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日本の奇祭35「一夜官女祭・ヘトマト・尻振り祭」

2014年11月17日 | 日本の奇祭

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。

故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

 

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、

外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。

これを世の人は「奇祭」と呼びます。

 

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

 

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」

「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、

奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。

よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り

(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、

ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、

開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

 

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。

その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、

祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

 

特に言う必要はないと思いますが、

以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、

れっきとした郷土芸能であり、

日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

 

今回は、大阪府の一夜官女祭、長崎県のヘトマト、福岡県の尻振り祭です。

 

一夜官女祭(野里住吉神社:大阪府大阪市西淀川区野里)

 

一夜官女祭は、大阪市西淀川区に鎮座する野里住吉神社において、

毎年2月20日に行われています。

 

この神社は、永徳2年(1382)、足利義満の創建と伝えられており、

その昔の野里には、暴れ川の中津川が流れていて、

打ち続く風水害と厄病の流行に苦しんだそうで、

近隣からは「泣き村」と呼ばれてきました。

古老たちは、村を救わんとの願いから、占いにより毎年定めた日に、

白矢の打ち込まれた家の娘を神に捧げることにしました。

人身御供の娘は、深夜に唐櫃に入れられて神社境内に放置されました。

 

ちょうど7年目の儀式の準備をしていると、一人の武士が訪れ、

村人たちの話を聞き、「神は人を救うもので犠牲にするものではない」と、

自身が身代わりになり唐櫃に入ることになりました。

翌朝、村人たちが神社に確認に行くと、

唐櫃は壊れ辺り一面は血に染まり、武士の姿は見当たりませんでした。

点々と続く血の跡をたどると隣村まで続き、

大きな狒々が絶命していたということです。

その後、この武士の正体は、大阪夏の陣で絶命した、

当時武者修行中であった岩見重太郎であると伝えられています。

この伝説は司馬遼太郎の小説にもなっています。

なお、狒々ではなく、中津川を大蛇に見立てた大蛇伝説も残っており、

淀川沿いの水害の多い土地柄から、

災害消除を祈願したのであろうと考えられています。

 

この一夜官女祭は、江戸時代から近郷に知れ渡ったもので、

一時上臈とも呼ばれ、明治40年までは旧暦1月20日に厳格な宮座制度により、

この神事が行われてきました。

 

 

この宮座は文化5年(1805)の「御供一件記」によると、

老若二座(24人)で組織され、

毎年祭礼の少し前に當矢一軒・上臈家七軒・年行事他諸役を決めます。

當矢は神事の為の宿であり、上臈家は七人の官女と侍を出し、

年行事は行事の監督と世話役です。

「一夜官女」はこの日一日だけ神に仕える役で少女が扮し、

総ての役が決まると當矢で宮座衆により

古来より決まった神饌を調整していました。

 

 

この宮座も昭和の初めに廃止、

新たに33人の宮座講が組織されましたが、これも昭和25年に解散、

現在は氏子総代が古式を継承し調整(神餞調整中は女人禁制)しています。

 

神餞の内容は白蒸し・鏡餅・小餅・串柿・大根煮・白菜煮・

小豆煮・豆腐白味噌煮の他、鯉(二枚おろし)・鮒(生のまま)・

鯰(白味噌煮)の川魚が添えられます。

元禄15年(1702)に作られた檜製の楕円形曲げ物桶七台は神社にて保存中で、

現在は昭和57年に複製された桶七台に上記神饌を入れ、

曲げ物桶の中央に「龍の首」、周囲には「御花」という

紅白の御幣が立て並べられています。

 

 

この七台の夏越桶に分納した特殊神餞と

當矢といわれる氏子の中から選ばれた7人の少女が神前に供えられます。

これらの供物は、岩見重太郎が身代わりになったときに

一緒に運ばれたものだといわれています。

 

 

また、人身御供の娘が運ばれた場所は社殿裏の龍の池だったそうです。

この池も長い年月の間に埋まってしまい、

形だけが残る状態となっていましたが、その跡地に乙女塚が建てられ、

犠牲になった娘たちが祀られています。

 

 

この「一夜官女祭」は、人身御供の作法が神事として伝わったものといわれ、

昭和47年には大阪府の民俗文化財に指定されました。

 

【交通アクセス】

電車:JR神戸線「塚本」駅下車、徒歩約10分。

 

ヘトマト(白浜神社:長崎県五島市下崎山町)

 

ヘトマトとは、古来より下崎山地区に伝わる奇祭で、

起源、語源については全く不明の民俗行事です。

 

 

毎年1月16日に白浜神社で行われる奉納相撲に始まり、

新婚の女性が酒樽の上に乗って行う羽根突きや、

グラと呼ばれる炭を顔や体に塗った締め込み姿男たち約100人が

藁で作った玉を激しく奪い合う玉せせり、

豊作と大漁を占う綱引きなどが行われます。

 

 

また、ヘトマト最大の見所である「大草履奉納」では、

長さ3m、重さ350㎏という巨大な草履が登場し、

その草履に見物客や沿道にいる若い女性を捕まえては乗せ、

草履ごと抱え上げて上下に揺らします。

 

 

ヘトマトは、豊漁や豊作、無病息災、子孫繁栄などを願って行われる祭りで、

国の重要無形民俗文化財にも指定されています。

 

【交通アクセス】

バス:福江港より五島バス崎山方面行きで「崎山」バス停下車、徒歩約3分。

 

尻振り祭(福岡県北九州市小倉南区井手浦)

 

尻振り祭は、毎年1月8日に北九州市小倉南区井手浦地区で行われるお祭りです。

八日座祭とも呼ばれ、小倉の三奇祭の一つとされています。

 

祭りのいわれは昔、平尾台にいた大蛇を神様が退治したところ、

尾が井手浦地区に落ちてピンピンと跳ね、

その年は大豊作になったことにちなんで始まったとされています。

 

 

祭会場である井手浦公民館には、

外に大蛇を模して編んだ長さ約4mのわらと的が設置され、

近くの東大野八幡神社の宮司と保存会の住民2人が、

腰をかがめて尻を左右に振り豊作と無病息災を祈った、

ユーモラスな動きで周囲の見物人を笑わせます。

 

 

クライマックスは宮司が日本刀でわらをまっ二つにします。

この中には干し柿が入っており、人々はそれを目がけ拾います。

 

 

この地区も高齢化で祭りを引き継ぐ座元を務められる人が減ったため、

地元住民の有志が井手浦尻振り祭保存会を結成されました。

郷土芸能の火を絶やさず、地域の宝を未来へ受け継いでいく、

そんな使命感にも感じました。

 

【交通アクセス】

航空:北九州空港から車で約40分。

電車:JR日田彦山線「石原町」駅下車、車で約5分、徒歩約30分。

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?


日本の奇祭34「キリスト祭り・ジャランポン祭り」

2014年11月05日 | 日本の奇祭

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。

故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

 

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、

外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。

これを世の人は「奇祭」と呼びます。

 

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

 

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」

「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、

奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。

よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り

(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、

ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、

開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

 

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。

その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、

祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

 

特に言う必要はないと思いますが、

以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、

れっきとした郷土芸能であり、

日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

 

今回は、青森県のキリスト祭りと埼玉県のジャランポン祭りです。

 

キリスト祭り(青森県三戸郡新郷村)

 

ゴルゴダの丘で磔にされたとされるキリストは、

実はキリストの弟イスキリで、本物のキリストは密かに日本に渡り、

106歳の天寿を全うしていた、という眉唾的な話があります。

 

そもそもの話の出所は、竹内文書と呼ばれる古文書にあります。

神代文字と呼ばれる象形文字のようなもので書かれた

竹内文書を解読した竹内巨麿は、1925年にこの地を訪れ、

キリストの墓を捜索し、ほどなく、文書にある通り、

新郷村でイエス・キリストの墓を発見しました。

 

さらに竹内文書には衝撃的なことが書き連ねられています。

イエスは21歳の時に初来日し、12年間神学について修行を重ね、

33歳の時にパレスチナに戻り、神の教えについて伝導を行ったが、

弟イスキリがゴルゴダの丘で身代わりに磔にされ、

処刑されたことを機に再来日し、ここ新郷で106歳の生涯を閉じたと言うのです。

 

エルサレムから青森県新郷村までは直線距離で約8900㎞です。

経由したであろうユーラシアの地には

イエス・キリストが立ち寄ったという記録は一切ありません。

弥生時代の中期、アラム語かヘブライ語しか解さない人物が

日本に到達するまでの道程は、聖者でもなければ不可能だと考えられています。

 

この伝説を持つ青森県新郷村の戸来地区には2つの十字架が残っています。

キリストの墓とされる「十来塚」が立つ戸来という地名は

ヘブライに由来するといわれ、この地に残る伝承歌ナニャドヤラは、

ヤハウェを讃えるヘブライ語の歌であるという説もあります。

 

 

新郷村の旧家に伝わる家紋は、

ユダヤのシンボル六芒星の「ダビデの星」と酷似しています。

不思議なことに、戸来小学校の校章には

ダビデの星と同じ形の籠目がデザインされています。

また、この地には子供の額に健康祈願などの意味合いを込めて

墨で黒い十字架を書く風習もあります。

なんと、キリストの子孫が村役場の職員として勤務しているそうで、

2006年に海外の取材も受けたそうです。

ウソみたいな話ですが、信じる信じないは全てあなた次第です。

 

 

これらをふまえて、毎年6月の第1日曜日には

戸来地区のキリストの里公園でキリスト祭が行われます。

キリスト祭では、神道式の慰霊祭が行われ、

ニャドヤラの唄と踊りが奉納されています。

 

【交通アクセス】

電車:JR東日本「八戸」駅から車で約1時間。

車 :八戸自動車道「八戸IC」から約1時間。

 

ジャランポン祭り(諏訪神社:埼玉県秩父市久那)

 

埼玉県秩父市の下久那という地域では毎年3月に、

「ジャランポン祭り」という陽気な葬式祭りを開催しています。

 

ジャランポン祭りとは、諏訪神社春祭りの前夜祭、

生きている人を生き仏(死者)に見立て、

一般的な葬式と同じことをしながら飲めや歌えの大騒ぎをするそうです。

生き仏役の方は、白装束をまとい、額には三角の紙をつけ、棺桶に入ります。

何故か、生き仏役は一升瓶を抱え、坊さん役は黒染めの袈裟をまといます。

お付きの坊さんたちは唐草模様の風呂敷姿というのだから、

その設定だけでもおかしいのです。

 

 

葬式には引そん、大堤、大はつ、小はつを用い出棺の仏事を営みますが、

この楽器でキン・ドン・ジャランと七・五・三または四・二・三に奏します。

ジャランポンとはこのにょうばちのすり合わせて発する音を表現したものです。

 

 

生き仏役は毎年何人かの候補から選ばれるのですが、

基本的には地元地域の方が担当しているとのことです。

もっとも重要とされる、お坊さんの役は、

決まった方が担当しており、でたらめでいい加減な言葉、

その人の失敗談など、ユーモア溢れる読経に、周囲は大笑いです。

酔いも回って、毎年大盛り上がりだそうです。

 

開催時間は1時間程度で、葬式が終わると神社へ棺桶を運び、

真っ暗な境内で万歳三唱し、生き仏が蘇るところでクライマックスを迎えます。

その由来について古老の話によると

「いつ頃から始まったものかよくわからないが

昔村内に疫病が流行した時、病苦に喘ぐ人々を救うため

諏訪明神に人身御供を献じ悪疫を退散したころによる」そうです。

今では諏訪神社の春祭りに行っているのですが、

江戸末期までは近くにあった宗源寺の行事であり、

ここで葬式を行い諏訪神社に送ったのだそうです。

 

宗源寺は「新篇武蔵風土記槁」によれば「諏訪山と号す。

曹洞宗大宮郷広見寺の末、本尊弥陀開山天秀春盛

文禄二年十月廿三日寂す」とあります。

寺は明治維新の神仏分離によって廃寺となり

祭りも諏訪の社に移されてしまいました。

この祭りが疫病除けの行事であることは位牌に悪病退散居士と記してあることや

古老の語る伝承によっても容易に理解することができます。

 

 

ジャランポン祭りの由来は他にもあって、

その昔、城落ちした殿様が諏訪神社の隣にある宗源寺に、

命からがら逃げつき、村人にかくまわれながら生きながらえ、

その殿様の厄除け縁起祭りとして始まったのだとか、

はたまた、神社のお祭りで酔っぱらった村人が

ふざけて騒ぎ始めたのがきっかけだとか、諸説あるようです。

 

なにはともあれ、地域の大切な行事であり、基本的に非公開ですが、

近年ではブログなどで情報が公開されてしまうことから、

興味を持つ方が増え、大阪など遠方から来る人もいるそうです。

 

【交通アクセス】

電車:秩父鉄道「影森」駅下車、徒歩約30分。

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?