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日本の100名城!~九州地方3~

2012年09月17日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回も、九州地方(91番~94番)です。

 

 

91番 島原城

 

 島原城

 

島原城は別名、森岳城、高来城といい、有明海に臨む雲仙岳の麓に位置します。

城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴です。

本丸は周りを水堀で囲まれていて、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がっています。

橋を壊せば本丸を独立させることができますが、逆に袋の鼠状態になり、

しかも廊下橋は、防備上矢玉が当たりにくくなるので、縄張りの欠陥ともいえます。

同じ事例に、高松城の天守郭があります。

また、天守は破風を持たない独立式層塔型5重5階で最上階の廻縁高欄を後に

戸板で託囲ったため「唐造り」のようになっていました。

 

江戸時代は島原藩の政庁であり藩主の居城でした。

成立当時の領主である板倉氏の知行は4万石でしたが、

総石垣で天守と櫓49棟を建て並べました。

火山灰や溶岩流でなる地盤での普請工事は困難であったとされ、

関わった領民の一揆を引き起こす一因となりました。

 

明治以降は廃城処分となり建物などは撤去され、

現在は本丸に天守・櫓・長塀が復興され、城跡公園となっています。

 

[所在地]

長崎県島原市城内

[交通アクセス]

鉄道:島原鉄道「島原」駅から徒歩約5分。

 

 

92番 熊本城

 

 熊本城

 

熊本城は、熊本市植木町の中心から南に伸びる舌状台地の尖端、

茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城です。

現在の熊本市本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たります。

別名を銀杏城ともいいます。

 

中世には千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて

加藤清正がこれに取り組み、現在のような姿の熊本城を築きました。

「清正流」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、

五階櫓などが詰め込んだように建てられ、

一大名の城としては「日本一」であるとの評価もあります。

 

細川氏の居城となった後もさかんに改築が行われ、

明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していましたが、

熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、

西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失しました。

現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残っています。

石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、

明治22年の大地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、

ほぼ江戸期の改築による変遷の痕跡をとどめ、城跡は特別史跡に指定されています。

昭和時代初期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、

近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われています。

 

[所在地]

熊本県熊本市本丸1−1

[交通アクセス]

鉄道:JR肥薩線「熊本」駅頬当御門まで「九州産交バス」で約18分。

   熊本市電「杉塘」電停より城内まで約150m、

       「熊本城前」電停より城内まで約30m、櫨方門まで約400m、

        頬当御門まで約600m。

       「市役所前」電停より城内及び須戸口門まで約200m。

 

 

93番 人吉城

 

 人吉城

 

人吉城は、相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁の置かれた所です。

 

人吉城は市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれていて、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用しています。

球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている、梯郭式の平山城です。

本丸には天守は築かれず護摩堂があったと言われています。

 

幕末に築かれた石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である槹出工法を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣があります。

この武者返しは城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、ねずみ返しのように城壁越えを阻止するとともに、割合簡単に落下させられるようになっていて、城壁に張り付いた敵への攻撃にも使えるようにしています。

この城壁は日本の城では他に函館の五稜郭と鶴岡城にしかない珍しいものですが、いずれも人吉城の石垣程の規模には及びません。

 

現在の城跡は「人吉城公園」として整備され櫓や塀が復元されています。

また、城址の西側には人吉市役所、相良護国神社があります。

 

[所在地]

熊本県人吉市麓町

[交通アクセス]

鉄道:JR肥薩線「人吉」駅より徒歩約10分。

車 :九州自動車道「人吉IC」から県道54号線で約5分。

 

 

94番 大分府内城

 

 大分府内城

 

大分府内城は、府内城または大分城とも呼ばれ、大分藩の藩庁にあった所です。

 

大分府内城は、大分市街の中心に位置する梯郭式平城です。

安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高が

府内の荷落に築城を始めましたが、福原氏は改易され、

関ヶ原の戦いの後に3万3千石で入封した竹中重利が完成させました。

 

江戸時代には府内藩2万石の藩庁が置かれていましたが、

明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は破却され、

堀の一部が埋め立てられました。

さらに太平洋戦争時の空襲により櫓が数棟焼失しました。

 

現在、城跡は大分城址公園となっています。

本丸跡北西隅に人質櫓と西丸に宗門櫓が現存し、

大分県の史跡に指定されています。

また、3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋が復元されています。

西丸跡には1966年に大分文化会館が建てられ、

三の丸跡には大分県庁・大分市役所などがあります。

 

[所在地]

大分県大分市荷揚町

[交通アクセス]

鉄道:JR日豊本線「大分」駅北口より徒歩約10分。

車 :大分道「大分IC」から県道21号線・国道210号線・国道197号線経由で。

 

今年の夏は全然雨が降りませんねえ。

台風16号が近づいてきて数日前から期待していた雨が、

今日になってやっと降りました。

雨の少ない影響でお米のできはすこぶるいいようですが、

果物は雨が少ない影響で甘みが少ないようです。

水不足の影響が出ている所もあると聞いています。

出かけるには雨が少ないにこしたことはありませんが、

秋の長雨というくらい、

昔から秋の雨降りは情緒と考えられてきました。

しとしと降る雨に降られながら出かけるのもオツなものですよ。


日本の100名城!~九州地方2~

2012年09月03日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回も、九州地方(88番~90番)です。

 

 

88番 吉野ヶ里遺跡

 

 吉野ケ里遺跡

 

吉野ケ里遺跡とは、佐賀県の吉野ヶ里丘陵におよそ50ヘクタールにわたって残る、

弥生時代の大規模な環境集落の遺構です。

 

昭和61年からの発掘調査によって発見され、

現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっています。

物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く

日本の城郭の始まりとも言えるものです。

 

【遺構】

佐賀県東部は、福岡県境に標高1000m前後の脊振山地を北端に、

脊振山地南麓の丘陵地帯、佐賀平野、有明海へと移るにつれて標高が低く、

南に開けた地形となっています。

吉野ヶ里丘陵はこの脊振山地南麓の丘陵地帯の一つです。

 

吉野ケ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構であることです。

弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた

総延長約2.5㎞の外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなります。

壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていました。

また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていました。

大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられています。

北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と命名されています。

 

内郭の内外に建物の遺構が発見されました。

竪穴住居、高床住居は祭祀に携わるものや

その側近が暮らしていたと考えられており、

祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂とともに内郭の中で見つかっています。

また、食料を保存する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、

青銅器製造の跡なども発掘されました。

 

多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓は、

住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられています。

一方、遺跡の南部と北部にあわせて2つの墳丘墓があり、

こちらは集落の首長などの墓ではないかと考えられています。

発掘されて甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、

首から上が無いものなどがあり、

倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見て取れます。

また、ガラス製の管玉などの装飾品が

一緒に埋葬されたものも多く見つかっています。

 

多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土しています。

勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、

布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなどがあります。

1998年には、九州で初めてとなる銅鐸が遺跡の周辺部で発見されました。

九州北部で製造されたと推測されていて、形状から福田型銅鐸とみられています。

 

出土した遺構や出土品には、九州北部をはじめとした

日本各地のものと共通・類似した特徴を持ったものが見られますが、

中国大陸、朝鮮半島、南西諸島と共通・類似したものも多く見られていて、

吉野ヶ里への渡来人の来航や吉野ヶ里から各地域への渡来によるものとみられ、

様々な面での共通性が見られます。

 

また、遺構内にある3基の前方後円墳は、

弥生時代の集落が消滅した跡に造られたと考えられています。

 

【歴史】

(縄文時代)

縄文時代後期には、

吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されています。

 

ここに人が生活し始めた大きな理由として、

この地域が海と近かったことがあると考えられています。

最終氷期が終わり温暖となった縄文時代前期には、

縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、

有明海は吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、

遺跡から2~3㎞ほどの距離にあったと推定されています。

 

有明海は干満の差が平均で5~6mと大きく、また遠浅の干潟を持っています。

この干満の差や筑後川などの河川を利用した水運の優れたこと、

また貝やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、

この地域に人の定住が始まったと考えられています。

 

(弥生時代)

紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、

これが大規模な集落へと発展することになりました。

 

前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始め、

また、南のほうの集落に環壕が出現します。

 

中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現します。

集落が発展していくとともに、防御が厳重になっていきます。

また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになります。

大きな墳丘墓になると南北約46m、東西約27mの長方形に近い墳丘で、

高さは4.5m以上あったと推定されています。

頂上から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり、

本州の他の地域でも見当たらないものです。

 

後期には、環濠がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、

3世紀ごろには集落は最盛期を迎えています。

北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られます。

 

海岸線は次第に遠ざかり、

この時代には神埼市千代田町や佐賀市諸富町付近にありました。

筑後川の河口もまたその付近に移ったと推定され、

遺構からは港のようなものがあったと推定されています。

吉野ヶ里丘陵は東西両岸を流れる城原川と田手川を通して、

この港と交流を持ったと考えられています。

 

(古墳時代)

古墳時代の始まりとともに、吉野ケ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ

埋め尽くされてしまいます。

集落はほぼ消滅して離散します。このようなことは、

近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿っています。

 

また高地性集落も消滅します。

それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や

高地性集落の必要性が無くなったからです。

古墳時代になると吉野ケ里遺跡の住居は激減し、

丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれました。

人々は、低湿地を水田に開拓できるようになり、

生活の基盤を平野に置くようになったのです。

 

(律令制時代)

奈良・平安の律令時代には、

神埼郡の役所的な性格の建物があったと推定されます。

律令時代には土地の区画整理を条里制といいましたが、

「吉野ヶ里」の「里」はその呼び名が今も伝わって残っているもので、

旧神埼郡内には他にも「○○ヶ里」という地名が多く見られます。

 

(近代以後)

佐賀の乱の際は付近で激戦が展開されましたが、戦前から、

少しずつ遺物の出土が見られるようになり、

少数ながらもこの遺物や遺構を学術的に研究する動きが始まっています。

しかし、大きな盛り上がりを見ることはありませんでした。

 

(工場団地造成計画)

1970年代に、農地や果樹園造成、土地採りによって遺構の一部が壊されました。

また、このころから吉野ヶ里丘陵一帯の広い範囲で

甕棺が出土するようになりました。

また、県立高校の移転改築の候補地になりましたが、

広範囲にわたって遺物が出土していたために断念されました。

 

1970年代後半、佐賀県によって調査が計画されましたが、

事前調査に追われて実施に至りませんでした。

 

1980年代に入って、企業誘致の為に佐賀県は

吉野ヶ里丘陵南部に工場団地の開発を計画しました。

その際、文化財発掘のための事前調査を1982年から始めました。

1986年の本格調査によって、

約59ヘクタールもの広範囲に遺跡が広がっていることが判明し、

県は工場団地計画を縮小することにしました。

 

(本格的な発掘)

考古学者の佐原真をはじめとして、県や市民団体による啓発活動が高まりを見せ、

1989年2月23日、一部の報道機関によって大々的な報道が始まりました。

ちなみに、この前日の2月22日が「吉野ケ里遺跡で大規模な環濠集落が

発見された日」とされています。

これにより連日全国から大勢の見学者が訪れるようになり、

同年3月には県は遺跡と重複する地域の開発を中止しました。

 

その後1990年5月に史跡、1991年4月に特別史跡に指定され、

1992年には閣議によって国営歴史公園の整備が決定しました。

 

報道がなされた当初は邪馬台国に関係する遺跡ではないかとの見方もあり、

一部で九州王朝説も取り上げられました。

現在は、九州北部にあった複数の「クニ」の1つに過ぎないのではないか

という見方がされています。

 

[所在地]

佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市

[交通アクセス]

鉄道:JR長崎本線「吉野ケ里公園」駅より東口(メインゲート)まで約700m。

   JR長崎本線「神埼」駅より西口まで約600m。

   西鉄天神大牟田線「西鉄久留米」駅、JR鹿児島本線「久留米」駅より

   バス(40系統)乗車、「田手」停留所下車。

   西鉄天神大牟田線「西鉄久留米」駅、JR鹿児島本線「久留米」駅、

   JR長崎本線「佐賀」駅よりバス(40系統)、JR鹿児島本線・長崎本線

   「鳥栖」駅よりバス(43系統)乗車、「田手」停留所下車。

   バス(40系統)乗車、「田手」停留所下車。

空路:福岡空港より「佐賀第二合同庁舎」行きバスに乗車、

   吉野ヶ里歴史公園前下車。

 

 

89番 佐賀城

 

 佐賀城

 

佐賀城は、江戸時代の初期に完成し、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城でした。

別名を沈み城、亀甲城とも呼ばれました。

 

佐賀城は佐賀市の中心に位置し、城郭の構造は輪郭梯郭複合式平じろです。

幅50m以上もある堀は、石垣ではなく土塁で築かれています。

平坦な土地にあるため、

城内が見えないように土塁には松や楠が植えられています。

城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつて幾重にも外堀を巡らし、

攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵の侵攻を防御する

仕組みになっていることから、「沈み城」とも呼ばれてきました。

 

江戸時代には、城下と城内に掘割が縦横に張り巡らされ、

生活用水に使用されていました。

また、城下には豊前小倉から長崎まで続く長崎街道が通り、

宿場町としても栄えました。

 

明治時代初期に興った佐賀の乱により大半の建造物は焼失し、

鯱の門と続櫓のみが残っており国の重要文化財に指定されています。

 

現在、城跡には県庁、合同庁舎、放送局、美術館、博物館、小中高の各学校、

公園など公共施設が建ち並んで佐賀県政治経済の中心地となっています。

 

[所在地]

佐賀県佐賀市城内一丁目

[交通アクセス]

鉄道:JR長崎本線「佐賀」駅南口より徒歩で県庁方面へ、「栄城橋」を右折し、

   そのまま直進です。

バス:JR長崎本線「佐賀」駅バスセンター3番乗り場から

   【6】佐賀城跡線で約10分、サガテレビ前バス停下車すぐ。

タクシー:JR佐賀駅からタクシーで約10分。

 

 

90番 平戸城

 

 平戸城

 

平戸城は、江戸時代には平戸藩松浦氏の居城で、

平戸島の北部、平戸市街の東部に位置しています。

平戸港を見下ろし、

対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にありました。

別名を亀岡城、亀甲城、日之嶽城とも呼ばれました。

 

三方を海に囲まれ天然の堀としています。

丘陵の頭頂部に本丸が築かれ、その南側に二の丸、

東側に三の丸が配された梯郭式の平山城でした。

 

最初は安土桃山時代の末期に松浦鎮信によって築かれましたが破却され、

江戸時代中期になって再建されました。

再建にあたっては山鹿素行の軍学に沿って縄張りがなされました。

平城の赤穂城と並んで、平山城では唯一山鹿流による城郭です。

 

【狸櫓の伝説】

現在の狸櫓には、次の伝説が残っています。

櫓の床下に狸が住み出しました。

天保初年、櫓の修理のため床板をすべて剥ぎ取りました。

するとある夜、小性に化けた狸が藩主の寝所にやってきて、

我ら一族を櫓に棲ませて頂きたい、そうすれば城を永代守護すると嘆願したので、

翌日、床を元通りに戻してやったといいます。

これ以後、この櫓は狸櫓と呼ばれるようになりました。

 

[所在地]

長崎県平戸市岩ノ上町亀岡公園

[交通アクセス]

鉄道:松浦鉄道西九州線「平戸口」駅よりバス。

車 :佐世保道「佐世保みなとIC」から国道204号線で。

 

9月に入ってスカっとした日が少なくなってきました。

これも秋の兆しなんでしょうか。

やたらと台風が発生したり、真夏に少なかった雷雨が頻発したり、

ちょっと毎年の秋の訪れとは様相を異にしますが、

確実に秋はそこまできています。

秋といえばもちろん食欲の秋、

そして一年を通じて最大の行楽シーズンでもあります。

家族みんなで秋を堪能しに出かけてみませんか?