の鯱が載せられています。

明治7年に破却されました。

 

[所在地]

新潟県新発田市大手町6

 

[交通アクセス]

鉄道:JR羽越本線「新発田」駅から徒歩約20分。

 

32番 春日山城

 

 春日山城

 

この城は、南北朝時代に越後国守護である上杉氏が

越後府中の館の詰め城として築城したのが始まりとされています。

1507年、守護代であった長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放し、

新守護として定実が府中に入ると、長尾氏が春日山城主となったのです。

 

上越市中部にある春日山山頂に築かれ、天然の要害を持つ難攻不落の城とされ、

為景、晴景、上杉謙信、上杉景勝の四代の居城となりました。

しかし、上杉景勝が会津へ移った後に越後を支配した堀氏は、

政治を取り仕切るに不便として、

1607年に直江津港近くに福島城を築城して移り、

春日山城はその役目を終えました。

 

別名を鉢ヶ峰城ともいいます。

「春日山」の名称は、奈良の春日大社から分霊勧請したことに由来します。

春日神社の創建年代は、958年説、守護上杉氏の築城の際とする説、

文明年間という説などがありはっきりしません。

 

また、近くにある林泉寺の惣門は、

春日山城の搦手門を移築したものであると言われていますが確証はありません。

しかし、最低でも慶長まではさかのぼるものであるとも言われ、

春日山城で最も古い建造物であることに間違いはないようです。

 

多くの絵図には石垣や天守閣などが描かれていますが、

ほとんど空想であり、石垣も瓦も発掘されていません。

それらをふまえ、厳密な時代考証に基づいた初の復元模型が完成し、

2009年開催の「越後上越天地人博」で展示されていました。

 

[所在地]

新潟県上越市中屋敷字春日山ほか

 

[交通アクセス]

鉄道:JR信越本線「春日山」駅下車、徒歩約30分。

   JR信越本線・北陸本線「直江津」駅より頸城バスで約14分、

   「林泉寺入口」下車、徒歩約20分。

車 :北陸自動車道上越ICより約15分。

 

だいぶん寒くなってきました。

早い所では山が赤く色づき始めています。

食べ物もこれからは山の幸が美味しい季節です。

遠くのは無理でも近くの自然に触れてみるには良い季節だと思います。

そんな時、目的を持って出かけられることは大いなる楽しみになります。

全国に散在する名城旧跡を訪ねてみるのも一興かと思います。