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日本の奇祭5「吉良川の御田祭」

2013年08月27日 | 海外旅行

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。

故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

 

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、

外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。

これを世の人は「奇祭」と呼びます。

 

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

 

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」

「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、

奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。

よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り

(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、

ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、

開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

 

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。

その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、

祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

 

特に言う必要はないと思いますが、

以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、

れっきとした郷土芸能であり、

日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

 

今回は、高知県室戸市の吉良川の御田祭です。

 

吉良川の御田祭(御田八幡宮:高知県室戸市吉良川町)

 

 

吉良川の御田祭は、鎌倉幕府開幕当時、源頼朝が天下泰平、

五穀豊穣を祈念し、全国津々浦々の神社で奉納させたと伝えられており、

2年に1度、5月3日に行われます。

この祭りで行われる古式祭典は、芸能史的に極めて貴重なものとして

昭和52年に重要無形民俗文化財に指定されました。

県内では、奉納行事の中で赤ん坊の人形を奪い合う演目があるため、

子授かりの祭りとしても広く知られています。

 

早朝から昼まで

 

吉良川の御田祭は「練」で始まります。

早朝から吉良川の町内各地で練を行い、昼前に吉良川の海岸で練を行い、

清めの海水を汲んで、午前中は終わります。

練は紋付袴を身に付け、一文字笠を被った8人で行います。

 

地元の方の話では、

昔、田のスズメ追いに使っていたというササラを手に持ち、円陣を組み、

太鼓の音頭にあわせながら「ヨッピンピーロ、ヨッピンピーロ」と言いながら、

時計回りとは反対方向に回っていきます。

この時の手足の動きは、田を練る所作をしているのだそうです。

グルグルと15分以上も練を行います。

最初はササラを鳴らさず回り始めて、そのうち1回振る、

次は左右と中央で振ると変わっていきます。

 

 

境内での奉納行事・殿とかしゃ

 

午後1時過ぎから、境内での奉納行事が始まります。

奉納の行事は、主として田植えから収穫に至るまでの

お百姓さんの仕事を演ずるものです。

全部で14演目あり、この田遊びが五穀豊穣を願って奉納されます。

これら14演目の中には、田楽や猿楽などが織り交ぜられており、

一度でも狂言や能を見たことがある人は、

共通点を見出すことができるのではないかと思います。

各演目の合間に、宮司が出てきて「今から行われる演目は…」と説明します。

 

一番最初に行われるのが「殿とかしゃ」です。

「殿」が編み笠を被り長く大きな刀を付け扇子を持って登場し、

「かしゃ!かしゃ!」と叫びます。

すると「かしゃ」が「はい!はい!」と返事をしながら登場します。

舞台の真ん中で殿がかしゃに次の演目を小声で伝えると、

かしゃが参観者に大きな声で「次は○○を出しますぜよ」と言って回ります。

 

この殿とかしゃは、演目の間には必ず出てきます。

奉納行事の進行役なのですが、舞台の真ん中で、

殿とかしゃに小声で次の演目を伝えた後に、

かしゃの頭を扇子でポン!ポン!と叩くと、

かしゃが大きな刀をポンと跳ね上げる所作がなんともおかしく、

狂言のご主人様と太郎冠者を思い出させます。

 

 

境内での奉納行事・練収め~翁

 

朝から吉良川の町内を廻っていた練の「練収め」をします。

続いて「女猿楽」苗取りを行います。

同じしぐさを繰り返している様に見えますが、

毎回、少しずつ型が違っているようです。

この衣装は、婚礼時に女性が着る緞子帯を使っているようでした。

 

女猿楽の後、ぞろぞろと地謡を歌う囃子手が出てきて、

正面一列に神前に向かって着座します。

その後、「三番神」と「翁」が同時に舞台に出てきます。

囃子手が「アアヤオ、アアンヤ」と繰り返し唱えるのに合わせて、

三番神が舞います。よく見ていると、

三番神が大きく足を踏み鳴らす所作をする時は「アアヤオ、アアンヤ」も大きく、

すり足の時は小さいです。

 

三番神が終わると、待っていた「翁」の出番です。

同じく囃子手が「アアヤオ、アアンヤ」と繰り返し唱えるのに合わせて

翁も舞いますが、地謡がワキ役、翁が太夫役となり、

交互に文句を唱える所が大きく違います。

 

 

境内での奉納行事・牛~田打ち

 

「牛」は、牛の面を付けた人と牛使いが出てきて、田をすく所作をします。

牛の面は前が見えるようになってないようで、

曲がり角の所作がまた滑稽な感じを醸し出しています。

 

「田打ち」は、烏帽子、直衣、長袴を付けています。

木製の鍬を持ち、田打ち歌を唱えて田を打つ所作をします。

ここまでは、演目が終わると清めに水打ちの後に、

殿とかしゃが出てきたのですが、

田打ちの後から、「田刈」の演目が終わるまでは、

清めの水打ちをする人が出てこなかったようです。

 

 

境内での奉納行事・えぶり指し~酒絞り

 

「えぶり指し」は、田をエブリで馴らす所作をします。

この馴らす所作の時に「そうとめよう、そうとめよう」と大きな声で言います。

「田植え」は、奉納行事の中で一番たくさんの人が出てきます。

早乙女の格好をした12名に、

地謡が早乙女てがいとして小笹を持って後方に立ちますので、合計24名です。

太鼓の音頭に合わせて早乙女てがいが田植え歌を唱えながら手に持った笹で、

早乙女の被っている一文字笠をたたきます。

早乙女は、これに合わせて、向きを振りかえながら、

手に持った扇を苗に見立てて、苗を植える所作をします。

 

 

いよいよ「酒絞り」です。

子供が欲しいと願う参観者の女性たちが舞台に上がり、

酒絞りでできた子供の人形を奪い合うのが良く知られています。

過去、奪い合いが激しく、舞台から落ちた人がいたということで、

2007年には舞台の周囲にロープが張られました。

 

水槽にそうけ柄杓を入れ、頭上に頂きながら舞台に出てきます。

別にとりあげ婆が付きますが、後ろにくの字になってくっついてきますので、

良く分かりません。酒を絞る所作をしている間に神の子が生まれます。

その神の子の人形をとりあげ婆が高くさし上げ

「男の子ぢゃぁ~」と言った後、軽く投げます。

そして、この人形に女性たちが群がり、争奪戦が始まります。

人形は簡単にバラバラになるようになっていて、

足だけや手だけを取って満足の人、

本体をとろうとすざまじい争奪戦を繰り広げる人たちもいます。

 

大体の戦況が見えた所で終わりの合図があり争奪戦は終わります。

そして、バラバラになった人形の部位が集められます。

ちなみに、この人形は木製でできています。

人形が身につけていた赤い布は、

裂いて参加者が持ち帰ってよいことになっています。

その後、舞台の奥の神殿に争奪参加者が集まり、

元の様につなぎ合わされた木製人形を、一人一人抱かせてもらい、

子授かりを願います。

 

 

境内での奉納行事・田刈り~地固め

 

「田刈り」は、田打ちと同じ装束、面で行います。

田刈りの歌を唱えてから稲刈りの所作をします。

田刈りの後から、又、清めの水が撒かれるようになったように思いましたが、

前半部分で撒いていた人とは異なり、白い装束を身に付けます。

 

「小林」は、三番神の翁の時と同様に、地歌が着座します。

囃子手が「アアヤオ、アアンヤ」と歌うのも変わりません。

小林上野守是成の幽霊が現れ、戦いの武功を演じます。

説明によると、能の演目には「小林」の演目があるそうで、

ここの小林は能など洗練されたものより更に古いものにあたるそうです。

この事からも、能などが成立する以前から

ここの奉納が行われているという事が分かるそうです。

 

「魚釣り」は、釣竿を持って現れます。境内を海に見立てて、

そこに釣竿を垂れ、参観者が釣竿の先に付けてある魚を

ツンツンと魚が糸を引く所作をした後に離します。

そして「大漁!大漁!」と大きな声で言います。

 

 

奉納の最後は、「地固め」です。三番神や翁、小林の様に地歌も着座します。

秘文を唱えてから、舞い始めます。

囃子手が「アアヤオ、アアンヤ」と言うのは同じです。

最後に境内の参観者の方に向かい左手を上げ「再来年ござれ!」と叫びます。

これが、祭典行事の締めくくりとなります。

この後は、一切、この奉納行事の真似をしてはならないとされています。

 

太刀踊り

 

以上で「御田祭」の祭典は終わりますが、

江戸末期か明治の始め頃から、「太刀踊り」が奉納されるようになったそうで、

更に太刀踊りが続きます。

最初は木刀での棒踊り、途中から刀を使った太刀踊りとなります。

地元の人の話では、真剣を持って踊っている人もいるそうです。

両方合わせて約30分です。

 

【交通アクセス】

空港:高知龍馬空港より車で75分。

電車:ごめんなはり線「奈半利」駅より車で20分。

バス:高知東部交通バス室戸岬線「吉良川学校通」バス停下車。徒歩5分。

車 :高知自動車道「南国IC」より約75分。

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?


日本の奇祭4「黒石寺蘇民祭」

2013年08月05日 | 国内旅行

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。

故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

 

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、

外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。

これを世の人は「奇祭」と呼びます。

 

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

 

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」

「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、

奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。

よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り

(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、

ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、

開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

 

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。

その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、

祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

 

特に言う必要はないと思いますが、

以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、

れっきとした郷土芸能であり、

日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

 

今回は、岩手県奥州市の黒石寺蘇民祭です。

 

黒石寺蘇民祭(黒石寺:岩手県奥州市)

 

旧暦1月7日夜から翌暁にかけて行われる蘇民祭は、

厳寒積雪の中で行われる裸の夜祭りで、

修験道の性格をもった寺のなごりを残しています。

 

蘇民祭は、薬師信仰千古の歴史にのっとり、

五穀豊穣と災厄祓いを願って、裸参り、柴燈木登、別当登、

鬼子登と続き、祭りのクライマックス・蘇民袋争奪戦に至る

水と炎の織りなす勇壮な裸祭りです。

 

江戸時代後期に傑出した紀行文を多数残した旅行家・菅江真澄は、

蘇民祭を見て「世に珍しきあらがい祭りなり」と記しています。

現在、国から記録保存すべき無形民俗文化財に指定され、

黒石寺・藤波洋香住職が主催し、

黒石寺蘇民祭保存協力会青年部が祭りを取り仕切っています。

 

[黒石寺]

 

 

岩手県水沢市にある黒石寺は、天台宗の古刹で「くろいしでら」ともいいます。

山号は妙見山。729年(天平元年)行基菩薩の開基で、

当初は東光山薬師寺と称しましたが、

延暦年間の蝦夷征伐の戦火に遭って寺は消失しました。

 

807年(大同2年)飛騨の工匠が方七間の薬師堂を再建し、

849年(嘉祥2年)慈覚大師円仁が復興して妙見山黒石寺と改名しました。

最盛期には伽藍48宇を数えたといわれる黒石寺も、

1261年(弘長元年)の野火、1590年(天正18年)の兵火、

1840年(天保11年)の祭火に見舞われ、

1881年(明治14年)にも火災に遭って伽藍一切を消失しました。

 

現在の本堂と庫裏は、1884年(明治17年)に再建されたものです。

本尊は薬師如来座像で、胎内に862年(貞観4年)に作成された造像記があり、

古代東北の仏教信仰を伝える貴重な作例となっています。

薬師如来坐像は、1957年(昭和32年)国の重要文化財に指定されました。

 

蘇民祭はその名のとおり蘇民将来を祭り、

五穀豊穣、家内安全を祈願する祭りです。

岩手県には水沢市(現奥州市)のほかにもいくつもの場所で、

この時期に蘇民祭が行われており、

岩手県全体の蘇民祭が国の無形民俗文化財に指定されています。

 

[蘇民祭]

 

蘇民将来とは護符の一種です。

晴明判(魔除けの星象吼)や<蘇民将来子孫>などの文字を記した

六角柱または八角柱の短い棒で、

房状の飾りや紐をつけて帯に結び下げるようになったものもあります。

 

正月に、牛頭天王と縁の深い京都の八坂神社はじめ、

信濃国分寺八日堂、愛知の津島神社、

新発田の天王社など各地の社寺で祀られます。

 

また岩手の黒石寺薬師堂では、

正月7日に蘇民祭といって数百本の六角形のヌルデの木が入った蘇民袋を

裸の男たちが東西に分かれて奪い合う行事があり、

これを得た者はその年幸運であるといいます。

 

蘇民将来には、紙や板の札に<蘇民将来子孫之門>とか

<蘇民将来子孫繁昌也>と書いて家の戸口に貼って魔除けとしたり、

畑に立てて虫除けとする風習もあります。

《備後国風土記》には、旅に出た武塔神(素戔嗚尊)が宿を請うたところ、

裕福な弟の巨旦将来はことわったが、

貧しい兄の蘇民将来は宿にとめ歓待したため、

茅の輪の護符を腰につけるように教えられ疾病を免れたと語られています。

 

 

[ふんどし奨励]

 

黒石寺蘇民祭の裸男たちは、みな白の六尺褌です。

並幅(約35㎝)の晒木綿を半幅に折り、前袋式に縮めています。

水こ褌と同じ長さの人もいれば、

横廻しを幾重にも重ねている人もいて統一されていません。

激しい揉み合いがあるので、西大寺会陽のように前垂れ式だと緩みやすいので、

前袋式に締めるのが正解だそうです。

 

蘇民祭の創生期にはふんどしを締めていましたが、

激しい争奪戦で横廻しを強く引かれて内臓破裂で死亡した事故があり、

それ以来素裸となったいきさつがあったといわれます。

素裸の習俗は相当長く続いてようですが、明治になって素裸が禁止されました。

現在、観光化されて多くの見物客が訪れるようになり、

ふんどし着用が義務づけられています。

 

蘇民祭は、ふんどし男のほか、

上半身だけ裸で下半身はズボンをはいている男もおり、

かなりまちまちないでたちです。足には黒足袋に草蛙か地下足袋を履いています。鉢巻はしていません。

 

[祭りの概要]

 

1.裸参り(夏祭り又は祈願祭)

 

午後10時から厄年連中、一般祈願者、善男善女が角燈と呼ぶ提灯を持ち、

雪を踏みしだいて瑠璃壺川(山内川)に入り、

水垢離をして身を浄め、「ジャッソー・ジャヤサ」の掛け声で、

薬師堂、妙見堂を巡り、五穀豊穣、災厄消除の祈願を行います。

 

 

これを三度繰り返します。

ふんどしをしている人も三度目の水垢離には

ふんどしを外すのが作法だったようです。

 

ジャッソーは「邪正・邪を正す」、

ジョヤサは「常屋作・とこしえの住まいを作る」という意味だといいます。

 

 

「夏祭り」という呼称は、古くは女性の参加の折、

下着1枚の着用を認めたことから夏姿で参るという意味だといいます。

明治になって男も素裸禁止となり、夏祭りの言葉が定着しました。

 

2.柴燈木登

 

午後11時30分から鐘の合図で行列をつくり腰をかがめて、

「イヨーイヨー」の掛け声、柴、たきつけ、ごま殻、塩をもって進みます。

堂前に生松割木を井桁に積み上げます。

若者たちは裸になり、

柴燈木の上に登って火の粉をあびながら山内節(山内とは木炭を作ること、

またはそれを生業とする人)をうたい気勢をあげます。

 

 

  ジャッソウ ジョヤサ ジャッソウ ジョヤサ(以下「掛け声」)

(1)ハァー 揃た揃たよ 皆様揃た 秋の出穂より なおよく揃た(掛け声)

(2)ハァー 場所だ場所だ 山内場所だ 上は妙見 その下薬師(掛け声)

(3)ハァー 場所だ場所だ 山内場所だ 奥は大師の ありゃ座禅石(掛け声)

(4)ハァー 一度ござれや 山内訳し 五穀豊穣 ありゃ守り神(掛け声)

(5)ハァー 柴燈木登りゃ 別当登り 鬼子登りて ありゃ夜が明ける(掛け声)

 

 

3.別当登

 

翌午前2時から別当(住職)と蘇民袋を捧げ持った総代が守護役に前後を守られ、

法螺貝、太鼓などを従えて進みます。

薬師堂に登ると護摩をたいて厄払いと五穀豊穣を加持祈祷します。

 

4.鬼子登

 

午前3時半から儀式の主要な役割を果たす「役付き」たちは

寺務所の井戸で素裸で水垢離をとり、身を浄めます。

鬼子は7歳の男子2名で、麻衣をつけ、鬼面を逆さに背負い、

丈夫な人におぶさり、午前4時から庫裏を出発して薬師堂に登ります。

 

5.蘇民袋争奪

 

薬師堂では早くからいい場所に陣取った裸男たちが

「ジャッソージャッソー」と景気のいい掛け声をかけ、盛り上がっています。

特に外陣と内陣の間に立てられた格子が特等席で、

裸男たちがとりついて溢れ、見物客も群がっています。

午前4時30分頃から小間木(蘇民将来=護符)を入れた

蘇民袋の争奪戦が始まります。

 

 

蘇民袋は麻布でできており、その中に小間木と呼ばれる

長さ1寸(約3㎝)の六角形の護符が五升升山盛り分入っています。

小間木は桂の木の一年目の若枝で作ります。

六つの面には蘇民、将来、子孫、門戸、☆、黒石寺が印されています。

麻袋は素裸の小刀を持つ親方により切り裂かれ、小間木が床にばらまかれます。

裸の群衆が群がり、堂内は熱気に包まれ、騒然となります。

 

裸男のみならず見物人の多くも混じり、40~50分ほど揉み合いが続きます。

1個の空の蘇民袋を求め、揉み合いは堂外へ移り、雪の田んぼの中まで続きます。

将棋倒しになったまま空の麻袋の締め口をしっかと握っている人から

順番に取り主(1人)、準取り主(若干人)及び参加賞が審判員によって判定され、

各人の口の中に取札と呼ばれる木札が押し込まれます。

激しい揉み合いの中でふんどしが外れ下半身があらわになる者もいます。

争奪戦の最中は、裸男たちは寒さを感じることはありませんが、

戦いが終わると熱気も醒め、急に寒くなり、全身に震えがくるといいます。

 

 

午前7時頃から警備本部において、取札と交換に取主、

準取主の表彰、参加賞(紙のお札とお守り、

蘇民袋を裁断した布切れなど)の授与が住職などにより行われ、祭りが終了します。

小間木を取った人や蘇民袋の切れ端を持っている者は、

災厄をまぬがれると信じられています。

 

 

【交通アクセス】

電車:東北新幹線「水沢」駅よりバスで30分、車で20分。

   東北新幹線「水沢江差」駅より車で15分。

車 :東北自動車道「水沢IC」より約25分。

   東北自動車道「平泉前沢IC」より約20分。

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?