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日本の奇祭9「吉田の火祭り2」

2013年10月21日 | 国内旅行

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。
故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、
外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。
これを世の人は「奇祭」と呼びます。

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」
「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、
奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。
よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り
(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、
ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、
開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。
その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、
祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

特に言う必要はないと思いますが、
以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、
れっきとした郷土芸能であり、
日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

今回は、山梨県富士吉田市の吉田の火祭りの第2回目です。

吉田の火祭り(北口本宮冨士浅間神社:山梨県富士吉田市)

浅間神社と諏訪明神社

鎮火祭当日の北口本宮富士浅間神社拝殿

 

現在の吉田の火祭りは、
木花開耶姫命を祭神とする浅間明神(北口本宮浅間神社)と、
建御名方神を祭神とする諏訪明神社(諏訪神社)の両社の祭典として、
浅間社宮司が主宰して執行されています。
ですが元々は諏訪明神(諏訪神社)の旧暦7月23日の祭典でした。

諏訪明神は「甲斐国志」によれば、
神主である上吉田中宿の佐藤家の氏神であったものが、
後に上吉田の町の産土神になったものであり、
1494年(明応3年)の「勝山記」にもその名が見られます。

一方の浅間明神(現、北口本宮浅間神社)は、
現在地からやや西の大塚に設けられていた富士山遥拝所を、
1480年(文明12年)ごろ諏訪明神境内に鳥居を立て、同地に移されました。
その後永禄4年武田信玄造営と伝わる社殿が造られ、
富士山2合目の御室浅間(現、富士御室浅間神社)を勧請して
神社になったものと推定されています。

このような関係であったため、
天文年間や永禄年間の小山田信有の神事や軍功祈願状などの文書は
諏訪明神宛に発給されており、
当初は諏訪明神が富士信仰の北口拠点の中心的役割を
担っていたものと考えられています。

しかし、武田氏、小山田氏が滅亡すると、
吉田地域の近世領主たちは社殿の造営をはじめとする
各種寄進を浅間神社に行い、信仰の拠点を浅間神社へ移し、
元々諏訪神社の祭典であった火祭りは
浅間神社が主宰する両社の祭典となりました。

火祭りの起源伝説

 西念寺山門

 

上吉田とその東側に隣接する新屋地区には、
諏訪神社に関連した火祭りの起源が伝えられています。
長野県の諏訪大社では諏訪明神は蛇体になって現れるとされますが、
上吉田にも諏訪明神と蛇に関する伝承が残されています。

火祭りの神輿は浅間神社を出発して
上町から金鳥居のある下町へと下っていきますが、
このとき神輿とともに白い蛇が上吉田の町を上から下へと下っていくといいます。
そのため御師家では火祭りの当日に、
屋敷内を流れる川沿いの草刈りを行うなど水路を掃除し、
蛇神の通り道を迎えます。
これを「白蛇様のお下り」といいます。

また、富士道場と呼ばれ、
今日の火祭り祭礼にも深く関わる上吉田の時宗西念寺にも、
つぎのような火祭りの起源伝承が残されています。

 

昔、西念寺の僧が諏訪へ修行に行き帰る際、
木の枝を折って作った竜神を諏訪神社に祀り、
その竜神を杖の頭に入れて燃やしたのが火祭りであったといいます。
また、「古事記」上巻によれば、諏訪大社の祭神、
建御名方神が国譲りの力比べで負け、
信濃の諏訪湖へ追い込まれた際の夜戦で松明を燃やしたところ、
相手側の軍は無数の炎を援兵と見て退散したと伝わっており、
これが7月21日の夜であったといいます。
このように上吉田では、
諏訪明神ー蛇ー西念寺ー火祭りという関連で考えられてきました。

一方、浅間神社に関連した火祭り起源説も存在します。
上吉田の浅間神社は富士山を神格化した浅間神が祀られており、
神道説では祭神はこれを木花開耶姫命と説かれています。
木花開耶姫命にまつわる神話として
「古事記」上巻に書かれた火中出産が知られています。

邇邇芸命との一夜の交わりで懐妊した木花開耶姫命は、
邇邇芸命に疑われたので、身の証をたてるために、
出入り口のない産屋をつくり、
その産屋に火を放ち燃えさかる炎の中で3人の子を産んだといいます。
そのため、浅間神社の祭神の神徳は火伏せ、
安産、災厄除け、産業守護などといわれています。
こうした伝説を背景として神道説で説く火祭りの起源は、
燃えさかる炎の中で出産した木花開耶姫命の神話になぞらえて、
火を焚くのだといわれており、今日ではこの説が広く流布されています。

このような祭りに起源が複数あり不明であるのは、
それを記した記録が残っていないからです。
ですが少なくとも、現在の北口本宮富士浅間神社の摂社である
諏訪神社の祭りであったことは文献に残されているので、
木花開耶姫命由来説は辻褄が合わないと、
北口本宮富士浅間神社の権禰宜田辺将之は述べています。

祭日の変遷と祭礼の意味の変化

 

 富士山北口鎮火大祭図、1875年頃のもの

吉田の火祭りは、起源こそ明らかでないものの、祭礼そのものを記した文献は
1572年の上吉田移転の際の屋敷割帳に、
御旅所となる大玉屋の所に御幸道の記載があるので、
その頃すでに神輿による巡幸があったことが確認できます。
また、松明を燃やす篝火については、
1729年の篝火伐採訴訟の文書の中に、
祭典で火を焚くことが恒例である旨の記述が確認できます。

 

今日では8月26、27両日に行われる吉田の火祭りの祭日は、
過去にいくつかの変遷がありました。
文献に残された記録を年代順に追って見ていくと、
まず、1780年7月に富士登山を行った高山彦九郎は
「富士山紀行」の中で7月21日の火祭りに言及しています。
また、賀茂季鷹は富士登山に訪れた際に火祭りを見たが、
その日時は1790年7月21、22の両日であったと「富士日記」に記しています。
1814年の「甲斐国志」の記述では、
上吉田村の諏訪神社の祭礼は、7月22日で「其夜此屋皆篝松を焼く」とあり、
同時期に書かれた「菊田日記」によれば、
1804年から1834年までの火祭りは7月21日、22日に行われています。
さらに、西念寺に伝わる1853年の「富士道場日記」でも同様の日時であり。
元来の火祭りの祭日は
陰暦の7月21、22日であったことは間違いありません。

 

 1935年の吉田の火祭り

一方、開山(山開き)と閉山(山仕舞い)の日時については、
1860年の「富士山道しるべ」において
「当時は例年六月朔日をもつて山びらきといひ、
七月廿七日をもつて山仕舞いといふ」とあるのが、
山開き山仕舞いの日時を確認できる最も古いものです。

1872年に陰暦から太陽暦へと暦法が改正されましたが、
明治時代を通じ火祭りは陰暦7月21日、
山仕舞いは陰暦7月26日として行われていました。
ちなみに山梨日日新聞の記事に残されている祭事実施日はすべて新暦ですが、
1885年は9月1日、1887年は9月8日、
1908年は8月19日であり、これらはすべて陰暦の7月21日です。

このように陰暦を基準にした場合、
実生活上の太陽暦(新暦)では8月中下旬から9月初旬と、
祭日が毎年変動してしまうため、
明治末期から新暦での祭日に移行し固定する動きが始まりました。

 

まず、1910年(明治43年)の火祭りを陰暦7月21日の月遅れとして
新暦の8月21、22日に行われました。
1912年の社司氏子総代の会議では、
火祭りを新暦9月9、10日としましたが、議論が一致せず、
翌1913年には火祭りを新暦8月30、31日、
山仕舞いを9月10日としました。
ところが8月30日、31日は市町村などの計算日にあたるため、
参詣者が少なくなることから、1914年5月の会議で
火祭りを再び陰暦の7月21日に戻すことにしました。
しかし、その直後の会議で、火祭りは新暦8月26、27日と決定されました。
このように二転三転しましたが、
この時をもって吉田の火祭りは現在の8月26、27日両日に固定されました。
新暦の8月26日は陰暦7月26日の山仕舞いの月遅れの日です。
これにより火祭りと山仕舞いの日は重なることとなり、
火祭りが山仕舞いの意味も併せ持つこととなっていきました。

山仕舞いとは、富士登拝者らの「山の神」に感謝する日です。
こうして本来は諏訪神社の祭りだった火祭りは浅間神社の祭りとして取り込まれ、
同じ時期に火祭りの起源も諏訪神社の竜神や建御名方神による説話から、
浅間神社の木花開耶姫命が主体となる説話に
改変されていったものと考えられています。

祭礼に関する図画として最も古いものは、
1680年(延宝8年)に版行された「八葉九尊図」からはじまり、
江戸後期から明治期にかけ複数の祭礼図が残されており、
特に6色刷りの版図である「富士北口鎮火大祭図」
(富士山北口全図鎮火大祭)がよく知られています。
正確な年代は不詳ですが、図中右下に福地村の記載があることから、
上吉田村が外の二か村と合併して福地村となった
1875年(明治8年)以降に作製されたものです。

また、大正末期ころから「岳麓の奇祭」、
「日本三奇祭の一つ」などと呼ばれるようになりました。
火を使う祭りは各地で見られますが、
大抵は社寺の境内など特定の限られた場所で火を使うものが多く、
吉田の火祭りのように町中で焚くのは珍しく、
夜間の暗闇が普通であった近代初頭までの人々にとってまさに奇祭でした。

【交通アクセス】
電車:富士急行線「富士山」駅下車、徒歩3分。
車 :中央自動車道「河口湖IC」から県道138号線経由で10分。
駐車場:無料約300台。

 

日本の中には一体幾つの祭りがあるのでしょうか?
歩いていける距離に祭りがない地域は日本にはおそらくないでしょう。
どこにいっても、氏神はあるし、寺院は至る所建っているし、
地蔵に稲荷に道祖神、おまけに奇岩景勝地や山岳崇拝、
地域町おこしの商店街や青年団および婦人会など、
数え上げたら切りがありません。
しかも、一年を通して、どこかで必ず祭りはあります。
ならば、楽しまなければ損!
世にも不思議なお祭りから神秘な祭り、
裸祭りやちょっとエッチなお祭り、
そして素朴なお祭りまでおおいに楽しみましょう。


日本の奇祭8「吉田の火祭り1」

2013年10月07日 | 国内旅行

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。
故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、
外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。
これを世の人は「奇祭」と呼びます。

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」
「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、
奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。
よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り
(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、
ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、
開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。
その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、
祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

特に言う必要はないと思いますが、
以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、
れっきとした郷土芸能であり、
日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

今回は、世界遺産にも裁定した富士山周辺の
山梨県富士吉田市の吉田の火祭りの第1回目をお送りします。

吉田の火祭り(北口本宮冨士浅間神社:山梨県富士吉田市)

吉田の火祭りは、山梨県富士吉田市で行われる祭りです。
日本三奇祭の一つです。
北口本宮冨士浅間神社と境内社(摂社)である諏訪神社の両社による例大祭で、
毎年8月26日の「鎮火祭」と、
翌8月27日の「すすき祭り」の2日間にわたって行われます。

火祭りの名の通り、上吉田地区の金鳥居から
北口本宮富士浅間神社にかけた約1kmにおよぶ本町通りの沿道では、
高さ約3メートルの大松明70本から80本余りが燃やされ、
各家ごとに作られる井桁状に組まれた多数の松明も燃やされます。

 

夕暮れ時、大松明に次々に火が灯されると、
吉田口登山道に沿った富士山の山小屋でも一斉に松明が焚かれます。
麓の町と山は一体となって火祭りを繰り広げ、
上吉田の町は火の海と化し深夜まで賑わいます。

吉田の火祭りは、北口本宮富士浅間神社、諏訪神社、
両社の例大祭としてばかりではありません。
祭事の背景には富士講や御師といった富士山への民間信仰や、
富士五湖地域の風俗習慣、今日もなお神仏混合の姿が見られるなど
民族学的要素も多分に含まれています。

2000年(平成12年)12月25日に国によって
記録作成などの措置を講ずべき無形文化財として選択され、
2012年(平成24年)3月8日に、
山梨県内では3例目となる国の重要無形民俗文化財に指定されました。
文化庁による指定種別は、風俗習慣です。

[概要]

御旅所での11尺松明点火。

夏山の富士山登拝の山仕舞いを意味する祭りで、
講社でも火祭りまでに登拝を済ませています。
木花開耶姫命の故事に由来する祭りです、と一般には言われています。

かつては旧暦7月21日に行われていましたが、
明治期に新暦8月21日から22日に改められ、
大正初期に現在の8月26日・27日の両日に改められました。

祭りの運営は、
古くより北口本宮富士浅間神社祭典世話係(世話人)と呼ばれる
年ごとに選出された氏子代表14名の男性と、
御師家、富士講社らの信徒組織を主体として、
現在では地元商店や民間企業らも参加しています。

大松明(結松明)は高さ3メートル強、
赤松などの薪を経木で囲み荒縄で締めて筒状にしたものです。
世話人は松明の奉納者を募集して寄付金を集め、
依頼を受けた職人が7月下旬頃から製作します。
大松明は上吉田の本町通りに70本から80本ほど掲げられ、
沿道の家々でも門前に井桁松明を立てます。

 

御師家では屋敷地や白蛇が下ると言われる川沿いの草刈りや清掃作業を行います。
その年に不幸のあった者は「ブクがかかる」と言われ、
不浄であるとされて祭りには参加しません。
ブクのかかった家では「手間粉」と呼ばれる
小麦粉や蕎麦粉などの贈答物を贈る「手間見舞い」が行われ、
火祭りの際には親戚宅などへ宿泊するか(手間に出る)、
または手間着を着て自宅で謹慎を行います。

祭りは2日間にわたり行われます。
26日の夕刻から夜半にかけて松明を焚く行事、
鎮火祭が一般に「吉田の火祭り」と呼ばれますが、
鎮火祭はいわゆる宵宮であり、本祭は翌27日の「すすき祭り」です。
明治期には「富士山北口全図鎮火大祭」など浮世絵にも描かれました。

[御師のマチ上吉田]

吉田の火祭りが行われる富士吉田市は、
富士山北麓の山梨県東南部に位置しており、
富士山山頂を含む広大な市域を持ちますが、
富士吉田の町そのものは北口本宮浅間神社の北側に広がる一体です。

このうち火祭りの行われる上吉田は単に「吉田」、
江戸時代には「吉田町」とも呼ばれました。
2012年現在では市街化が進み範囲が明確ではないものの、
上吉田地区の中世以来の町並みは、
国道139号線(火祭りの行われる本町通り)を主軸とした、
南北1.000メートル、東西約700メートルの範囲です。
富士吉田市街地は標高約650メートルから900メートルにかけて広がり、
このうち上吉田地区は標高800メートル以上の地域にあります。
この標高のために気候は非常に冷涼であり稲作には適さず、
加えて富士山の溶岩流末端に位置した土壌は小石混じりで地力がなく、
農業に関しては、近代に入り圃場整備が行われるまで水田はほとんどなく、
大豆などの畠が僅かに点在する地域でした。

農業に適さないこの地に人々が居住し町が形成されたのは、
富士山に登拝する人々に対して、自坊を提供し、
信仰の仲立ちを行った富士御師や、複数の神職、
それを取り巻く人々が集まって住んだことによります。

 

ここ上吉田でいう「御師の仕事」とは、
富士山へ登拝するドウシャ(道者)にヤド(宿坊)と食事を提供し、
登山の案内全般の便宜を図ることや、
檀家廻りをしてお札を配り、祈祷や祓いをすることでした。
特にナツヤマ(夏山)と呼ぶ7月1日(山開き)から
8月26日(山仕舞い)までの2ヶ月間には、
御師の家には大勢のコウシャ(富士講者)を宿泊させ、
年間の収入の大半をこの2ヶ月間に得ていました。

御師以外の職業としては、山小屋、支度所(登山に必要な装備を整える場所)、
出店、強力など、いずれも富士山登拝に関わる職業が主体です。
このような特殊な風土と産業によって
上吉田の町は発展し人々の営みが継続されてきました。
南を見上げると大きな富士山を頭上に仰ぐ上吉田の人々にとって、
富士山が方位感の基準であり、
富士山に向かって南方向に向かうことをノボル(上る)、
反対に標高の低い北方向に向かうことをクダル(下る)と独自に表現し、
地区内で使用される地図の方位も富士山のある南側を上に表現します。

上吉田は大きく3つの地域に分けられ、
標高の高い富士山側(浅間神社側)の南方から、
上町(上宿)、中町(中宿)、下町(下宿)と、
今日の本町通りを縦軸にした町域が形成されており、御師と社人、
神職が居住するその細長い町並みをタテジク(縦宿)と呼んできました。
このタテジク(本町通り)で火祭りは行われます。

[火祭りの伝承と変遷]

吉田の火祭りの起源は、一般的には木花開耶姫命の神話になぞられていますが、
その起源を記した文献が存在しないため実際には不明なのです。

【交通アクセス】
電車:富士急行線「富士山」駅下車、徒歩3分。
車 :中央自動車道「河口湖IC」から県道138号線経由で10分。
駐車場:無料約300台。

 

いかがでしたか。
祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。
長年にわたって受け継がれてきた祭りには、
理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。
たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか。