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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

宇和町岩木の如意輪観音像

2000年06月07日 | 信仰・宗教
 以前、宇和町岩木の方から、私のところに仏像を鑑定してくれないかという依頼があった。しかし私は鑑定師ではない。仏像は好きではあるが、あくまで趣味の域を越えないのだ。ただ、話によると、その仏像は秘仏で見る機会は少ないという。「見てみたい」という衝動にかられて、ついつい、承諾してしまった。
 その時に見せていただいてまとめた文章をここで掲載しておく。

 宇和町岩木の河内地区には、観音像を祀る小堂がある。今回、地区の方々のご好意により、その観音像を拝見することができたので、ここで像に関する概要をまとめておきたいと思う。
 像の名称は「如意輪観音菩薩」である。この尊名の「如意」とは如意宝珠、「輪」とは法輪のことで、如意宝珠と法輪に象徴される功徳で宝財を施し、一切衆生の世間出世間にわたる心願を成就される働きがあるといわれる。この像が如意輪観音菩薩である根拠は以下の通りである。
 如意輪観音像は一般に一面六臂が多く、右の第一手を頬にあて、第二手を胸前に位置させ宝珠を掌上に持ち、第三手は念珠を持つ。左の第一手が台座を押え、第二手は蓮華を握って、第三手は宝輪を捧げている。足は右膝を立てて趺坐する。岩木の観音像は、まさにこの像容であり、典型的な如意輪観音であるといえる。
 如意輪観音の時代的変遷について確認しておきたい。奈良時代後期には『如意輪陀羅尼経』などに説かれる二臂像で、左手に如意宝珠、開蓮華を持ち、右手を説法印にする姿である。平安時代以後、『観自在菩薩如意輪瑜伽』に説く先述の六臂像が多くつくられる。これは胎蔵界曼陀羅蓮華部院にあらわされており、空海により日本に伝えられたものである。代表的な作例としては、大阪府観心寺の木造如意輪観音坐像(平安時代前期)、奈良国立博物館所蔵の木造如意輪観音坐像(9世紀末~10世紀初)、滋賀県園城寺の木造如意輪観音坐像(10世紀末~11世紀初)、京都随心院の木造如意輪観音坐像(13世紀前半)がある。愛媛県内では、城川町魚成の水野義久氏蔵の如意輪観音立像(城川町指定文化財)、津島町鵜の浜慈済寺の如意輪観音像(津島町指定文化財)がある。
 岩木の観音像の製作年代については、墨書銘を確認していないので、断定することはできないが、その形状と堂の棟札から推測してみたい。
 観音像を安置する堂が建築された際の棟札は厨子内に2枚残っている。元禄3(1690)年のものと、慶応3(1867)年のものである。元禄3年の棟札には、瀧石山龍聖寺が「補陀洛大士道場」であるという記述があり、「補陀洛」とは観音菩薩の住む場所であることから、この寺が観音菩薩を祀っていたことがわかる。同じく、「以七寶欲厳飾菩薩尊像」とあることから、堂を建てた際に観音菩薩像の装飾を施したことがわかる。このことから、この元禄三年時に観音像の台座、光背等を製作したと考えることができる。本像はそれ以前に製作されたものであろう。寺の創建については元禄3年段階で「不知」となっており、おそらく中世にまで遡ることができると思われる。このことから、本像の製作も中世ではないかと思われる。
 像の形状から時代を推測してみると、
1 足の指が写実的であり、室町時代頃のものであると思われる。
2 鼻、鼻の穴の形が鎌倉時代以降である。
3 耳たぶが反っており、鎌倉時代以降の様式である。
4 宝珠の蓮弁の反りがないので室町時代以前である。
5 足元の衣文の形が写実的で中世の製作と思われる。
 これらのことから総合すると、室町時代の製作ではなかろうか。ただし、鎌倉時代の様式を否定する要素も少ないため、鎌倉時代まで製作時期が遡る可能性もある。いずれにせよ、墨書銘の確認ができないことには断定はできないが、中世の製作と思われる。
 台座、光背は、形状からみても、やはり江戸時代のものと思われる。その根拠は蓮弁の反り返りがきついことである。台座、光背については、宇和町指定文化財の郷内の阿弥陀如来意坐像のものや、新居浜市高木町河内寺の木造薬師如来坐像(平安時代作)のもの、北条市八反地宗昌寺の木造文殊菩薩坐像(室町時代作)のものに類似している。これはともに江戸時代初期に製作されたものと推測されている。
 よって、岩木の観音像は、中世(室町時代か)に製作されたものを、元禄三年に修復して現在に至っているといえるのではないだろうか。
 最後に、このお堂についてまとめておく。「神山県寺院明細帳」(明治5年)によると、岩木村には「龍石山龍福寺」という天台宗山門派の寺院があったことが記されている。僧侶はなく、小野田村(宇和町)の極楽寺住職が兼務していたとあり、祈願檀家も0軒である。地元の言い伝えでは龍福寺は別の場所に存在したとのことであるが、山号が同じことから、このお堂(「龍石山龍聖寺」)も天台宗山門派(江戸時代には修験道本山派聖護院末)であったと推測できる。宇和地方では、この宗派の統括が源光山明石寺であった。当時、明石寺は本山派修験の年行事(全国に36寺ある中の一つ)であり、龍聖寺はその管轄下にあったものと思われる。
 結局、龍聖寺は、慶応年間には堂の改築が可能なほど経済的余裕があったのであるが、明治初期には既に僧侶、山伏のいない廃寺同然になり、河内地区管理へと移行したものと思われる。

2000年06月07日

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