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日本の奇祭41「ムシャーマ」

2015年02月16日 | 日本の奇祭

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。

故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

 

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、

外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。

これを世の人は「奇祭」と呼びます。

 

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

 

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」

「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、

奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。

よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り

(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、

ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、

開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

 

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。

その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、

祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

 

特に言う必要はないと思いますが、

以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、

れっきとした郷土芸能であり、

日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

 

今回は、沖縄県のムシャーマです。

 

ムシャーマ(沖縄県八重山郡竹富町波照間)

 

ムシャーマは、旧暦7月14日に日本最南端の波照間島で先祖を供養し、

豊作と安全を祈願して行われる祭りです。

 

波照間島は日本最南端の有人島です。

この島の名前は、

「果ての珊瑚礁(ウル)の島」から名付けられたといわれています。

周囲約14.6㎞、面積約15平方kmの小さな島です。

珊瑚礁の石垣とフクギに囲まれた赤瓦の家々、

ブーゲンビリアやハイビスカスの花々が咲く、美しい島です。

歩いていると、笑顔で「こんにちは~」と声を掛けてくれる、

おじいちゃん、おばあちゃんがいたりして。

のどかな時間が、ゆっくりとゆっくりと流れている、そんな島です。

 

波照間島の言葉で「面白い」ことを「ムッサハー」といいますが、

ムシャーマの語源は、この「ムッサハー」だといわれています。

この由来の通り、この祭事の日は1日中様々な芸能が披露され、

島の人々を楽しませてくれます。

娯楽の少なかった時代、

人々にとってこのお祭りは待ち遠しい行事の一つだったのです。

 

祭りに日の朝、ドラの音が島中に響き渡ります。

祭りの始まりの合図です。

この島のどこにこんなに沢山の人がいたのかと目を疑うほどの沢山の観客が、

公民館前広場に集まります。

 

ムシャーマの1日は、3組(東組:北と南、前組:前、

西組:名石と富嘉)の仮装行列から始まります。

 

 

仮装行列の先頭はブーパタ。

旗に記された文字は、その組を象徴します。

次に、ミルクヌナーリ、ミルク、ミルクンタマー、ミルクヌジィーが続きます。

 

ミルクヌナーリとは、竹や柳の枝にヤラブ(テリハボク)の実や

色とりどりの色紙などを丸めて作った五穀の実りをつけたもので、

「五穀豊穣」を象徴します。

 

 

ミルク(弥勒)は、仏教思想の「弥勒菩薩」から来たものといわれますが、

その伝来については不明で、波照間島では、

ミルクは「五穀豊穣と幸福」をもたらす神仏の象徴だと考えられています。

 

 

ミルクの後ろには、ミルクンタマーが続きます。

ミルクンタマーとは弥勒の子供たちという意味です。

ミルクは扇を左右に動かしながら後ろに続く

ミルクンタマーを見守るように振り返りながらゆっくり進みます。

 

ミルクンタマーの後ろには、

ミルクヌジィーと呼ばれる「弥勒節」の地歌、笛、三線が続きます。

この唄は、9番まであり島の繁栄を願う内容の唄です。

独特の節回しと、おばぁ達の歌声がのどかな島に響き渡ります。

 

行列はまだまだ続き、

航海安全と人生航路の安全を祈りながら踊る「嘉利吉節」、

軽快な曲調に合わせて農耕の様子を踊る「豆どうま節」、

稲穂から精米にして俵にするまでの行程を踊る「稲摺節」などがあります。

 

行列の演目は、豊年祈願・祖先供養の意味を持つものですが、

時代の世相を反映して幾多の変遷があったといわれています。

この島で生まれ育った若者たちが島を離れていく反面、

南国の生活に憧れて沖縄県外から移り住む人たちも多くいます。

昔から伝え受け継がれてきた文化、新しく入ってきた文化、

ムシャーマの仮装行列からこの島の歴史を垣間見たような気がします。

 

仮装行列の終了後、

公民館の中庭でテーク(太鼓の舞)とボー(棒術)が行われます。

 

 

テークは、テークヌピン(笛)の演奏に合わせて締め太鼓を打ち踊る演技です。テークヌピンは、沖縄の音楽でありながら

琉球音階ではない独特のメロディーを奏でます。

 

 

ボーは、長刀、刀、六尺棒、五尺棒、鎌、

笠などを持って2人一組で演じられます。

各組、農民と武士の組み合わせで戦いますが、

最後は必ず農民が勝つようになっています。

「イヤァー、ホーッ、ヤァー!」の掛け声、

棒と棒が激しくぶつかる音がとても勇ましい演技です。

 

 

テークとボーの終了後、中庭で「ニンブチャー」(念仏踊り)が行われます。

ニンブチャーは、極楽の天国へ成仏できずにいる無縁仏を慰霊し、

故人を偲び感謝するものです。

 

 

中庭の中央に酒と肴を供え、それを囲んで笛、銅鑼、地謡が座り、

公民館の役員代表とボーシンガーが全員で「親ぬ御恩」の歌に合わせて踊り、

「ハーリカ、ヨイサー、シッサー、サーサー、スリサーサー」と囃し立てます。

 

午後からは、公民館の中庭に特設舞台が作られ、ブドリ(舞踏)、

コンギー(狂言)などが演じられます。祭りの最終演目は、6頭の獅子舞です。

 

 

午後5時過ぎ、夏の空はまだ明るいけれど、

ムシャーマの1日は終わろうとしています。

3組の仮装行列が公民館から朝通ってきた道を練り歩き、帰っていきます。

 

多種多様な文化がこの島にはあり、

独特の節回しの音楽、獅子舞などが伝わっていますが、

いつ、どこから伝わったのかは定かではありません。

 

【交通アクセス】

航路:波照間海運石垣港離島ターミナルから高速船もしくは貨物船で波照間港へ。

   安栄観光石垣港離島ターミナルから高速船で波照間港へ。

   安栄観光西表島・大原港から不定期便の高速船が波照間港へ就航。

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?


日本の奇祭40「鵺ばらい祭・アカマタ・クロマタ・青森ねぶた祭」

2015年02月02日 | 日本の奇祭

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。

故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

 

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、

外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。

これを世の人は「奇祭」と呼びます。

 

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

 

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」

「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、

奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。

よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り

(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、

ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、

開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

 

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。

その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、

祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

 

特に言う必要はないと思いますが、

以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、

れっきとした郷土芸能であり、

日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

 

今回は、静岡県の鵺ばらい祭、沖縄県のアカマタ・クロマタ、青森県の青森ねぶた祭です。

 

 

鵺ばらい祭(湯らっくす公園:静岡県伊豆の国市)

 

鵺ばらい祭は、宮廷に夜な夜な現れる頭が猿、

胴は虎、尾は蛇という怪物「鵺」を、

源頼政が見事退治したという故事にならった祭りで、

あらゆる災難を「鵺」に託して退治する新春の行事が、

毎年1月28日に伊豆長岡温泉で行われます。

 

 

「古里を見直そう…」と、「鵺」や「源頼政」などの主役は、

地元伊豆長岡中学校の生徒たちが務めます。

登場する「鵺」は大鵺1匹、中鵺2匹、小鵺4匹の計7匹です。

この「鵺」を源頼政など武士に扮した生徒たちが、

派手な立ち回りの末退治します。

 

 

また、源頼政は、伊豆長岡小奈に生まれた「あやめ御前」と結ばれたことから、

伊豆長岡とは縁が深く、毎年7月第一土曜日、日曜日に行われる

「あやめ御前」の霊を慰める祭り「源氏あやめ祭」にも登場してきます。

 

 

【交通アクセス】

電車:伊豆箱根鉄道「伊豆長岡」駅より長岡温泉場行きバス「総合会館前」下車。

 

 

アカマタ・クロマタ(沖縄県石垣市宮良地区・小浜島・新城島・西表島の古見地区)

 

アカマタ・クロマタは、毎年旧暦6月の壬の日に石垣島の宮良地区、

小浜島、新城島、西表島の古見地区の4ヶ所だけで行われているお祭りです。

 

 

この祭りは、従来までは他の者はもとより外来者については

一切口外しないという古くからの固い習慣があったそうです。

そのため、この謎めいた神事は今でも「撮影禁止」「写生禁止」

「録音禁止」のため、詳細を知ることはできません。

かつて、某新聞社の記者が撮影したのがばれて、

袋叩きにあったという話もあります。

さすがに今では、撮影こそは許されませんが、

見学はできるようになったそうです。

 

内容は五穀豊穣を祈り、面をかぶり、

体は森の植物を身にまとい、まるで草で覆われた妖怪のような

雰囲気の神様が儀式を執り行うといった内容です。

 

 

青森ねぶた祭(青森県青森市)

 

青森ねぶた祭、または青森ねぶたとは

青森県青森市で8月2~7日に開催される夏祭りで、

毎年延べ300万人以上の観光客が訪れます。

1980年には国の重要無形民俗文化財に指定されました。

 

 

青森ねぶたの起源として、

以前は征夷大将軍となる坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討の戦場において

敵を油断させておびき寄せるために大灯籠・笛・太鼓で

はやし立てたことを由来としていました。

このため、青森ねぶた祭の最優秀団体に与えられる賞として

1962年に「田村麻呂賞」が制定されていました。

しかし田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、

ねぶたの起源とされたものも田村麻呂伝説の一つと見られます。

現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事が

変化したものと考えるのが主流で、

現在の形式のねぶた祭の発祥は浅虫ねぶたとされています。

 

 

藩政時代や明治時代には大型の灯籠を担いで町中を練り歩く行為に対し、

しばしば禁止令が出されました。戦時中も禁止されましたが、

戦況が悪化した1944年には戦意高揚のために解禁されています。

戦後は企業がねぶた運行の主体となり、観光の側面が強くなりました。

人形型ねぶたは元々は竹を曲げて骨組みを作り、

指などの細かい部分はその上に貼った和紙に筆で書いていました。

昭和30年代に北川敬三というねぶた師が針金を用いて

指を1本ずつ作ったり複雑な造作のねぶたを作ったことによって、

ねぶた界に革命が起こりました。

針金が登場した当時、一部では反発があったといわれています。

 

 

北川によってロウソクだった内部の明かりを蛍光灯に替え、

台座にバッテリーを乗せ明るく輝くねぶたを作ることに成功し

より芸術性と完成度を高め、後に「ねぶたの神様」と評されました。

北川は既に他界していますが、

現在の主流となっているねぶたの礎は北川が築いたと言えます。

 

ねぶた作りは、

 1.題材の決定

 2.設計図となる下絵を描く

 3.各パーツの製作

 4.パーツ類を配置するための骨組み

 5.明かりを内部から灯すための電気配線

 6.針金の表面を覆う紙貼り

 7.紙の上に黒いフチや線を描く書割

 8.着色時の色の混濁を防ぐロウ書き

 9.白地に彩色する色付け

 10.持ち上げて台車に設置する台上げ

という10の行程を経て完成します。

 

 

現在では最大サイズとして幅約9m、高さ約5m、

奥行き約8mという規定があります。

明治から大正にかけてのねぶたは現在のものより背が高く立った姿勢でした。

電気の普及により張り巡らされた電線を避ける目的で

姿勢を低くして現在の形へと姿を変えてきました。

 

ねぶたの題材は、日本や中国の伝説や歴史上の人物、歌舞伎、神仏などが多く、

近年では地元の伝説や偉人、テレビ番組などを題材にすることもあります。

青森市初代名誉市民である棟方志功の生誕100周年となった2003年には

彼の版画を題材にしたものが登場しました。

 

昭和30年代までは歌舞伎、中国の伝説、合戦物が大部分を占めていました。

昭和40年代になると、それ以外にも様々なジャンルが増え、

昭和50年代末には郷土のジャンルが確立されました。

現在では、これまでと同じ題材でも、構図に多くの工夫を凝らし、

その結果毎年より高い水準になっています。

 

開催は毎年8月2~7日までですが、このうち2~6日は夜間運行です。

7日は昼間運行ですが、夜に海上運行と花火大会が催されます。

また、8月1日は前夜祭が行われます。

 

青森にねぶたには大型ねぶた、子供ねぶた、地域ねぶたがあります。

子供ねぶた、地域ねぶたは主に町内会が主流となって運行するねぶたであり

大きさも普通の大型ねぶたより一回り小さいものです。

子供ねぶたは8月2・3日の2日間運行されます。

大型ねぶたは開催期間中必ず運行されますが、

奨励金の関係か2日と3日は大型ねぶたの運行台数は少なくなっています。

 

昔は雨天中止になることもありましたが、

現在は雨天でもビニールをかぶせて運行されます。

ただしねぶたの形によっては

一部がビニールの穴をあけてはみ出してしまうこともあります。

ビニールを突き破るのは持っている武器など細長いものや

尖ったものが多いのですが、馬の顔が突き出していたこともあります。

 

運行コースは、青森市内の国道4号、新町通り、県庁通り、

平和公園通りで囲まれたエリアになります。

1982年まで国道4号線県庁通り交差点から1台ずつ出発し、

コースを右回りで回っていました。

しかし祭りが佳境に入った頃道幅の狭い新町通りにねぶたが入り、

ハネトで通りが一杯になり

ねぶたがいつまでたっても前に進めないという問題点が指摘されました。

このため1983年に左回りにコースが改められました。

その後、1992年にねぶた団地が

それまでの公園から観光物産館付近のラッセランドに移され

スタート地点が新町通りと柳町通り付近の交差点となりました。

しかし祭りが高潮するとハネトであふれかえるためゴール地点は常に渋滞し、

祭りそのものがなかなか終了しないという問題は相変わらずでした。

ねぶた祭は青森市内の幹線道路を2本も通行止めにするので、

時間通りに祭りが終了しないと市民生活に与える影響も大きいのです。

またこの頃から、増大するカラス族の問題が無視できなくなってきました。

祭りがだらだらと運行されるとカラス族が最後尾に集合し、

祭りそのものが彼らの格好の餌食にされてしまいます。

そこで2001年にはあらかじめねぶたを配置し花火の合図で同時にスタートし

花火の合図で同時に終了するという手法に改められ、

コースも右回りとなりました。

これによりねぶたの列の始めと終わりがなくなり、運行もスムーズになりました。

また、祭りを破壊しにくるカラス族を少なくさせることにも成功しました。

一方で、花火の合図と同時に最高潮にある祭りが

蜘蛛の子を散らすように終了するのは見ていて寂しいものがあります。

 

【交通アクセス】

電車:JR奥羽本線もしくは青い森鉄道「青森」駅から徒歩10分。

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?