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日本の100名城!~四国地方2~

2012年07月23日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回は、四国地方(78番~80番)です。

 

 

78番 丸亀城

 

 丸亀城

 

丸亀城は、丸亀市街地の南部に位置する標高60mの亀山を利用し、

縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りを堀で囲む、輪郭式の平山城です。

別名、亀山城、蓬莱城とも呼ばれています。

石垣は、緩やかですが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、

頂は垂直になるように独特の反りを持たせる「扇の勾配」となっています。

山麓から山頂まで4重に重ねられ、総高60mの石垣は日本一高く、

三の丸石垣だけで一番高い部分は22mあります。

頂部の本丸には江戸時代に建てられた御三階櫓が現存し、

現在は現存天守の一つとして扱われています。

この建物は唐破風や千鳥破風を施して漆喰が塗られ高さ15mで、

現存三重天守の中で最も小規模です。

 

内堀の周囲には侍屋敷が立ち並び、この周囲を外堀が方形に取り囲んでいます。

侍屋敷は明治時代に大半が取り壊され、

跡地に善通寺第11師団の丸亀歩兵第12連隊、

裁判所や小・中学校などが建てられました。

外堀は明治頃まで現存していましたが、

琴平参宮電鉄の路線延長とその後の廃線や旧国道11号の整備などにより、

年とともに減少し、一部残されていた南側の箇所も今は埋め立てられ、

外濠緑道公園として整備されています。

 

城跡の全域は国の史跡に指定されていて亀山公園となっています。

天守のほかに大手一の門・大手二の門・御殿表門・番所・長屋が現存していて、

天守・大手一の門・大手二の門は国の重要文化財に指定されています。

天守の最上階からは、瀬戸大橋など瀬戸内の風景を眺めることができます。

 

[所在地]

香川県丸亀市

[交通アクセス]

鉄道:JR四国予讃線「丸亀」駅から丸亀コミュニティバスで

   「丸山公園」停留所下車すぐ。

 

 

79番 今治城

 

 今治城

 

慶長7年、藤堂高虎によって築城開始され慶長9年に完成しました。

普請奉行として渡辺了の名が知られています。

今治城完成以前の今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城でしたが、

より能率的な都市経営を目指すため築城されました。

構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、

当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく

海を最大限に活用した城となっていました。

 

二の丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、

城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りだったようです。

慶長14年、高虎が伊勢国津城に移封となり、

同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝えられています。

高虎自身は移封されましたが今治領2万石は飛び地として

残り養子の高吉が居城としました。

 

寛永12年、高吉は伊賀国名張に移り、

代わって伊勢国長島城より松平定房が入城し、

以後、明治維新まで今治藩・久松松平藩の居城となりました。

広大な城郭は江戸260年間保たれましたが、明治維新以後、

廃城令により建築物は破却されました。

 

[所在地]

愛媛県今治市通町

[交通アクセス]

鉄道:JR予讃線「今治」駅から瀬戸内バスで「今治営業所」行きで約10分、

   「今治城前」下車、徒歩約3分。

 

 

80番 湯築城

 

 湯築城

 

湯築城は県立道後公園内にある河野氏の城跡です。

平野土塁が現存しています。

 

【歴史・沿革】

14世紀前半、伊予国守護河野氏によって築城されました。

東に追手門、周りに二重の堀をめぐらせた平山城でした。

 

1581年以後、四国制圧を担う土佐国の長宗我部元親が伊予に侵入し、

城主河野通直は元親と交戦しました。

 

1585年、四国征伐をめざす豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が

伊予に侵攻して金子元宅を攻撃、また湯築城は約1ヶ月の籠城後に降伏しました。

城に留まっていた河野通直は命は助けられましたが2年後に病没しました。

湯築城は小早川隆景に与えられましたが、隆景の所領は筑前に移されました。

 

1587年、福島正則が城主になりますが、

正則が国分山城に居城を移したため、廃城となりました。

 

1602年、勝山に松山城の築城が開始され、

以後、加藤氏が伊予国松山藩主となりました。

 

1888年、県立道後公園として整備されました。

2002年、国の史跡に指定されました。

 

[所在地]

愛媛県松山市道後町

[交通アクセス]

鉄道:JR予讃線「松山」駅から伊予鉄道「道後温泉」行きで約20分、

   「道後公園」駅下車、徒歩約1分。

 

日本列島の半分くらいが梅雨明して暑い日が続いていますね。

毎日のように熱中症で倒れる人や亡くなる人がでています。

まだ、夏はこれからです。

今年は節電がいわれていますので、

暑いからといって冷房を効かせた部屋に閉じこもっている訳にもいきません。

川や海、山は自然の涼風が吹いています。

暑さ対策をしっかりして思い切って外に出かけてみませんか。


日本の100名城!~四国地方1~

2012年07月09日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回から、四国地方(76番~77番)をお送りします。

 

 

76番 徳島城

 

 徳島城

 

徳島城は、JR徳島線徳島駅のすぐ東北側徒歩10分足らずのところにあり、

中心の城山は標高62m、山上に本丸跡、東に東二の丸、

西に西二の丸、西三の丸などの郭跡が残っています。

東山麓には表御殿、奥御殿がありましたが、現在は徳島公園となり、

表御殿庭園と御殿風建築物に徳島城博物館があります。

西山麓にあった西之丸屋敷はグランド、学校などになっています。

 

徳島城のあるところは鎌倉時代、富田荘といい、

伊予の地頭河野氏の支配地でした。

至徳2年になって足利尊氏とその子義詮に仕えた武将、

細川頼之が四国地方を収めたとき、吉野川の河口に近い支流、

助任川と新町川の間の中州上の小山に城を築きました。

 

当時この辺りは河川の水流がことのほか美しく、

その風景は伝えられる中国の名勝、渭山城あるいは渭水城と呼んだといいます。

その内城主は変わりましたが、

永禄年間には細川氏の臣森飛騨守高次が居城にしました。

 

天正10年、土佐に勢力を持った長宗我部元親が阿波攻略の兵を進め、

渭山城を落とし、阿波占領後は吉田孫左衛門康俊が城番をして在城していました。

天正13年になって豊臣秀吉が四国征伐を行う、

その際にめざましい活躍をした蜂須賀正勝、家政親子に、

その戦功として阿波国十八万六千石を与えました。

正勝は隠居し、阿波に入った家政は、はじめ阿波一宮城を居城としましたが、

あまりの高峻な山城だったので、秀吉の許しを得て、

一国経営により有利な渭津を城地と定め新しく城として、

本丸のある山城と御殿の立ち並ぶ山麓の平城とで構成される城を築城しました。

 

蜂須賀家政の築城工事は入国した天正13年に始まって

翌14年に完成したといいますが、これは城山上の本丸、二の丸、

三の丸辺りの工事で、さらに城郭と城下町の構築は続けられました。

やがて城郭は北は吉野川、

南は園瀬川を外郭とするほどの大規模な城下町となりました。

 

また、周囲を流れる大小の河川を堀として巧妙に利用し、

物資などの輸送にも便宜をはかり、

海上を眺望できる東二の丸には天守を築いて敵襲に備えていました。

御殿のそばを流れる寺島川沿いには珍しい折れ曲がり塀が巡らされていましたが、

他の建物と共に明治8年にはほとんど破却されました。

城跡は、明治38年日露戦争の勝利を記念して徳島公園となり、

一般に公開されています。

 

徳島城は城山の城地、東麓の表御殿庭をよく残していますが、

平成4年、表御殿外郭の鷲之門が復元されました。

現在も残って整備された表御門庭園は、回遊泉水と枯山水の兼用された造りです。

枯山水の庭に有名な踏割橋という大石の橋があり中ほどが割れています。

 

[所在地]

徳島県徳島市城の内

[交通アクセス]

鉄道:JR高徳本線「徳島」駅より徒歩約5分。

 

 

77番 高松城

 

 高松城

 

高松城の別名「玉藻城」とは、

万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、

高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされています。

 

高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、

天正15年讃岐1国の領主となった生駒親正によって、

「野原」と呼ばれた港町に築かれました。現在見られる遺構は、

江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された

松平頼重によって改修されたものです。

 

近世城郭の海域としては、最初で最大の例です。

本丸に建てられた天守は、

最下重が萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、

最上重が小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」でした。

その様子は、解体される以前に写真におさめられ、

また1884年にイギリスの週刊新聞「ザ・グラフィック」で

イギリス人のヘンリー・ギルマールの絵によって紹介されています。

 

現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、

城跡は「玉藻公園」として整備されています。

 

[所在地]

香川県高松市玉藻町

[交通アクセス]

鉄道:JR四国「高松」駅、高松電鉄琴平線「高松築港」駅下車。

車 :高松自動車道「高松中央IC」から香川県道43号・国道11号で。

船 :高松港サンポート高松

 

今年の梅雨はしとしと降る長雨というイメージと違って、

局地的な集中豪雨が目立っています。

原発反対や消費税増税反対という国民の意見を聴かない野田政権に

国民だけでなく天地も怒っているように思えます。

 

そもそも、

政治家が約束を守れないというのは政治家になる資格がないということです。

国民は先の総選挙で公約した約束事を信じて投票したのであって、

嘘つきに投票したのではありません。

もし、途中で意見が変ったのであれば、

もう一度総選挙をして国民に是非を問うべきではないでしょうか。

 

しかも、今の日本では国民が意見を言う場所がありません。

国民会議といっても、所詮は各省庁の代表が勝手に意見を言うのが相場です。

そもそも、

総理大臣を決める時に諸外国のように何故指名選挙が行われないのでしょうか?

もし、指名選挙であれば、

党内の派閥争いに勝ち上がって総理大臣になった歴代の総理大臣の内、

何人が実際に総理大臣になれていたでしょうか?

反対に、指名選挙であれば国民が選んだのだから、

政権の政策決定にも納得がいったかもしれません。

今の政治家には国会議員になることと

利権を貪ることしか考えていないように思えます。

まあ、政治家に限らず公務員全般にいえることだと思いますが…。