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日本の100名城!~甲信越2~

2011年08月30日 | 海外旅行

 

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回も、甲信越地方(27番~29番)の続きです。

 

 

27番 上田城

 

 上田城

 

上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、

築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもありました。

北に太郎山、南に千曲川があり、

築城前は土豪小泉氏の古い城館が存在したと伝えられています。

城の南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込み総構えとし、

唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがありました。

 

上田城は、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により、

1583年に築城されて平城です。

真田昌幸が二度にわたり徳川軍を撃退した上田合戦が行われてことで有名です。

江戸時代には上田藩の藩庁が置かれ、

真田氏が信濃国松代へ転封された後は仙石氏が入城し、

破却された上田城を現在のような姿に再建しました。

仙石忠政により、再建された本丸の3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)など建物の

外壁は煤と柿渋で防水した板を用いた下見板張の黒い外観でした。

明治以降は、破却や城外への移築が行われて

城内には石垣と櫓が1棟残るのみでしたが、

昭和期に移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、

平成期には櫓門や塀などが木造復元されています。

 

現在は旧二の丸内が上田城址公園という公園になっていて、

毎年花見の季節になると多くの市民や観光客で賑わっています。

また、敷地内には市営球場、市民会館、市立博物館などが置かれています。

本丸跡には、明治に松平神社として建立された歴代城主を祀った神社があります。

現在では、真田神社と呼ばれています。

境内には古井戸があり、「城外への抜け穴だった」という伝説もあります。

三の丸の藩主居館跡には、松平氏時代の屋敷門と塀が残されています。

同地は現在上田高校の敷地として利用され、

門は学校の正門として使用されています。

 

[所在地]

長野県上田市二の丸

 

[交通アクセス]

鉄道:JR長野新幹線「上田」駅から徒歩約10分。

 

 

28番 小諸城

 

 小諸城

 

小諸城は、別名、酔月城、穴城、白鶴城。

長享年間に大井光忠によって築城されたと考えられています。

戦国時代、武田信玄の東信州経営のために現在の縄張りとなりました。

現在残っている城跡の元になったのも

信玄の軍師であった山本勘助の縄張りだと言い伝えられていますが、

根拠となる資料は発見されていません。

 

安土桃山時代から江戸時代にかけて、石垣を構築した近世城郭に改修されました。

現在のような構えとなったのは仙石秀久の改修によるもので、

三重天守もその頃に建てられたものでした。

天守には桐紋の金箔押瓦が用いられていましたが

寛永3年に落雷によって焼失してしまいました。

 

城郭は城下町である市街地よりも低地に縄張りされ、

市街地から城内を見渡すことができ、

このため穴城とも鍋蓋城ともいう別称があります。

また、浅間山の田切地形の深い谷を空堀として利用しており、

西側の千曲川の断崖も天然の防御陣として利用されていました。

 

[所在地]

長野県小諸市丁311

 

[交通アクセス]

鉄道:JR小海線・しなの鉄道「小諸」駅下車、徒歩約5分。

 

 

29番 松本城

 

 松本城

 

松本城には現在天守閣などが現存し、城跡は国の史跡に指定されています。

松本城と呼ばれる以前は深志城といい、市民からは烏城とも呼ばれています。

 

日本国内に12基現存している、安土桃山時代後期から江戸時代にかけて

建造された天守を有する城郭の内の一つです。

 

戦国時代の永正年間に、松本平の信濃府中に居を構えていた

信濃守護家小笠原氏が林城を築城し、

その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりと言われています。

後に甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、

武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下に置きました。

武田氏滅亡後の天正10年、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、

松本城に改名しました。

 

天正18年の豊臣秀吉による小田原の役の結果、徳川家の関東移封が行われ

当時の松本城主小笠原秀政も下総古河へと移されました。

代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、

天守を始め、城郭・城下町の整備を行いました。

 

その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、

小笠原秀政が返り咲きました。

大坂の役以後は、松平康長や永野家などの松本藩の居城として機能しています。

永野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家が代々居城としました。

 

享保12年には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務が執られました。

 

明治維新後、1872年に天守が競売にかけられ一時は解体の危機が訪れましたが、

市川量造ら地元の有力者の尽力によって買い戻されて難を逃れました。

明治30年頃より天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学校長小林有也らにより、

天守保存会が設立され、1903年より1913年まで

「明治の大修理」が行われました。

 

1930年、国の史跡に指定され、1936年には天守、乾小天守、渡櫓、

辰巳附櫓、月見櫓の5棟が国宝保存会により当時の国宝に指定され、

1952年にはこれら5棟が文化財保護法により改めて国宝に指定されました。

 

[所在地]

長野県松本市丸の内4−1

 

[交通アクセス]

鉄道:JR篠ノ井線・大糸線、松本電鉄上高地線「松本」駅東口から徒歩約20分。

   JR大糸線「北松本」駅東口から徒歩約7分。

バス:松本駅バス停から松本電鉄バス「タウンスニーカー北コース」で約10分、

   「松本城黒門」バス停下車。

   松本バスターミナルから、松本電鉄バス「浅間温泉」行きなどで約10分、

   「八十二銀行前」バス停下車。

自動車:中央高速松本インターチェンジから車で15分。

 

これから暖かくなって出かける機会も多くなります。

そんな時、目的を持って出かけられることは大いなる楽しみになります。

全国に散在する名城旧跡を訪ねてみるのも一興かと思います。

 


日本の100名城!~甲信越1~

2011年08月02日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回からは、甲信越地方(24番~26番)です。

 

24番 躑躅ヶ崎館(武田氏館・武田神社)

 

 躑躅ヶ崎館

 

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、

山梨県甲府市古府中にあった戦国期の居館です。

甲斐国守護武田氏の居館で、

戦国大名武田氏の領国経営における中心地となりました。

 

現在、跡地には武田神社があり、

また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されており、

県内では甲州市の勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世の城館跡です。

 

戦国時代に築かれた甲州源氏武田氏の本拠地で、

居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっています。

信虎、晴信(信玄)、勝頼3代の60年余りにわたって府中として機能し、

後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原形となりました。

 

県中部、甲州盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置します。

東西を藤川と相川に囲まれ、

背に詰城である要害山城を配置した構造になっています。

 

[所在地]

山梨県甲府市古府中町2611

 

[交通アクセス]

鉄道:JR中央本線「甲府」駅北口より北へ一本道2.2㎞。

   バス約8分「武田神社」下車、徒歩すぐ。

 

25番 甲府城

 

 甲府城

 

甲府城は、山梨県甲府市にあった城で、別名、舞鶴城。

 

甲府盆地北部、現在の甲府市中心街の一条小山に築城された

中世から近世にかけての平山城です。

甲斐国では戦国期から甲府が政治的中心地となり、

躑躅ヶ崎館を中心とする武田城下町が造成されましたが、

武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名が甲斐を支配し、

甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備されました。

豊臣政権では徳川家康を牽制する要所、

江戸時代では将軍家に最も近い親藩の城となりました。

天守台はありますが天守が建てられていたかは不明です。

浅野長政父子の時代に天守があったとする説があります。

江戸時代には初期の幕府直轄領時代から甲府藩時代、

享保年間に再び直轄領とされた甲府勤番時代を通じて統治の拠点となりました。

 

明治時代、1873年の廃城処分となった以降にも

甲府は政治的・経済的中心地として機能し、

甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ、

内堀が埋め立てられて官業施設化されました。

さらに中央線の開通と甲府駅の開業により城跡は分断されましたが、

戦後には城跡の発掘調査や史跡の整備が進み、

現在は、本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣、堀の一部が残り

武田氏居館とともに甲府駅周辺の観光地となっています。

 

また、出土遺物のうち鯱瓦と飾瓦は県指定文化財になっています。

 

[所在地]

山梨県甲府市丸の内1−5−4

 

[交通アクセス]

鉄道:JR中央本線「甲府」駅南口から徒歩約5分。

 

26番 松代城

 

 松代城

 

松代城は、長野県長野市松代町にある城郭です。

元々は海津城と呼ばれていましたが貝津城とも言われました。

また茅津城とも言われ茅の生い茂った地であったと伝える説もあります。

形式は輪郭式の平城です。

 

正確な築城時期は不明です。

戦国期には甲斐国の武田信玄が信濃侵攻を開始し、

北信豪族を庇護した越後国の上杉謙信との

北信・川中島地域をめぐる川中島合戦へと発展していきました。

千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備され、

「甲陽軍鑑」によれば武田氏は北信国衆である清野氏の館を接収し、

武田家足軽大将の山本勘助に命じて築城され、

「軍鑑」によれば本城には小山田虎満、

二曲輪に市川等張・原与惣左衛門が配置されたといいます。

 

文書上において海津城の築城は1559年から開始され、翌年には完成しています。

築城は屋代氏、香坂氏ら川中島四郷の国衆が担ったといわれます。

 

海津城は東条城・尼飾城とともに上杉氏への最前線に位置し、

永禄4年9月に上杉氏が川中島へ侵攻すると

城代の春日虎綱は海津城において篭城し信玄本体の到着を待ち、

9月10日には八幡原において両軍の決戦が行われたとのことです。

 

また、海津城は川中島四郡における領国支配・国衆支配の拠点としても機能し、

城代である春日虎綱は郡代的権限を持っていたと考えられています。

 

武田氏滅亡後に、織田氏家臣の森長可の居城となりました。

長可は武田遺臣の子息や近隣の村から人質を集め彼らを住まわせたのがこの海津城

あるいは海津城下であったといいます。

本能寺の変が起こると長可は信濃を放棄して退却することを決断し、

海津城の人質を盾にして美濃へと退却し海津城も無人のまま捨て置かれました。

以後は空白地帯となった信濃へと侵入した上杉氏の支配となったが、

1598年に上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の蔵入地となり、

城主に田丸直昌が任じられました。

 

甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つです。

千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、

甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有しました。

平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城が

海津城と構造的に非常に似通っているようです。

 

[所在地]

長野県長野市松代町松代44

 

[交通アクセス]

鉄道:JR長野新幹線「長野」駅から川中島バス「松代」行きで約30分、

   「松代」駅下車、徒歩約5分。

   長野電鉄屋代線「屋代」駅から徒歩約5分。

 

毎日暑い日が続いていますが熱中症に気をつけてお出かけ下さい。

そんな時、目的を持って出かけられることは大いなる楽しみになります。

全国に散在する名城旧跡を訪ねてみるのも一興かと思います。