日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える
設立40周年の記念事業の一環として、
2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、
歴史や建築の専門家などにより、
観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、
復元の正確性などを基準に審査の上選定、
2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。
ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。
今回で百名城も最後となります、沖縄地方(100番)です。
100番 首里城
首里城
首里城は、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす
丘陵地にあった城です。
琉球王国の王城で、沖縄県内最大規模の城でした。
戦前は正殿などが国宝でしたが、1945年の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により
完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っています。
1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、
本格的な復元は1980年代末から行われ、
1992年に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元されました。
その後2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」として世界遺産に
登録されましたが、復元された建物や城壁は世界遺産として認められていません。
周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、
第二尚氏の菩提寺である円覚寺跡、国学孔子廟跡、
舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂などの文化財があります。
【歴史・沿革】
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首里城の創建年代は明らかになっていません。
近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、
三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されています。
おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期の
他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられます。
尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、
首里城を王家の居城として用いるようになりました。
同時に首里は首府として栄え、
第二尚氏においても変えられることはありませんでした。
史書で記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失していて、
その度に再建されてきました。
その度に木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、
将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしています。
一度目の焼失は1453年に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した
王位争いであり、城内は完全に破壊されました。
二度目の焼失は1660年のことであり再建に11年の年月を要しました。
しかし1709年に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失しました。
この時は財政が逼迫していて、
1712年に薩摩藩から2万本近い原木を提供されました。
現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された
1715年から1945年までの姿を基にしています。
1879年の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、
正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、
日本陸軍の第6師団の軍営として、その後は首里区に払い下げられ、
学校などとして利用されました。
王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、
老朽化が激しく崩壊寸前の状態になりました。
既に門のいくつかは取り壊されていて、正殿の取り壊しも検討されました。
しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、
昭和初期に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、
県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られました。
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太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り
総司令部を置いたこともあり、1945年5月3日から3日間に渡り
アメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされます。
さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、
琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊されました。
宝物庫は奇跡的に戦災を免れましたが、中の財宝は全て米軍に略奪されました。
戦後しばらくして一部が返還され、
また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもあります。
また近年尚家が保有していた琉球王国関連の資材が寄贈され、
沖縄県立博物館・美術館などで保管・展示されています。
戦後、首里城跡に琉球大学が置かれたことで、
多くの遺構が撤去あるいは埋められましたが、
首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の彼岸でした。
1958年、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など
周辺の建築から再建が始まりました。
1972年、日本復帰後に国の史跡に指定され、
城の入口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建されました。
1979年に琉球大学が首里城跡から移転すると1980年代に県および国による
首里城再建計画が策定され、本格的な復元が始まりました。
1989年11月より、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、
古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の
装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まりました。
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1992年11月3日には正殿を中心とする建築物群、
そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園しました。
現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられ、
正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われています。
2000年には「首里城跡」として他のグスクなどとともに
「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」に名称で世界遺産に登録されました。
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【構造】
他の日本の城とは異なり、首里城は中国の城の影響を大きく受けています。
門や各種の建築物は漆で朱塗りにされており、屋根瓦には初期は高麗瓦、
後に赤瓦が使われ、各部の装飾には国王の象徴である龍が多用されました。
また、戦乱のない琉球王朝時代に再建されていることもあり、
軍事目的よりも政治の中心地としての役割を中心にして設計されています。
城郭は他のグスク同様、琉球石灰岩で積み上げられています。
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首里城は外郭と内郭からなり、御庭と呼ばれる広場に面して立つ
正殿・北殿・南殿・奉神門などの建物は内郭に集中しています。
内郭には瑞泉門、漏刻門など九つの門が、
外郭には歓会門、久慶門など四つのアーチ門がありました。
瑞泉門には「龍樋」という名の泉があり、
竜の頭の形をした銅製の樋から水が流れ出しています。
ここには「中山第一甘露」の石碑があり、中国の使臣が残した碑刻があります。
瑞泉門を通り、漏刻や日時計で時間を計測していた漏刻門を抜けると、
司法や寺社宗廟関係の機関が入居していた楼閣・広福門に至ります。
広福門の内側は、系図座・用物座や、御庭につながる奉神門、
祭祀空間である「京の内」に囲まれた下之御庭が広がります。
ここは御庭に入る前の控えの場であり、
首里城の10ある御嶽のひとつ・首里森御嶽があります。
「君誇御門」とも呼ばれた奉神門をくぐると
正殿などに囲まれた御庭が広がります。
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正殿の前には、家臣らが謁見したり中国からの冊封使を
迎え入れたりするための御庭と呼ばれる広場が設けられています。
それを取り囲むように行政施設である北殿、儀礼などに用いられた南殿、
御庭への入口となり行政施設も入っていた奉神門が建てられています。
さらにそれを各種の門・城壁が取り囲む形になっています。これらの構造には、
中国の紫禁城との類似性も指摘されています。
南殿は薩摩藩の接待のため使われたので、
ここのみ和風の意匠が用いられていました。
王の執務する建物であった書院及び鎖之間は南殿の隣にあります。
書院・鎖之間庭園は琉球のグスク内にある唯一の庭園で、
石灰岩の岩盤を生かしてソテツなどを配しており
中国の使節からも名園と評価されていました。
遺構の保存状態もよく、復元工事の後2008年8月に公開されました。
2009年7月には書院.鎖之間庭園ともに国の名勝に指定されました。
王の居住する中心部は正殿と呼ばれ、別名「唐破風」と呼ばれました。
中には一階と二階の両方に御差床という玉座が設けられ、
二階の御差床の上には清国皇帝から贈られた扁額が飾られていました。
沖縄戦で全て失われましたが、康煕帝の贈った「中山世土」の扁額だけが
本人の筆跡や落款を再現した上で復元され飾られています。
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正殿裏側は「御内原」と呼ばれる私的な生活空間に当たります。
王の住む「二階御殿」が再建されているほか、
王妃らの寝室があり国王以外の男性は入れなかった「黄金御殿」、
王位継承の儀式を行う「世誇殿」などかつて存在した
建物の復元のための発掘や建設工事がすすんでいます。
本来の木造建築として復元された建物は正殿のみです。
正殿は、沖縄本島北部の山から大木を運ぶ「木曵式」などの儀式が行われた後、
台湾などからの木材を用いて再建されました。
他の建物ではコンクリートを用いるなど外観のみの復元と言えます。
旧来の城壁は一部残っており、新しい城壁の建設の際に発掘され利用されたため、
地表近くに旧来の城壁の姿を見ることができます。
これが唯一残ったオリジナルの首里城の遺構です。
【宗教的役割】
首里城は政治・軍事の拠点であるとともに、琉球有数の聖域でもあります。
以前は城内には十ヶ所の御嶽があり、また首里城内郭の南側の大きな範囲を
「京の内」と呼ばれる聖域が占めていました。
「京の内」は十ヶ所の御嶽のうちの数カ所と、
鬱蒼とした大木の森や岩があるだけの場所でしたが、
この森こそが首里城発祥の地であり、
首里城を国家の聖地とさせている重要な場所だったのです。
聞得大君をはじめとする神女たちが京の内で祭祀を行っていましたが、
その祭祀の内容やはっきりとした京の内内部の様子は
今だによく分かっていません。
現在ここで行われた祭祀の研究に基づき公開に向けての
整備工事が進められています。
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敷地内の御嶽等は単なる遺跡ではなく、現在に至るまで信仰の対象でした。
琉球大学にあった頃には、立ち入りが自由であったため、
その構内にあちこちの拝所には常に線香やウチカビが供えられ、
主として女性の拝む姿がよく見られたものです。
しかし、首里城の復元によって無断の立ち入りが禁止となってしまいました。
このため「首里城の建物は復活しましたが拝所としては破壊された」との
声もあります。
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[所在地]
沖縄県那覇市首里
[交通アクセス]
モノレール:那覇空港から「ゆいレール」に乗車、「首里」駅下車、
徒歩約15分で守礼門へ。
首里駅から路線バス(首里城下町線8番)も出ていて
「首里城前」バス停下車、徒歩約3分で守礼門へ。
車 :那覇空港から国道331号線へ出て、那覇市中心部へ、国道58号線に入り、
泊交差点を右折、県道29号線を直進して首里方面へ。
那覇空港自動車道「豊見城・名嘉地IC」を利用の場合は、
「南風原北IC」から国道329号線利用。
バス:市内線1・17番、市外線46番に乗車、首里城公園入口バス停下車、
徒歩約5分。
市内線9番、市外線25番に乗車、「山川」バス停下車、徒歩約15分。
タクシー:
那覇空港から約10㎞(所要時間約40分~60分)
那覇市内(国際通り三越前)から約4㎞(所要時間約15分~25分)
識名園から約3㎞(所要時間約10分~20分)
12月に入って本当に寒くなりました。
今朝は、地面だ真っ白で吐く息も白くって久しぶりにあ~寒いって思いました。
寒気が日本海側に迫っているようで、
気温は1月のものだと天気予報で告げていました。
こんな寒い日は家の中でこたつに入って鍋でもつつこうなんて思っていませんか。
空気が澄み、気分が引き締まるこの季節は、
寒い冬を乗り切る為にあぶらをいっぱい溜め込んだおいしい魚介類や肉類、
そして大根やカブの煮物に最適な野菜たち、
家に引きこもっていては味わえない冬の味覚を味わわないと後悔しますよ。
行楽軒説としては今は閑散期です。
そんな時こそ、お得なサービスを受けられる時です。
旅行するなら今が一番いい季節なんです。