日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える
設立40周年の記念事業の一環として、
2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、
歴史や建築の専門家などにより、
観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、
復元の正確性などを基準に審査の上選定、
2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。
ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。
今回も引き続き、東海地方(45番~48番)です。
45番 岡崎城
岡崎城
戦国時代から安土桃山時代には徳川氏の持ち城で、
江戸時代には岡崎藩の藩庁だったところです。
別名を龍城といいます。
菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山という丘陵を利用して造られています。
元は、龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼、
そして頼継が北方に対する防御として築城したものです。
当時は、龍燈山城と呼ばれました。
それを、松平清康が西郷信貞から奪い取り改修拡張整備したものが岡崎城です。
龍頭山はもともと小高い丘で、
山頂に本丸が置かれた平山城として築かれましたが、
本多康重から3代忠利にわたる改修によって平城となっています。
この際、本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守が建てられました。
本丸の北方に持仏堂曲輪、その北方下に二の丸、
その北方に北曲輪、二の丸の東側には三ノ丸と東曲輪、
その東に備前曲輪と大手門があった浄瑠璃曲輪、
本丸と二の丸の西方下に坂谷曲輪、
その西に白山曲輪と搦手口に当たる稗田門があった稗田曲輪、
本丸の南は、菅生川沿いに菅生曲輪があり、
それに、本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀を廻らせていました。
在城当時の東海地方の城では3番目に数えられる規模でしたが、
1873年の廃城令によって廃城となり城内の天守以下の建物及び土地を払い下げ、
現在は一切の建物を失い、本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、
風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみで、敷地は龍城神社、
岡崎公園として整備され、天守などが復興され、市民の憩いの場になっています。
東隅櫓が2010年に再建されました。
望楼式二重櫓と呼ばれる木造2階建てで、入り母屋造りの屋根は、
岡崎藩主を努めた本多氏の家紋立ち葵が刻まれた本瓦葺き、壁は白漆喰塗り、
高さ約9.4mで、かつて東曲輪だった岡崎公園駐車場の南東角に位置します。
1781年の「岡崎城絵図」は基本資料としていますが、
東隅櫓の図面は現存しなかったため、
愛媛県松山市に現存する同時代の松山城の野原櫓などの形式を参考にして、
江戸時代の工法を忠実に再現し建設しました。
城内で発掘された石材を使い、空積みの石垣も築きました。
隣接して同時に整備した長さ約45mの城壁と合わせ、
総工費は約1億円、年中無休で内部を公開しています。
[所在地]
愛知県岡崎市康生町561 岡崎公園内
[交通アクセス]
鉄道:名鉄名古屋本線「東岡崎」駅から徒歩約15分。
46番 長篠城
長篠城
長篠城は、天正3年の長篠の戦いに先立つ
長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られています。
永正5年今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城しました。
元成と、その子孫・長篠菅沼氏が居城としました。
元亀2年徳川家康に服属していたが、武田軍による三河侵攻の一端で、天野景貫に攻められました。攻守双方の払った犠牲は大きかったのですが、陥落だけは免れました。その後、菅沼総領家・田峯菅沼家から遣わされた使者の説得を受け、城主であった元成の直系玄孫・菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈したのです。
元亀4年、前年末から続いていた武田軍の西上作戦が春には切り上げられ、武田軍は本国に撤退しました。その間隙を卑怯な徳川家康によって攻められました。城主・正貞は天正元年には開城退去、城に返り咲く事はありませんでした。以後、家康によって武田軍の侵攻に備えて、城が拡張され、現在残る本丸の大規模な土塁などはこのときのものと考えられています。
天正3年、武田勝頼は2万5千の兵を率いて奥平信昌が約500の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まりました。
天正4年、前年の長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、
奥平信昌は新城城を築城、長篠城は廃城となりました。
1929年、当時の史跡名勝天然記念物保存法により、城跡一帯が国の史跡に指定されています。
また、帯曲輪跡には新城市立長篠城址史跡保存館が建設されており、
長篠の戦いの理解を助ける展示がされています。
[所在地]
愛知県新城市長篠字市場22−1
[交通アクセス]
鉄道:JR飯田線「長篠」駅から西へ徒歩約7分。
47番 伊賀上野城
伊賀上野城
伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部にある標高184mほどの丘に建てられた平山城です。北には服部川と柘植川、南には久米川、西側には木津川の本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にあります。
北畠信雄の家臣である滝川雄利は平楽寺の跡に砦を築きました。その後1585年に筒井定次によって改修を受け、1611年に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張しましたが、大坂の役によって、当時高虎が従属する徳川家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成にまま江戸時代を過ごしました。
現在、旧城域一体が国の史跡に指定されています。城を含めた近隣一帯は上野公園として整備されており、松尾芭蕉を祀る俳聖殿や芭蕉翁記念館があるほか、伊賀流忍者博物館があり、伊賀上野の観光地として利用され、各種イベントなどが行われています。長年日本一といわれてきた藤堂高虎の高さ約30mの石垣や三重県立上野高等学校敷地内に武庫蔵が現存し、米蔵は博物館の一部として上野公園敷地内に移築現存しています。現在、天守台にあたる3層3階の天守は昭和初期築の模擬天守で、正式には伊賀文化産業城といいます。
[所在地]
三重県伊賀市上野丸之内(上野公園)
[交通アクセス]
鉄道:伊賀鉄道伊賀線「上野市」駅から徒歩約8分。
車 :名阪国道上野ICから国道368号・国道25号
城内に駐車場があります。
48番 松阪城
松阪城
松坂城は、現在は松阪城と表記されています。
城の縄張りは梯郭式平山城です。
松坂市の中心地の北部に位置します。
阪内川が城北を流れ天然の堀となっています。
江戸時代初期には松阪藩の藩庁となっていましたが、
廃藩後は御三家紀州藩の南伊勢国内17万9千石を統括するために
城代が置かれました。
現在は石垣のみが残っていて、城址公園となっています。
周囲には松阪市役所、市民病院、当地出身の本居宣長記念館などがあります。
松阪は梶井基次郎の短編小説「城のある町にて」の舞台であるため、
二の丸跡に文学碑が建てられています。
[所在地]
三重県松阪市殿町
[交通アクセス]
鉄道:JR紀勢本線・近鉄山田線「松阪」駅から徒歩約15分。
寒くなってきましたね。
山の頂が雪で白くなっています。
朝晩の冷え込みは厳しいですが昼間はまだ比較的暖かです。
散歩がてらに全国に散在する名城旧跡を訪ねてみるのも一興かと思います。